青い扉
水晶の岩には、やはり扉が設えられていた。ただし、それは大理石ではなく、以前にも何度か目にした青い扉だった。扉にはピンク色の文字が書き置かれていた。
「私の勝ち、か」
ハリーは文字を読み上げ、足元の小石を蹴飛ばした。彼はマリーに目を向けた。
「これで終わり?」
マリーは何も答えられなかった。言葉にすれば、敗北と言う事実が本当になってしまうように思えたからだ。しかし勝敗はどうあれ、ゴールそのものをあきらめる気にはなれなかった。ここまで色んな人たちが彼女を助けてくれたのに、その結果がリタイヤではあまりにも不甲斐ない。負けなら負けと、おそらくどこかにいるであろう審判に宣告されるまで、彼女は進み続けるつもりだった。マリーは覚悟を決め、扉の取っ手に手を伸ばした。
「危ない!」
ハリーが叫び、マリーに飛び付いた。彼らは礫だらけの地面を転がり、その直後に扉の前を、頭上から降り注いだ炎が焼く。咆哮が、真っ暗な空に響いた。見上げると、そこにはヘビのような首をうねらせて飛ぶドラゴンの姿があった。
「ジェームズさん?」
マリーは呟き、それからはっと息を飲んだ。扉の文字は、嘘っぱちだったのだ。本当に鏡のマリーの勝利が決まったのなら、今さらこんな邪魔立てなど必要ない。急いで彼女を追わなければならなかった。しかし、飛び起きて扉へ向かおうとするマリーの行く手に、炎が降り注いだ。思わず足を止め、腕を上げて炎の熱から顔をかばう。
ジェームズは、頭上でぐるぐる旋回を続けていた。ハリーは指を振って稲妻を呼ぶが、光の矢はドラゴンの鱗に当たっても、焦げ跡一つ作れない。
「くそっ、ドラゴンが相手じゃ勝ち目がないぜ」
ハリーは毒吐いた。以前、ラビーノ伯爵のお屋敷でジェームズと対決した時、彼はドラゴンに天使の力は効かないと言っていた。これが、そう言うことなのだろう。
「俺は一度勝ってるぞ」
ジローが言った。
「あの時は、サブロー坊ちゃまのネズミ爆弾があったからよ。それでも、ジロー坊ちゃまはひどい怪我をしたわ」
マリーは言って、ゆうゆうと空を飛びまわるジェームズを睨みつけた。いずれにせよ、彼が地上へ降りて来ない限り、ジローは前歯の一つも当てることは出来ない。かと言って扉へ近付けば、また炎を吐いて邪魔するだろう。そして、マリーたちがまごついている間にも、鏡のマリーは真のゴールへ着々と近付いている。
「あれが、私の相手と言うわけか」
誰かが肩を叩いて言った。いつの間にか、彼女の横に天使が立っていた。もちろん、ハリーではない。赤銅色の翼を生やした、大人の天使だ。
「ミカエル様?」
ハリーがぎょっとして言った。天使の長は彼に頷いて見せてから、マリーに目を向けた。
「ドラゴン退治には、少しばかり心得がある。ここは任せてもらえるかな?」
マリーは、こんなところで何をしているのかとたずねた。地獄に天使長とは場違いにもほどがある。
「クッキーの借りを返しに来たのだ」
ミカエルは、茶目っ気たっぷりに片目を閉じて見せた。そうして彼は、思い出したように言った。
「ラグエルたちが、君によろしくと言っていた。それと、カマエルからは、君に礼を伝えるようことづかっている」
「お礼?」
首を傾げるマリーに、ミカエルは頷いて見せた。
「彼は迷宮から恋人を救ってくれた君に、感謝しているのだ。君に借りを返したいと言っていたが、私が自分の分とまとめて返してくるからと言って、代わりに書類仕事を押し付けてやった。今ごろ彼は私のデスクで、天使長がどれほどつまらない仕事かを学んでいる事だろう」
マリーは、思わずくすりと笑った。ミカエルは、もう一度片目を閉じて見せてから、上空で咆哮をあげるジェームズを見据え、高く掲げた右手で何もない空中から燃える剣を掴み出した。そうして赤銅色の翼を大きく広げて舞い上がり、ドラゴンに対峙すると太陽のように輝きながらマリーに言った。
「さあ、行ってくれ!」
マリーは頷き、青い扉へ向かって駆け出した。
そこは窓ひとつない石積みの狭い部屋だった。片隅に置かれた机の前に、金髪をおさげにした女の子が一人、ちっぽけなランプの灯りを頼りにして、黄味をおびた紙に何やら熱心に書き付けている。マリーは、忍び足でそっと歩み寄るが、女の子はくるりと振り返ってたずねた。
「ずいぶん遅かったのね?」
「ちょっと邪魔が入ったの」
マリーは足を止めて答えた。そして、ハリーとジローの姿が消えていることに気付き、きょろきょろと部屋の中を見回す。
「二人なら、外で待ってるわ」
女の子が、まるでマリーの心を読んだように言った。
「ジロー坊ちゃまが天界へ入れなかったみたいに、二人もここへは入れないの。あと、おじいさんは、私たちの対決の後始末で、どこかへ出かけてる」
「あなたは、ここで何をしてたの?」
マリーはたずねた。女の子は、何かを書き付けた紙を机の上から取り上げ、顔の前でひらひらと揺らして見せた。
「手紙を書いてたの」
「誰に?」
「この旅で、お世話になった人みんなによ。これは、ラビーノ伯爵のお屋敷の人たち宛で、こっちは居酒屋のみんな。それと、こっちは領主様と伯爵様と……あれ、ビルの手紙はどこかしら?」
女の子は紙の山をごそごそと探し回り、ふと手を止めて椅子から飛び降りてマリーに歩み寄った。彼女が行き過ぎる時、姿見はちゃんと女の子の姿を映し出した。女の子はマリーの前で足を止めると、エプロンのポケットに手を突っ込んで何かを掴み出し、その拳をマリーに突き出した。マリーは怪訝そうに首を傾げながら、手の平を差し出す。その上に、何かがころりと転げ落ちるが、それを確かめる前に、彼女はあることに気付いた。
「あなた、口紅を塗ってるの?」
マリーが指摘すると、女の子は少し照れくさそうな笑顔を浮かべた。
「ママが見たら、怒るかな?」
「それは間違いないわね」マリーは頷いた。「でも、すごくきれいよ」
「ありがとう」
女の子はお礼を言ってから再び机に戻り、行方不明になったビル宛の手紙を探し始めた。マリーが改めて手の平を見ると、そこには口紅が乗っていた。
「それ、後でちゃんと返してね」
紙の山を引っ掻き回しながら、女の子は振り向きもせずに言った。マリーは頷き、口紅をエプロンのポケットへ放り込むと、青い扉をくぐりぬけた。
目の前には石壁の廊下がどこまでも続いていた。壁には松明が掲げられ、いがらっぽい煙を上げている。腕の中にはジローがいて、彼女のすぐ隣にはハリーがいた。マリーが見つめていると、彼はラズベリー色の瞳を向けて「どうかしたか?」と怪訝そうにたずねてくる。なんでもないわと答えて、マリーは石の廊下を走り出した。
間もなく前方に、両開きの巨大な鉄扉が見えてきた。そして、その重たい扉を苦心して押し開けようとする女の子がいる。彼女はマリーたちが追って来るのを見て息を飲み、わずかに開いた隙間へ無理やり身体をねじ込んで、扉の向こうへ逃げ出した。ジローはマリーの腕から飛び出して怪物に変身すると、扉に突進し、体当たりでそれを押し開けた。もはや振り向きもせず、全力で走る女の子の背中が見えた。ハリーはぴかぴか光りを放ち、女の子を目指して猛スピードで宙を飛んだ。ジローは振り返り、ハリーが頭上を通り抜ける瞬間、トンボを切って天使の少年を蹴り飛ばした。ハリーは何事かをわめきながら吹っ飛び、鏡のマリーにぶつかった。二人の短い悲鳴が聞こえ、すぐに静かになった。




