逆さまの塔
ハリーとジローは顔を見合わせた。
「それじゃあ、なんで大人のままなんだ?」
ハリーがたずねた。マリーは首を振る。理屈はわからないが、変身中に懐中時計を手放すと、いつまで経っても子供に戻れないようだ。もしそうなら、ペイル伯爵の村で聞き込みをした時に、時計を誰かにあずけておけばよかったのではと、今さらながら後悔する。そうすれば、何度も変身しなおさなくて、よかったのに。
「まずくないか?」
ジローがぽつりと言った。
「ああ」ハリーが同意する。「ずっと近くに俺好みのおっぱいがあるとなると、気が散ってしようがないぜ」
マリーはすかさずエッチな天使の足を踏みつけた。ハリーが足を押さえて、辺りをぴょんぴょん飛び回っていると、居酒屋の戸がからりと開き、主人の百手巨人と客の蜥蜴男が顔を覗かせる。
「よかった、まだいたな」
マリーの顔を見るなり、蜥蜴男が言った。マリーたちがいぶかしげに見ていると、居酒屋の主人が戸惑った様子で口を開いた。
「姉さんの探してる娘っ子が、どうやら店の中にいたようなんだ」
マリーたちは息を飲んで顔を見合わせた。
「厨房の連中が娘っ子を見たって言いやがってな」
主人は店内に向かって手招きした。すぐに二本足で歩く牛と、鱗だらけの大きな雄鶏が店から出てくる。彼らはどう言うわけか、包帯でぐるぐる巻きだった。その痛々しい姿を見て、マリーはぎょっとした。
「ひょっとして、あの子にやられたの?」
マリーはたずねるが、魔物たちは怪訝そうに顔を見合わせた。すると雄鶏は、ふと合点がいった様子になってから言った。
「いや、これは私たちの仕事なんだ。気にしないでくれ」
「あの子って、お姉ちゃんが探してる女の子のこと?」
思ったより甲高い声で牛がたずねた。
「そうよ。彼女はおさげの金髪で瞳はヒスイ色。緑のワンピースを着て、白いエプロンを掛けてるの」
「間違いない。確かに彼女は、あなたが言ったような格好をしていた」
と、雄鶏。続いて、牛が言う。
「あの子は急に厨房に現れたんだ。本当に、気が付いたらそこにいたって感じでさ。大将が子供を店に入れるなんて変だなあって見てたら、あの子はびっくりした顔になって、現れた時と同じくらい急に消えちゃった」
牛が話し終えると、雄鶏は大きなトサカを揺らしながら、思案気な顔で口を開いた。
「妙なのは、彼女が現れたり消えたりしたことを、私たちがまるで不思議に思わなかったことだ。うまく説明しにくいが、彼女がそこにいてもいなくても、私たちは大将に聞かれるまで、わざわざ話題にすることでも無いように思えていた」
するとハリーが、突然ぱちんと指を打ち鳴らした。
「そう言うことか」
マリーが首を傾げて見つめると、彼は説明した。
「あいつは影だから、いてもいなくても当然なんだ。誰だって自分や他人の影に、わざわざ注意を払ったりしないだろ?」
「つまり、あいつは幽霊みたいに現れたり消えたりしてるんじゃなくて、ただ注意を引いたり引かなかったりしてただけってことか?」
ジローはたずねた。
「たぶんね」
ハリーはうなずいた。
「とにかく、あの子はここにいたのね」
マリーは、きょろきょろと辺りを見回した。もちろん、影の姿はない。あるいは、すぐそばにいて、彼女のことをほくそ笑んでいるのに、ただ気付かないだけなのか。そして、マリーは息をのんだ。彼女は思い出した。酔っぱらって眠ってしまう前に、彼女は自分の姿を見たのだ。子供の自分の姿を。
「あの子、私が酔っぱらって寝ている間に、懐中時計を盗んでいったんだわ!」
ハリーとジローが、ぎょっとしてマリーに目を向けてきた。マリーが酔いつぶれたときに見たことを説明すると、彼らは難しい顔で黙り込んでしまった。
「お酒なんて飲まなきゃよかった」
マリーはしょんぼりと肩を落とした。マリーの影はマリーを嫌っている。彼女が盗んだものを、すんなり返してくれるとは思えない。それはつまり、マリーはもう子供に戻ることはできず、家へも帰れないと言うことだ。大人の格好で「ママ、私マリーよ」と言っても、きっと信じてはもらえないだろう。
「まあ、酒での失敗なんて誰にでもあるさ。くよくよするなって」蜥蜴男はマリーを慰めてから、怪訝そうにたずねた。「けど、そんなに大事なものなのか?」
マリーはうなずいた。
「とりあえず、みんな店に入れ。中で詳しく聞こうじゃねえか」
主人が言って、全員が店の中に入り、それぞれ席に着いた。椅子が足りないので、主人だけはカウンターの端に腰を降ろす。
「それで?」
主人に促され、マリーはこれまでの冒険について、全てを語った。いたずら心から、母親の口紅を使おうとしたこと。石の部屋で出会った老人から、大人に変身できる魔法の懐中時計をもらったこと。ハリーやジローとの出会い。ドラゴンとの戦い。二人の騎士。天使たち。迷宮の探索。そして、ルクス・フェロを名乗る堕天使が、どうやらマリーの影に手を貸していることも。
「つまり、あんたが大人ってのは嘘で、本当は子供なんだな?」
マリーが話し終えると、主人がしかめっ面で言った。
「ごめんなさい」
マリーはしょんぼり謝った。
「なあ、おっさん。あんた、そんなにたくさん目があるのに、このおっぱいが見えないのか? そりゃあ、びっくりするほどでっかいわけじゃないけど、子供がこんなに立派なおっぱいを――」
マリーの肘打ちを顔の真ん中に食らい、ハリーは椅子ごと後ろにひっくり返った。
「ちょっと、ツッコミが激しくなってないか?」
ハリーはぶつぶつ文句をたれながら、椅子を戻して座り直した。
「こんな大変な時に、エッチなことばっかり言うからよ」
マリーは鼻を鳴らして言った。
「おっぱいの大小はともかく、姉さんが大人なのは間違いないんじゃないか? 影の代わりに大人の自分を入れていて、時計の魔法でそれを引っくり返してるだけなんだから」
蜥蜴男がとりなした。
「どうもしっくりこねえが、まあ細けえことにこだわっても仕方ねえや」
主人は頭を掻いて、それから牛と雄鶏に目を向けた。
「今日は店じまいだ。もう帰ってくれていいぜ」
「泥棒娘を探すんだろう? だったら、私にも手伝わせてくれ」
雄鶏がトサカを振って言った。
「僕も手伝うよ」
牛も蹄の手を挙げた。
「馬鹿言ってんじゃねえや。そんなくたびれたナリでうろつかれたんじゃ、店の評判に関わるってもんだ」
主人が鼻を鳴らして言うと、牛と雄鶏はしぶしぶ引き下がり、店を出て行った。
「まったく、働くなら給料分だけにしとけって――」
主人は言葉を切り、牛と雄鶏が出て行った戸を、まじまじと見つめた。カウンター席の全員が、何事かと振り返れば、玄関の戸にはまった磨りガラスに、ピンク色の文字が書かれていた。ハリーが椅子を降り、玄関の戸に歩み寄って、その文字を読み上げた。
「まぬけな酔っ払いさん。逆さまの塔のてっぺんで待ってるわ。時計を返して欲しかったら、一人で来ることね。もし他の誰かを連れて来たら、時計はバラバラにするわよ」
「さっきまで、こんなものはなかったぞ?」
店の主人は困惑した様子でつぶやいた。
「つまり、影はたった今まで、ここにいたってことさ」
ハリーは苦々しく言って、カウンター席の椅子を腹立ちまぎれに蹴飛ばした。しかし、打ち所が悪かったのか、足を抱えてその場にうずくまった。
「罠だな」
ジローが短く言った。
「わかってる」
マリーは言って、両手で自分の頬をぴしゃりと叩いた。もう、このゲームのルールは理解している。あきらめた方が負け、あきらめなかった方が勝つのだ。何かの罠を仕掛けていたとしても、鏡のマリーはきっとそこにいるだろう。マリーを打ち負かすのは危険な罠ではなく、彼女自身にしかできないことなのだ。マリーは決然と顔を上げ、店の主人にたずねた。
「逆さまの塔って、どこにあるの?」




