世界の果て
マリーが駆け寄ると、鏡のマリーとハリーは重なりあってすっかり伸びていた。マリーは自分の影の上から天使の少年を押し退け、床に座り込むと意識の無い女の子の頭を膝に乗せた。子兎に戻ったジローがやって来て、ハリーの鼻の頭をがぶりと咬んだ。ハリーは悲鳴を上げて飛び起き、二人のマリーを見て目を丸くした。
「俺たち、勝ったのか?」
マリーはわからないわと言って、女の子の頭をそっと撫でた。ハリーは鏡のマリーのそばにしゃがみ込み、彼女とマリーの顔を交互に見比べる。
「影なんだから当たり前なんだけど、本当にそっくりだな」
ハリーは呟いてから、鏡のマリーのスカートの裾をつまみ、中を覗こうとした。マリーはすかさずチョップをくれ、すがめた目でたずねた。
「なにしてるの?」
「いやあ、中身もそっくりなのか確かめようと思って」
ハリーはおでこをさすりながら答えた。
「それに、女の子にぶつかるなんて絶好のシチュエーションだったのに、ラッキースケベの一つも起こらないなんて不公平だから、その埋め合わせもしようと思ったんだ」
マリーは意味が分からず、小さく首を振った。
鏡のマリーが、ふと目を開けた。彼女はマリーの顔を見るなり、飛び起きて逃げ出そうとした。
「待って!」
マリーは叫んで、ポケットから口紅を取り出した。鏡のマリーは息を飲み、自分のポケットを押さえてマリーを睨みつけた。
「盗んだわけじゃないわ。ちゃんと見て、あなたの口紅はポケットにあるでしょ?」
マリーに言われて、鏡のマリーは自分のポケットから、まったく同じ口紅を取り出した。マリーは立ち上がり、鏡のマリーの手を握った。
「行きましょう?」
鏡のマリーは肩をすくめ、マリーと並んで廊下の奥を目指して歩き出した。
「おい、マリー。どこへ行くんだ?」
ハリーがジローを抱き上げて二人を追った。
「この子が、行こうとしてたところへよ。本当の決着は、そこじゃないと付けられないの」
ハリーとジローは顔を見合わせた。
真っ直ぐな廊下をひたすらに歩き続け、彼らの行く手は再び鉄の扉に遮られた。扉の前には知った顔があった。
「やあ、マリーちゃん」
と、彼は笑顔で言った。
「こんにちは、ルクスさん」
マリーはお辞儀をしたが、鏡のマリーはぷいとそっぽを向いた。
「そんなに怒らないでくれないか。これでも僕は、ずいぶん頑張ったんだ」
「そうね」
マリーはしかめっ面をしてみせた。
「でも、君は切り抜けた。塔のてっぺんで、君のお願いを聞いてしまったのは失敗だったな。ハリー君と、ジロー君だけを呼ぶつもりだったのに、想定外の人たちまで呼ぶ羽目になってしまった。余計な魔物が二人、混じってたところで気付くべきだったんだ。ちょっとした間違いだろうと思って放ったらかしていたら、ミカエルまで現れて、さすがに驚いたよ」
ルクスは愉快そうに笑って言った。
「ミカエル様は私があげたクッキーを、みんなより一つ、余計に食べてたの。人間から何かを受け取った天使は、必ずお返しをしなければならないんでしょ? だから彼は、そのルールに従って、私にお返しにきただけなの」
マリーが言うと、ルクスは目をぱちくりさせ、それから渋い表情を浮かべた。
「そのクッキーをあげたのは、僕だ。結局、僕は自分で自分の企みを台無しにしてたわけか。でも、それなら、あの騎士と魔物はどうしてこっちへ来れたんだ?」
「領主様と伯爵様は、私に騎士の誓いを立ててたの。私が困ったら、たとえそこが地獄でも助けに駆けつけるって。騎士の誓いは絶対だから、それで本当に地獄へ来ちゃったんだわ。ゲンジロウさんとテツさんは、私の飲み仲間だから、きっとお願いに巻き込まれたのね」
「君のお願いは、『仲間を連れてきてもいいことにする』だったね。旅の仲間以外を引っ張り寄せても、別におかしくはない」
ルクスは苦笑を浮かべ、納得した様子で頷いた。そうして彼は笑顔を引っ込め、拳の背で鉄の扉を二度ほど叩いた。
「この先に、世界の果てがある。全ての時間と空間が終わる穴で、落っこちればどんなものであれ、果ての表面にへばりついて永遠に抜け出せなくなる。危険な場所だけど、本当に行くんだね?」
マリーは自分の影に目を向けた。鏡のマリーは頷いた。二人は手を重ねて扉の取っ手に手を掛け、それを引っ張った。ふっと背後の空気が扉の隙間へ吸い込まれた。なおも取っ手を引き続け、扉を大きく開け放つと、その先は赤黒い空を背に、六メートルほど先ですとんと途切れた岩棚になっていた。
マリーと鏡のマリーは手を繋いだまま、岩棚の端へ歩み寄った。そこは切り立った崖で、はるか下方には灰色の雲海が見える。雲は黒々と開いた巨大な穴に、渦を描いて吸い込まれている。
鏡のマリーはポケットから口紅を取り出した。彼女はそれをじっと見つめてから、世界の果ての穴に放り込もうと腕を振り上げる。しかし彼女は、そのまま凍りついたように動かなくなった。マリーがじっと見つめていると、鏡のマリーは不安げな表情を向けてきた。
「そうね」マリーは頷いた。「ここなら、それを始末するのは簡単よ。でも、そうすることが本当に正しいことなのか、それとも間違ってるかなんてわからない。私にわかっているのは――」
マリーはポケットから懐中時計と、玩具の手鏡を取り出した。手鏡の中には、大人の自分が映っていた。マリーは懐中時計の蓋をぱちんと開いて、大人に変身した。彼女は言った。
「大人になるのも、そんなに悪くないってことよ」
鏡のマリーは、くすりと笑った。マリーも笑い返し、懐中時計をポケットに収めてから、代わりに口紅を取り出した。キャップを外し、手鏡を覗き込みながら、ピンク色の先端を唇に当てる。鏡の中では、子供のマリーも同じように口紅を唇に当てていた。マリーは子供の自分と一緒に口紅を引いた。母親がそうしていたのを思い出しながら、丁寧に、丁寧に。
化粧を終えて、口紅をポケットへ戻す。出来栄えに満足して、にっこり笑うと、鏡の中の子供のマリーも笑顔を返してきた。手鏡をよけると、鏡のマリーの唇にも口紅が引かれていた。
「約束して」鏡のマリーは言った。「もう、寂しいのを我慢しないで」
マリーはひざまずき、鏡のマリーを抱きしめて、彼女の耳元でこっそりと言った。
「私、わかったの。ちゃんと可愛くしていれば、大抵の大人は優しくしてくれるって。たぶん、みんな可愛い子供が大好きだから、私たちが可愛らしくするだけで嬉しくなるんだわ」
マリーが身を離すと、鏡のマリーはきょとんとした。
「これは、あなたが教えてくれたことよ? あなたがビルさんを操ったみたいに、大人を言いなりにできるくらい可愛くなれるかはわからないけど、とにかく練習してみるわ。まずはママが、私を独りぼっちにしたくなくなるようにするのが目標ね。うまくいけば、もう寂しいことなんてなくなるはずよ」
二人のマリーは、悪だくみをするような顔で、にやにやと笑い合った。それから、鏡のマリーは魔法の手鏡と口紅を差しだした。それらを受け取ったマリーは、鏡のマリーの頬にキスをくれてから、魔法の手鏡を覗き込み懐中時計の蓋を開けて変身を解いた。マリーと鏡のマリーはきらきらした光に包まれ、それが消えるとマリーは子供の姿に戻り、鏡のマリーは姿を消していた。そして鏡の中に映るマリーの影は、もう子供のままだった。




