口紅のゆくえ
「それで早速、俺の知恵を借りに来たってわけか」
ジローは鼻をひくひくさせながら言った。
マリーは子供部屋に戻っていた。そこにロクローの姿はなかった。彼はミートパイにされてしまったのだろうか。イチローは傷だらけになって、部屋の隅でぐったりしていた。割り当ての四個より多くケーキを食べた制裁を受けたのだろう。
「おい、サブロー。お前、確かネズミを持ってたな?」
「うん、持ってる」ゴミ山の穴から、サブローが顔を出して言った。「死んでるのが三匹と、死にかけてるのが二匹と、まだ死にそうにないのが一匹」
「元気なヤツを一匹よこせ」
サブローは穴からネズミが入った広口のガラス瓶を引っ張り出すと、それをジローとマリーの間に置いた。
「いいことを教えてやるよ、人間。ジェームズはネズミが大っ嫌いなんだ。こいつを足下に放してやれば、きっとビックリして逃げ出すから、その隙に寝室へ行けばいい」
「ありがとう、試してみるわ」
ジローはフンと鼻を鳴らした。
「本当は、そんな面白いイタズラを、他人任せにしたく無いんだけどな」
それなら一緒に行こうとマリーは誘うが、彼は悔しそうに首を振った。
「母上に、食事の時以外は部屋から出るなと言われてるんだ。言い付けを守らないと、ミートパイにされるより、もっと恐ろしい目に遭う」
「ジローは僕たち兄弟の中で、一番たくさん怖い目に遭ってるんだ。部屋から逃げ出した回数も一番だからね。だから、もう母上に折檻されるのはコリゴリなんだよ」
サブローが言った。
「余計なことをいうな。お前もミートパイにしちまうぞ」
サブローは穴の中に引っ込んだ。それでマリーは考え、ある提案をした。
「それなら、私がイタズラした時の様子を、あなたに話してあげるのはどうかしら」
「普通にか。それとも、面白おかしく何かでっち上げるのか?」
ジローは目を輝かせた。
「もちろん色々でっち上げて、面白い話に仕立てるわ」
すると、他の子兎たちも集まって来た。その中には、大ケガでぐったりしていたはずのイチローの姿もあった。
「お話だって?」
「僕にも聞かせて!」
口々にお話をせがむ子兎たちを手で制し、マリーは言った。
「出来上がってもいないお話は話せないわ。でも、約束する。ジェームズさんをビックリさせて、きっとみんなに面白いお話をしてあげるから」
マリーが階下へ向かうと、ジェームズは先ほどの場所から、一歩も動いていなかった。
「マリー様。何度いらっしゃっても、ここをお通しするわけにはまいりません」
マリーはジェームズに背中を見せ、その場にしゃがみ込んだ。そうして、スカートの中に隠していたネズミの瓶を取り出すと、こっそり蓋を開けた。ネズミは瓶から元気よく飛び出し、マリーの頭を踏み越えて、ジェームズの足下に着地した。
「ひっ!」
ジェームズは三十センチあまりも飛び上がった。それに驚いたネズミが、ちょろちょろと彼の足下を逃げまどう。ジェームズは悲鳴を上げながら、その場で片足ずつ上げては下ろしの滑稽な踊りを見せ、ついには絶叫を後に引きながら、どこかへと走り去った。
作戦は大成功だった。マリーは、マリーにそっくりな少女が駆け込んだ扉の前に立ち、胸の内で三つ数えてから、それを開け放った。
紫色の、ビロード布が掛けられた鏡台が正面にあり、それを挟んで大きなベッドが二台置かれていた。人影はない。マリーはベッドの下を覗き込むが、女の子どころかウサギもネズミもいなかった。次にマリーは、鏡台の引き出しを開けてみた。けばけばしい色をした用途不明の化粧品が詰まってはいても、ピンク色の口紅は見当たらなかった。そうこうしていると、鏡台に掛けられた布が重たい音を立てて落っこちた。鏡の中ではびっくり顔のマリーが、こちらを見ていた。そして、鏡にはピンク色の文字で、こう書いてあった。
「口紅は渡さない」
これではっきりした。口紅は、鏡のマリーが持っているのだ。
マリーは鏡台に背中を向け出口を目指すが、 はっと息を飲んだ。なぜ、鏡に自分の姿が映っている?
慌てて鏡に向き直ると、鏡の中のマリーはすでに扉を開けていた。再び出口に振り返ると、意地の悪い笑みを浮かべたマリーが部屋から出て行くところだった。慌てて追いかけるが、扉はマリーの鼻先で乱暴に閉じられた。急いでノブを回し扉を開けると、廊下の角に消える金色のおさげが見えた。全速力で追い掛け玄関ホールに出ると、がたがたと騒がしい音が聞こえてきた。音がした方へ向かうと、そこはダイニングで、高価そうな椅子がそこら中に引き倒されていた。一番奥の扉の前には鏡のマリーがいて、彼女はマリーを見てからあかんべえをする。
なんていじわるな子なの!
腹を立てて、マリーは分身を追い掛けようとするが、椅子が邪魔で思うように進めない。その隙に鏡のマリーは、扉をあけてその奥に逃げ込んだ。
椅子を乗り越え隙間を抜けて、ようやくたどり着いた扉の先は、キッチンに繋がっていた。しかし、人影と言えばぐつぐつ煮立つ大鍋の前の、シェフがただ一人。他に出口は無いかと見渡して、マリーは地下へ続く階段を発見した。彼女が階段を降りようとすると、シェフがぱっと振り向いて言った。
「こら、勝手に地下へ入るんじゃない!」
マリーは驚いて足を止めた。
「あんた、ジェームズさんの言ってた、マリーちゃんだね。地下は食糧庫になってて、貴重な食材がたくさんしまってあるんだ。出入りは遠慮しておくれ」
マリーは「ごめんなさい」と言って、しぶしぶ階段から離れた。
「まあ、そのうちイヤでも入ることに……」
シェフがぽつりとつぶやいたので、マリーは首を傾げて彼を見た。
「いや、こっちのことだよ。さあさあ、ここには刃物や煮立った鍋や、焼けたかまどがあるんだ。怪我をしないうちに出て行ったほうがいい」
シェフに追い立てられ、マリーはキッチンを後にした。
「やれやれ。ジェームズさんも、早く新しい使用人を雇ってくれないかなあ。キッチンを一人で回すのはキツすぎる」
シェフの独り言を背中に聞いて、マリーの頭にあるアイデアが浮かんだ。マリーは急いで伯爵夫妻の寝室へと向かい、懐中時計を持って鏡台の前に立った。時計の蓋をぱちんと開けると、まばゆい光に包まれて、マリーは大人のマリーに変身した。そうして彼女はキッチンへ戻り、シェフに声を掛けた。
「こんにちは、シェフ。お手伝いするようにって、ジェームズさんに言われたんだけど」
「料理はできるのか?」
「できなくはないけど、お前の腕じゃシェフのお邪魔になるだけだって、ジェームズさんに言われました。でも、それ以外の雑用なら任せてください。こう見えても私、力持ちなんです」
「よし、それじゃあ食糧庫から小麦粉を持ってきてくれ。デザートのケーキを作らなきゃならん」
「はい、任せてください」
マリーは急いで地下への階段を駆け降りた。最後の一段を降りたところで変身が解け、彼女は子供の姿に戻った。
食糧庫は思ったより明るかった。地下室と言っても天井付近は地面より上にあるようで、二メートルほど上の壁面には、明かり取りの窓が設けられている。そこから、歩き回るのにじゅうぶんな光が差し込んでいた。
狭い通路をしばらく進むと広い区画に出た。壁に沿って積み上げられた木箱や袋、調味料や食用油の瓶がずらりと並ぶ棚などがあった。
鏡のマリーが隠れていないかと辺りを見渡していると、マリーは壁の一面が鉄格子になっていることに気付いた。歩み寄ってみれば、奥に人影が見える。
マリーの気配に気付いたのか、人影は飛び起きて格子に駆け寄った。
「おい、お前!」
それはマリーよりも二、三歳は年上の少年だった。きれいに整えられた髪は真珠のように真っ白で、瞳はラズベリーのような深紅。目を見張る美少年だが、もっとも驚くべきは彼の背中でぱたぱたはためく、純白の小さな羽根だった。