援軍
「シェフ!」
マリーとハリーはぎょっとして、同時に声を上げた。
「知り合いなのか?」
ゲンジロウがたずねた。
「ジロー坊ちゃまのお屋敷で働いてた料理人よ。ジロー坊ちゃまが助けてくれなかったら、私は彼に、ハリーと一緒に裸でお皿に盛りつけられるところだったの」
「チシャ菜で飾られてな」
ハリーが補足した。
「お屋敷で出す料理にしちゃ、ちょいとセンスがねえな?」
ゲンジロウは顔をしかめた。
「お前は、へぼ天使の雷で黒焦げになったはずじゃなかったか?」
ジローがシェフに向かって言った。
「坊ちゃんのおっしゃる通り、あの時はひどい目に遭いましたが、こっちで静養したおかげで、すっかり元通りになりました。いえ、いっそ前よりもずっと元気ですよ。ほら」
シェフの顔が崩れ、ニヤニヤ笑いを浮かべる口は耳まで裂け、その中にぎざぎざの牙がぞろりと生えた。瞳は黄色に変り、瞳孔は猫のように縦に裂け、額からは長い角が三本も伸びてきて、さらには着ている服を引き裂きながら身体は膨れ上がり、とうとう百手巨人のゲンジロウと、さして変わらない大きさにまでなった。そして、どう言うわけか、包丁までもが彼の身の丈に合わせて巨大化する。
「さて、坊ちゃん。あなたは、そうですね……ミートパイにしてさしあげしょう」
シェフは牙だらけの口からよだれを垂らしながら、マリーたちに迫ってきた。すると、ゲンジロウがずいと前に進み出た。
「なあ、シェフさんよ。ここは料理人対決としゃれ込もうじゃねえか?」
ゲンジロウは言って、百本の腕をそれぞれ組み合わせ、指の骨を鳴らした。
蜥蜴男が三日月剣を抜き放ち、ゲンジロウの横に立った。
「手伝うぜ、大将。刃物も無しで、あのでかぶつを料理するのは、ちょっとばかり骨が折れるだろうからな」
「悪いな、テツさん」
「いいってことよ」
テツは言って、剣を構えてからマリーに目を向けた。
「マリーちゃんたちは、俺らがヤツを抑えてる間に先へ行ってくれ」
マリーは頷いた。
「二人とも、怪我しないでね?」
「約束はできねえが、まあ頑張ってみるさ」
ゲンジロウはマリーにニヤリと笑い掛けてから、雄叫びを上げてシェフに襲い掛かった。たちまち魔物たちの激しい戦いが始まり、マリーたちは島を後にした。
いくつもの橋を渡り、迷路を駆け回るうちに、とうとう鏡のマリーの背中が見えてきた。彼女は時折立ち止まり、何やら紙を広げてそれを覗き込んでいる。
「あいつが持ってるの、ひょっとして地図じゃないか?」
橋の上を駆けながらハリーが言った。
「そうみたいだな。なんだってあいつだけ、そんなに便利なものを持ってるんだ?」
と、ジロー。
「あの子、ズルなしじゃ何も出来ないのかしら」
マリーはぷりぷりしながら言った。
「マリーが空から道順を確かめる方法を思い付かなかったら、ここまで追い付けなかっただろうな」
ハリーに言われて、マリーは目をぱちくりさせた。
「そっか。あの子には手助けしてくれる人がいないから、ズルして丁度いいのね」
「まあ、ゲームバランスは大事だからな」
ハリーは訳知り顔で頷いた。
しかし、あと一歩と言うところへ迫ったとき、彼らの目の前に、こつ然と二匹の白兎が現れた。
「ああ、坊や。まさか、自分から地獄にやって来るなんて思ってもみなかったわ。ご褒美に、とびっきり痛いお仕置きをしてあげる」
ラビーノ伯爵夫人は、がちがちと前歯を鳴らして言った。
「おや。あのうまそうな人間の女の子と天使の男の子もいるではないか。こうなれば、料理されるのを待つのも面倒だ。頭からまるかじりにしてやろう」
ラビーノ伯爵は言った。夫妻はたちまち膨れ上がり、鱗と剛毛に覆われたトゲだらけの怪物に姿を変える。それは本性を現したジローそっくりだったが、大きさは彼の倍ほどもあった。
「くそっ、次から次に!」
ハリーはぴかぴか光りながら天使の力で雷を呼び、ラビーノ伯爵に向かって投げつけた。しかし伯爵は小馬鹿にするように、それを腕の一振りで叩き落とす。
「あいつは魔界の王を味方につけてるんだ。これくらい当然だろ?」
ジローもマリーの腕から飛び出して、巨大な化け兎に変身した。彼は赤い目でちらりとマリーを見て言った。
「行けよ。ここは俺と、へぼ天使でなんとかする」
マリーは頷き、影を追って駆け出した。どう見ても、この戦いはハリーとジローの不利に思える。こうなれば、さっさと鏡のマリーを捕まえて、決着をつけるしかない。しかし、ラビーノ伯爵は彼女を見逃さなかった。彼はハリーたちに背中を向けると、強靭な後脚で跳躍し、橋を渡ろうとするマリーに襲い掛かった。
「マリー!」
ハリーが叫んだ。ジローがマリーを救おうと突進するが、その前に伯爵夫人が立ちはだかる。ラビーノ伯爵の黄色い前歯が、マリーの身体に届こうとした瞬間、金属を打つけたたましい音が響き渡った。マリーの前には、いつの間にやら人の背丈ほどもある黒いナイトのチェスの駒がいて、彼は紋章が描かれた立派な盾で、ラビーノ伯爵の前歯を受け止めている。騎士が鋭く気合いを吐いて伯爵の巨体を押し返し、すかさず槍を突き出したので、伯爵はたじたじとなって後退した。
伯爵夫人は夫のピンチを見るや、息子を後脚で蹴り飛ばし、猛烈な勢いで駆けると騎士の横合いから襲い掛かった。ところが、今度は白いナイトのチェスの駒が空中から湧いて出て、彼女の前に立ちはだかり攻撃を盾で受け止めた。
「領主様、それに伯爵様も?」
マリーは目を丸くして、二人の騎士を見つめた。
「君が困ったら、たとえそこが地獄であろうとも、助けに行くと誓っただろう?」
黒騎士が言った。
「騎士の誓いは絶対なのだ」
白騎士は言って槍を振り回し、伯爵夫人を後退させてから、ぐるりと辺りを見回した。
「しかし、どうやら我々は、本当に地獄へ来てしまったようだな」
「怖気づいたか、伯爵?」
「いくら義父上でも、それは無礼ではないか?」
白騎士は眉をひそめた。
「ただの冗談だ、息子よ」
黒騎士はにこりともせずに言った。
「それって、つまり……」
ハリーはぴかぴか光るのをやめて、二人の騎士を見つめた。白騎士は頷いた。
「君たちが去って間もなく、ドロシーの方から求婚されたのだ」
「おめでとう、ペイルさん!」
ハリーは満面の笑顔で祝福した。
「ありがとう、我が友ハリー」
白騎士は優雅なお辞儀で応じた。
「積もる話もあるが、今はお互いに忙しいようだ」
黒騎士は、突進しようと地面を引っ掻くラビーノ伯爵夫妻を睨み、槍を構えた。
「行ってくれ、マリー。ここは、我らに任せてもらおう」
マリーは頷いた。ジローは子兎に戻り、マリーに駆け寄って彼女の腕に飛び込む。ハリーも後へ続き、三人は再び鏡のマリーを追って駆け出した。
マリーは不思議でならなかった。どんなに邪魔をしても、マリーは遅れるどころか、どんどん距離を詰めてくる。それは、おそらく彼女が頼みもしないのに、手を差し伸べるおせっかいな人たちのおかげだろう。しかし、彼らは一体、何が嬉しくてそうするのか。
ビルは親切だった。ただし彼の親切は、見返りがあればこそだ。彼は自分の寂しさを埋め合わせるために、マリーを欲しがっていた。だからマリーは、可愛らしい女の子と言う報酬をちらつかせて、彼を言いなりにすることができたのだ。マリーを助けた連中は、彼女に何か見返りを求めただろうか。少なくとも、マリーが見た限りでは、無い。それなのに、どうしてマリーは彼らを意のままに操れるのだろう。
魔界の王でさえ、助力の見返りを求めてきた。彼は映したものに変身できる魔法の手鏡をマリーに与え、逆さまの塔の隠し階段の入口を教え、この迷路の地図もくれた。もちろん、口紅で落書きした扉を異世界に繋ぐ魔法も、彼にもらったものだ。さらに今は、自分の家来を使い、マリーの追跡を阻もうとしてくれている。そのお返しにマリーが渡すものは、勝利だ。
ルクスは今、マリーたちの対決にいくらかのチップを賭けているのだと言う。考えてみれば、マリーが魔法の手鏡を持っているように、あっちのマリーも魔法の懐中時計を持っている。つまり、それを与えた者がいるはずで、その謎の人物こそがルクスの賭けの相手に違いない。魔王と賭けを楽しむような相手なら、きっと彼に匹敵するような力の持ち主だろう。
しかし、ルクスの対戦相手は、自分の駒の勝利にさほど関心が無いように見えた。マリーは大人に変身できることを除けば、なんの力も無い普通の女の子なのだ。となれば、ルクスがそうしているように、マリーを勝たせるためゲームへ直接介入して来てもよさそうなものだが、今までそう言ったズルが行われた形跡はない。あるいは、余計な手出しをしなくとも、自分のマリーが勝利すると確信しているのだろうか。
いいえ、そうはならないわ――と、マリーは胸の内で呟き、足を止めた。エプロンのポケットから口紅を取りだし、ピンク色の文字で一言書き記す。どう言うわけか、扉で異世界を繋ぐ魔法は、魔界へ来てからまるで働かなくなっていた。だから、これは単なる追っ手への嫌がらせだ。振り向くと、こちらへ駆けてくるマリーの姿が見えた。マリーは彼女にあかんべえを一つくれて、扉をくぐり抜けた。




