南国の海
頭上には太陽がさんさんと輝いていた。足元には白い砂浜があって、その向こうには真っ青な海が広がっている。背後を見ると椰子などの熱帯の草木が生い茂り、輝く緑の中に白っぽい岩肌と、そこにぽかりと開いた洞窟の口が見えた。
マリーは今しがた昇ってきた四角い昇降口へ、頭を突っ込んで下をのぞき込んだ。石壁に囲まれた円形の部屋が見える。間違いなく、逆さまの塔の中だ。しかし、顔を上げれば南国の海。潮風、照りつける太陽、波の音。どれだけ見渡しても壁は見えない。マリーは小さく首を振ってから、ひとまず靴を脱いだ。それから裸足で焼けた砂を踏み、波打ち際に駆け寄って海水に足をひたす。足首をくすぐる冷たい波の感触に、思わず口元がゆるむ。
マリーはふと思い立ち、きょろきょろ辺りを見回した。もちろん辺りに人影はない。彼女は砂浜へ戻るとやにわに服を脱ぎ、下着姿になってから波打ち際へ向かって駆けた。そうして、一つ大きく息を吸い込んでから、水しぶきをあげて海に飛び込む。水中には、珊瑚にすむ色とりどりの魚がいて、しゃらしゃら、かちかち、ぽこぽこと不思議な音があふれていた。水面を割って顔を出し、水に身体をあずけ、波に揺られながらラピスラズリのような色の空を見上げる。みんなも一緒だったらよかったのにと考え、この素敵な場所へ一人で来いと注文を付けた鏡のマリーを、見当違いな理由で恨んだ。もちろん、彼らがいたのでは、こんな格好でいられるわけもないのだが。
ひとしきり海水浴を楽しんで、彼女はいよいよ洞窟へ向かった。上の階へ向かう仕掛けがあるとすれば、おそらくそこしかない。服はまだ着なかった。濡れた身体に衣服をまとうのは、あまりよいアイディアではないと知っていたからだ。
洞窟は思ったよりも浅かった。ほんの三メートルほどで行き止まりになっており、最奥部には鉄製の梯子が天井に開いた昇降穴へ向かって伸びている。洞窟内に足を踏み入れると素足が何かを蹴飛ばし、からんと金属の音を立てた。しゃがみ込んで見ると、大小二つの錫のカップと、一通の黄色く古びた封筒が目に入った。封筒の表には「きっかり一二〇ccの水で戻すこと!」と、赤いインクで書き記されている。封はされておらず、中を開けてみると、手の平より一回り小さな平たい干物が出てきた。しなびた頭は楕円形で、足が八本。どうやらタコのようだ。
首を傾げながら干物を持って、マリーは波打ち際へ戻った。海の中へ干物のタコを放り込むと、それはたちまち水を吸って、うねうねと足を動かし始めた。ところが蘇ったタコは、見る間に小さな家ほどにも膨らんで、呆気にとられるマリーに襲いかかった。粘液と吸盤にまみれた触手に絡みとられ、マリーは怖気に震えた。タコの抱擁から逃れようと必死にもがくが、結局タコはマリーを散々に弄んだあげく、終いにはあきた様子で彼女を海の中へ投げ捨て、丸い頭をずるずる引きずりながら、洞窟へと戻っていった。
海から這い出たマリーは、ぐったりと砂浜に倒れ込み、失敗の原因を考えた。おそらく、水が多すぎたのだ。では、十二〇ccより少ない水なら、どうなるだろうと考え、触手の感触を思い出し首を振る。わざわざ他の失敗を試す必要はない。
洞窟へ戻り封筒を覗くと、タコは干物になってそこへ戻っていた。封筒を置いて、二つのカップを手に取る。カップにはそれぞれ一九〇cc、一三〇ccと刻印がされていた。これで、どうやって一二〇ccを量れと言うのだろう?
マリーは洞窟の奥へ進み、梯子を昇ってみた。昇降口から頭だけ出して、ぐるりと周囲を見回せば、それはらせん階段の部屋だった。どうやら一二〇ccの謎を解かずとも、先へは進めるようだ。しかし、こんなあからさまな挑戦を受けて、見過ごせるわけもない。マリーは梯子を降りて二つのカップを手に、波打ち際へ向かった。
ひとまず一三〇ccのカップに海水をくみ、目分量で一〇cc減らす。
「これじゃダメね。きっかり一二〇ccって書いてあったんだから」
マリーはカップを空にした。次に一九〇ccのカップをいっぱいに満たす。ここから七〇cc減らせば、一二〇ccだ。何気なく、一九〇ccのカップから、一三〇ccのカップに水を移す。残りは六〇cc。
マリーは、それで正解にたどり着いた。一三〇から六〇を引くと? マリーは一三〇ccのカップを空にし、一九〇ccのカップに残された、六〇ccの水を移した。そうして、一九〇ccのカップを再び満杯にし、そこから一三〇ccのカップが一杯になるまで水を移す。一三〇ccのカップには、すでに六〇ccの水が入っているから、これを満杯にするには七〇ccで足りる。つまり、一九〇ccのカップから移された水の量は、七〇cc。一九〇から七〇を引くと?
「きっかり一二〇cc」
マリーはにんまり笑って呟いてから、カップを持って洞窟へ戻り、その中へタコの干物を放り込んだ。果たせるかな、一九〇ccのカップの中でタコは蘇り、水を吸って膨らみながらカップからあふれ出した。しかし、その大きさはウサギ程度にとどまり、マリーに襲い掛かって来ることもなかった。そればかりか、彼のヤギのような黄色い目には、知性の光も浮かんで見える。
タコは一本の触手で上を指した。その様子は、まるで上へ行こうと言っているように見える。
「ちょっと待って。その前に、服と荷物を取ってくるわ」
マリーが言うと、タコは「やれやれ」とでも言いたげに、二本の腕をMの字に曲げて見せた。どうやら、肩をすくめているようだ。
砂浜へ向かったマリーは服を着て、剣を腰に帯び、洞窟へ駆け戻った。タコが手招きして、洞窟の奥へと向かう。マリーはその後へ続き、タコと一緒に梯子をよじ登った。上階へたどり着き、マリーはらせん階段に向かおうとする。しかし、タコは彼女の手を取って引き止めた。彼は顔の前で吸盤の付いた腕を振り、それから手招きして彼女を壁際に導いた。
「どうしたの?」
マリーがたずねると、タコは壁を軽く叩いた。よく見れば、その場所の石には、丸い鉄の輪が取り付けられている。それに手を掛けて引っ張ると、壁石はぱかりと板状に外れた。その裏には一メートル四方の穴が開いており、覗き込むと五〇センチほど向こうにも弧を描く壁がある。内と外、二枚の壁に挟まれた空間には階段があって、壁沿いに右へ降り、左は昇っていた。
マリーが振り返ると、タコはニヤリと――もしそれが笑顔であるなら――笑って見せてから、南国の海へ続く梯子へ向かい、それを降り始めた。
「ありがとう、タコさん」
マリーが礼を言うと、タコは触手で器用にサムズアップを作り、そのまま昇降口の向こうへ姿を消した。それを見届けたマリーは四つん這いで壁の穴をくぐり、階段を昇り始めた。
隠し階段の壁には等間隔に燭台が掛けられていて、マリーが近付くと勝手に灯が点り、彼女の行く先を照らした。マリーはひたすらに昇り続け、ついに階段は行き止まった。内側の壁を探り、それらしい場所をぐいと押す。壁は向こう側にぱたりと倒れ、入った場所と同じく一メートル四方の口が開く。
穴を潜り抜けると、そこはまたしても弓形の部屋だった。しかし、鉄扉の前にクッキーの粉は無く、ここが初めて訪れた場所だとわかる。扉を開けても鉄格子の迷路はない。真四角の部屋で、マリーがいる場所と反対側の壁には鉄扉が設えられており、床の真ん中には用途不明のレバーがあった。そのレバーに手を掛けるのは、金髪をおさげにした女の子。
マリーの影は、マリーを見てぎょっと目を見開いた。マリーもまた、予想外の遭遇に凍り付く。その隙に、鏡のマリーはレバーを反対側に押し倒した。たちまち天井から鉄格子が降りてきて、部屋の中には迷路が作られた。マリーは鉄格子に取り付き、鏡のマリーを睨みつけた。しかし、迷路に囚われたのは、これを造った彼女も同じだ。こうなれば競争だった。マリーが影に追いつくか、影が逃げのびるか。ところが、鏡のマリーはぺたりと床に伏せ、鉄格子の下の隙間を這って真っ直ぐに鉄扉へ向かった。
「ずるいわ!」
マリーが叫ぶと、鏡のマリーは鉄扉の前で立ち止まり、一度あかんべえをしてから扉を抜けて逃げ去った。
よもや、こんな方法が許されるとは思っても見なかった。マリーは歯噛みをしながらも、目印の紐をポケットから取り出し、迷路の攻略を始めた。しかし、最初の曲がり角へ行き当たったところで、彼女は自分も同じズルが使えることを思い出した。
ポケットから手鏡を取り出し、部屋の中央に背を向ける。鏡の中には子供のマリーと、鉄格子の昇降を操作するレバーが映し出された。
「お願い」
マリーは言った。鏡の中のマリーは、ひとつ頷き、床を這ってレバーへ向かった。ほどなくして彼女はレバーにたどり着き、それを反対側に押し倒した。がらがらと音を立て、鉄格子は天井へ引っ込んだ。鏡の中のマリーはレバーの側で胸を張り、マリーにVサインを送って寄越す。マリーは鏡に親指を立てて見せ、手鏡をポケットに押し込んでから、影が逃げ込んだ鉄扉へと向かった。
扉を開き、そこにあった昇りの梯子に取り付き、急いでそれをよじ登る。
「これは、どう考えたってルール違反だ。この時計は、彼女に返さなくちゃいけないよ」
頭の上の昇降口から、そんな声が漏れ聞こえた。




