ノーサイド
間もなく彼らは、もう一つの鉄扉にたどり着いた。それを抜けた先は、居酒屋の中だった。マリーはびっくりして、ルクスに目を向けた。金髪の青年は、ぱちりと片目を閉じて見せた。どうやら彼は、扉の魔法を駆使して時間を節約するつもりのようだ。
カウンターの向こうにはゲンジロウがいた。百手巨人の大将は、小さなコンロで小さな串焼き肉を焼いている。彼の隣では、角が折れて青あざをあちこちにこさえたシェフが包丁をふるい、なにやらグロテスクな魚をさばいていた。六席あるカウンター席には、テツとミカエルと二人の騎士の姿があった。彼らは並んで座り、談笑しながら酒を酌み交わしている。そして、どこから運び込んだのか、真っ白い大理石のテーブルが店の片隅に置かれ、そこにはラビーノ伯爵夫妻が着き、傍らにはジェームズが控えていた。伯爵家の人たちは、そこかしこに包帯を巻き、なんとも痛々しい姿ではあったが、特に気にするでもなく、機嫌よく飲んで食べていた。
「いらっしゃい」
ゲンジロウが言って、カウンターの上に四つの小鉢とコップを並べてから、ジェームズに目配せした。ジェームズは一つ頷いてから小走りで厨房へ向かい、椅子を二脚持って戻ってくる。先客の四人がそれぞれ席を詰め、カウンターにどうにかすき間を作ると、ジェームズはそこへ椅子を押し込んだ。
「使っちまって悪いな、ジェームズさん」
ゲンジロウは串焼き肉を焼く手を休めず、ニヤリと笑っていった。
「いえ、お安いご用です。ところで旦那様のために、背肝を一皿お願いできますか?」
「あいよ。塩でよかったな?」
「はい、それで結構です」
ジェームズはぺこりとお辞儀をして、ラビーノ夫妻のテーブルのそばに戻った。マリーたちがカウンター席に落ち着くと、ゲンジロウはオレンジ色の液体が入った小瓶を取り出し、マリーとハリーとジローのコップにそれを注いだ。
「こいつは酒じゃねえぜ?」
ゲンジロウはニヤリと笑って言った。約束通り、子供が飲めるものを用意してくれていたようだ。
「ありがとう、大将さん」
マリーは礼を言った。ゲンジロウは、ルクスに目を向けた。
「あんたはどうする?」
「そうだね。ビールをもらうよ」
ゲンジロウはルクスのコップに泡立つ褐色の液体を注いだ。
「肴は、何か甘いものがいいな」
ルクスは言った。
「生憎と、菓子は扱ってねえんだ。ちょいと屋台へ行って、何か買ってこようか?」
と、ゲンジロウ。
「いや、さすがにそれは悪いよ。とりあえず、おまかせで何か焼いてくれるかい?」
「あいよ」
ゲンジロウは快く応じた。マリーはふと思い出して、エプロンのポケットから半分だけのクッキーを取り出し、ルクスの前に置いた。
「気をつけろ、ルキフェル。マリーが差し出したクッキーのせいで、私は地獄でドラゴンと戦う羽目に遭ったのだ。それを口にしたら、君も彼女の虜になってしまうぞ」
ミカエルがニヤリと笑って警告した。
「ミカエル、それは君がいじきたなく、何個も食べたからだ」
ルクスは言って、果敢にも半分だけのクッキーを頬張った。
「考えてみれば我々も、彼女のせいで地獄まで足を延ばすことになったんだったな」
ペイル伯爵が言った。
「しかし、酒も肴も絶品で、多くの友人が出来た。こんなに素晴らしい報酬をくれた彼女に、我々は感謝しなければ」
レイブン男爵は言って、マリーに微笑みかけた。
「そうだな。しかし、酔っぱらって帰ったら、ドロシーがへそを曲げるだろう」
「ラビーノ伯爵たちよりも、奥さんの方が怖いってわけ?」
ハリーがたずねた。
「当然だ」白騎士は断言した。「しかし、妻の怒りにも、果敢に立ち向かってこその騎士か」
「健闘を祈る」
黒騎士はコップを掲げ、白騎士はそれに自分のコップを合わせた。
「愉快な知り合いが多いんだな、マリーちゃんは?」
蜥蜴男のテツが、わざわざ席を立ち、マリーのところへやって来て言った。
「おかげで今日は、とびきり酒がうまい。みんなを連れてきてくれて、ありがとうよ」
「半分はルクスさんが連れて来た人たちよ」マリーは指摘し、シェフをちらりと見てから続けた。「でも、どうしてみんな、仲良くなってるの?」
「タイマンはったらマブダチなんだよ」
ハリーが言った。
「俺たちはタイマンじゃなくて、二対一だったけどな」
テツは訂正した。
「ノーサイドって言葉がある」と、ルクス「試合中は敵同士でも、終われば敵も味方もないって意味さ」
「領主様と伯爵様の馬上試合も同じだったわ」
マリーは二人の騎士をちらりと見てから、ハリーに目を向けた。
「あなたの言うことが、はじめて理解できたみたい」
ハリーはニヤリと笑い返した。
「さて、そろそろ行かないと」
ルクスはコップを空にして席を立った。
「来たばっかりじゃねえか。もうちょっと、ゆっくりしていけよ?」
ゲンジロウが言った。
「王様は忙しいんだ」ルクスは肩をすくめた。「そうだ、大将。みんなのお勘定は、僕につけておいて構わないからね」
「さすが王様、太っ腹だ」
テツが言って、グラスを掲げた。ルクスはにこりと笑って見せてから、マリーに目を向けた。
「ちょっと待って。私、まだ何にも食べてないわ」
マリーは焦って言った。
「じゃあ、急いでやっつけて。あまり彼を待たせると、機嫌を損ねるよ」
マリーは小鉢をかき込み、急いでコップの中の甘い液体を飲み干して、椅子から飛び降りた。
「ちょっと、お嬢さん」
ラビーノ伯爵夫人が手招きした。マリーが歩み寄ると、彼女はナプキンで彼女の口元を拭い、手を差し出した。
「口紅を貸しなさい」
マリーはポケットから口紅を取りだし、夫人に渡した。夫人はマリーの崩れた口紅を直してから言った。
「お化粧をして飲んだり食べたりする時は、もうちょっと気を配った方がよろしくてよ」
「ありがとうございます、奥様。今度から気を付けます」
マリーがお辞儀をすると、夫人は彼女をじろじろ見て言った。
「それにしてもあなた、本当にうまそうなお嬢さんね。ちょっとお尻のあたりを、かじらせてくれないかしら?」
「それなら私は、おなかにかぶりつきたいぞ」
ラビーノ伯爵が言った。マリーは急いで逃げ、ルクスの後ろに隠れた。夫妻は顔を見合わせ、くすりと笑ってから食事を再開した。
「帰るのか?」
ハリーがたずねた。
「いいえ」マリーは首を振った。「まだ、ハロルドを見付けてないの」
「彼なら大丈夫。君が家へ帰れば必ず戻ってくるよ」
ルクスが請け合った。
「どういうこと?」
マリーはきょとんとしてたずねた。
「実を言えば、彼はずっと君と一緒にいたんだ。ただ、君の目には映らなかっただけでね」
「影みたいに?」
「ちょっと違うかな」
ルクスは苦笑を浮かべてから、マリーの耳元に口を寄せて囁いた。
「ハロルドは君の助けになりたいと言って、あのおじいさんがその願いを聞き届けたんだ。もちろん、ただの子兎に出来ることなんて何もないから、君に懐中時計を与えたように、彼にも特別な力を貸し与えたうえでね。でも、僕たちのゲームには、使える駒は一つきりってルールがあったから、彼は君がハロルドと一緒にいることを、みんなの目から隠したってわけさ。みんなの中には、もちろん君とハロルドも含まれている」
マリーはルクスの耳を引っ張って、そこに囁いた。
「ズルしたってこと?」
「そうだね」ルクスはうなずいた。彼はまた、マリーの耳元で囁いた。「僕がイカサマに気付いてたってことは、誰にも言ってはだめだよ。それを知ったら、彼はきっとがっかりするから」
マリーは神妙にうなずいた。
「何をこそこそしてるんだ?」
ハリーはいぶかしげにたずねた。
「すごく説明しにくいことなんだ」
ルクスは言って肩をすくめた。
「なんだか、私の用事は全部終わったみたい。そろそろ帰らなきゃ」
マリーは言った。
「そっか」
ハリーは、ひどくがっかりした様子で、ため息を落とした。
「もっと冒険を続けられたらなって思ってたけど、お前がいないんじゃつまらないよな」
「そうだな」ジローは同意して、マリーに目を向けた。「楽しかったぞ、人間」
「私もよ、ジロー坊ちゃま」
マリーは二人をいっぺんに抱きしめてから、ルクスと並んで玄関へ向かった。それから振り返り、みんなをぐるりと見渡して言った。
「私、帰るわ。みんな、さようなら」
ゲンジロウは串焼き肉を焼く手を除いて、残った手を大きく振った。テツはコップを片手に、また飲もうぜと陽気に言った。ミカエルは優しく笑みを寄越し、二人の騎士は席を立って見事な敬礼をした。シェフは料理の手を止め、包丁の先っぽを小さく振って見せてから、また自分の仕事に戻った。ジェームズは完ぺきなお辞儀をし、ラビーノ夫妻はワイングラスを高く掲げた。
ハリーとジローが、椅子を降りて歩み寄って来た。マリーはハリーを抱きしめ、彼の頬にキスをくれてから言った。
「大好きよ、ハリー」
「練習か?」
ハリーは顔を真っ赤にしてたずねた。彼の頬には、少しだけ口紅がついた。
「そうね。でも、大好きなのは本当なんだから、忘れないでね?」
「忘れるもんか」
ハリーはぐすっと鼻を鳴らし、目元を手首で拭った。マリーは鼻の奥がツンとなるのをこらえながら、ジローを抱き上げて頭のてっぺんにキスをした。白い毛にピンク色のあとがついた。
「やっぱりあなた、お風呂に入るべきよ」
「考えておく」
ジローは鼻をひくひくさせて言った。
「大好きよ、ジロー坊ちゃま」
マリーはジローを抱きしめて言ってから、彼をハリーの腕にあずけた。彼女は玄関の戸に向くと、ポケットから口紅を出して、磨りガラスに「ありがとう」と書いた。そして束の間考えてから、「またね」も付け加える。ルクスを見ると、彼はにっこり笑っただけで何も言わなかった。
「そいつは消さないでおくからな」
ゲンジロウが言った。マリーは振り返って笑顔をくれてから戸を開け、その向こうに広がる闇の中に飛び込んだ。




