贈り物のルール
ここは、自分の迷宮のスタート地点。
マリーがその事を説明すると、天使たちはああでもないこうでもないと議論を始めた。彼らの姿を見つめながら、マリーは気が付いた。ここはスタート地点と同じように見えるが、丸っきり同じと言うわけでない。今や、彼女はひとりぼっちではなかった。彼女は迷宮を退け、仲間たちと一緒にこの場にいる。だったら、ここから歩き始めた時と、まったく同じことを繰り返しても無意味だ。きっと、正しい方法が他にある。そしてマリーには、その方法に心当たりがあった。ここで会った時、あの老人はなんと言っていた?
「みんな、お願い。何があっても絶対に私から離れないで。これで、みんなのクッキー一個分の貸しをちゃらにするわ」
マリーが言うと、天使たちは神妙に頷いた。マリーは正面を見据え歩き出した。曲がり角に突き当たっても、彼女は歩をゆるめなかった。周囲の風景がぐるりと捻れ、迷宮の壁はマリーたちに道を開けた。階段を降れば天地はひっくり返り、彼女たちは逆さのまま迷宮を歩き続ける。そうしてマリーたちは、いつの間にか大理石の扉の前に立っていた。扉の前には見知った顔があった。
「お見事」
ルクスはぱちぱちと拍手した。彼の傍らには鏡のマリーがいて、マリーをじっと睨みつけている。
「ルキフェル、邪魔をするつもりか?」
ミカエルは炎の剣を空中から取り出して言った。
「おいおい、ミカエル。そんな物騒なものはしまってくれ。もちろん邪魔なんてするつもりはないさ。迷宮を打ち負かした君たちには、この扉をくぐる権利がある。それを邪魔することは、迷宮の主である僕にだって許されることじゃない。それに僕らが本気で争ったりしたら、人間のマリーちゃんは無事じゃ済まないよ?」
「それもそうだな。思い出させてくれて助かった」
ミカエルはあっさりと剣を消し去った。ルキフェルは彼にお辞儀をしてから、マリーに目を向けた。
「まさか、僕のクッキーをあんな風に使うとは思わなかったよ。君が贈り物のルールでみんなを縛ってなかったら、きっと途中で一人か二人は迷子になってたんじゃないかな」
天使たちはぎょっとして顔を見合わせた。すると彼らは、マリーの「お願い」の意味に気付いてなかったと言うことか。
「あなたが気前よくクッキーを分けてくれたおかげよ。ありがとう、ルクスさん」
マリーが言うと、ルキフェルはくすくす笑って小首を傾げて見せた。
「どういたしまして。ところで、今は何時かな?」
マリーは懐中時計の蓋を開けて見せた。
「もう、そんな時間か」ルキフェルは眉間に皺を寄せた。「ちょっと急ぐから、僕たちはこれで失礼するよ」
すると鏡のマリーが、エプロンのポケットからピンクの口紅を取り出し、それで大理石の扉に「負けないわ」と書いてから、マリーに向かってあかんべえをした。マリーも同じくあかんべえをして、「私もよ」と言い返す。鏡のマリーはぷいっとそっぽを向いた。ルキフェルはそんな彼女たちを見て、少し苦笑を浮かべてから扉を開けた。鏡のマリーはその中に飛び込み、ルキフェルは会釈を残して彼女の後を追った。扉は重たい音を立てて勝手に閉じた。
「あのさ、ラグエル様」ふと、ハリーが言った。「マリーはクッキーの貸しを使って俺たちをここまで連れてきたけど、そのおかげで俺たちは迷宮を脱出できるんだから、彼女に新しい借りを作ったってことにならないかな?」
ラグエルは腕組みをして、しばらく考えてから真面目な顔でマリーに言った。
「世界征服をしたいなら付き合うぞ?」
「まあ、そんなことしないわ」
マリーは腰に手を当てて怒ったふりをしてから、少し考えて言った。
「でも、ひとつお願いがお願いがあるの」
「構わんが、なんだ?」
「練習よ」
マリーはラグエルに抱きついた。
「愛想や目つきが悪くっても、私はラグエル様が大好きよ。だから、誰かに嫌われて平気そうにしないでね。あなたを好きなみんなは、そう言うの平気じゃないもの。私やハリーや、ラファエル様、それと売店の店員さんに、ミカエル様。あなたを好きな人は、あなたが思ってるより、いっぱいいるんじゃないかしら。そんなにたくさんの人を悲しませるのは、きっとよくないことだと思うわ」
「わかった」
ラグエルはマリーの頭にぽんと手を置いた。
「僕にも借りを返させてほしいな」
ラファエルが片膝を突いて両手を広げるので、マリーは笑って彼を抱きしめた。
「ホットチョコレート、おいしかったわ。これからもラグエル様を助けてあげてね」
「言われるまでもないさ。だって、僕はラグエルのファンクラブ会員第一号なんだからね」
「会員証はあるの?」
ラファエルはくすっと笑っただけで、何も答えなかった。
マリーがラファエルから身体を離すと、ローズが彼女を抱きしめてきた。
「あの部屋で、あなたが『大丈夫?』って心配してくれた時、本当に嬉しかった。だから、私はあなたに二つの借りがあるの。あなたのお願いなら、どんなことでも聞くわ。それが、カマエル様を敵に回すことであっても」
「まあ、そんなことできるわけないじゃない」
マリーは、自分の間違いでローズを失ったと知ったカマエルが、泣いてそれを悔やんでいたことを思い出した。ローズも、子供のマリーにすがって泣くほど恐ろしい目に遭ったと言うのに、恋人に再会するために迷宮を打ち負かした。そんな二人を引き裂くような真似をできるはずがなかった。
「でも、カマエル様がラグエル様を、あまりいじめないように、それとなく言ってくれると嬉しいわ」
「ええ、やってみるわ」
ローズはくすっと笑って言った。カマエルは、鏡のマリーが化けた偽物とは言え、ローズがそそのかしただけでミカエルにさえ立ち向かったのだから、案外、彼女はうまくやってくれるのではないだろうか。
それからマリーはミカエルに目を向けた。ミカエルが笑顔で頷くので、マリーは彼にも抱きついた。
「私、これからハリーを連れて行くけど、きっと届出書を書く暇はないと思うの。彼がルール違反にならないように、何かしてあげられないかしら?」
「任せたまえ。しかし私だけ、ずいぶん事務的だな?」
ミカエルは苦笑した。
「だって、一番偉い天使様なんだもの。でも、大好きなのは、みんなと一緒よ」
「その一言で、私はまた君に借りを作ってしまったわけだが、どうやってお返しすればよいかね?」
「ミカエル様は、私のこと好き?」
「もちろん」
「だったら貸し借りなしね」
ミカエルから離れ、マリーはハリーを見た。彼は自分の顔に指を向けるが、マリーが首を振るのを見て「そうだと思った」とため息をついた。
「そろそろ出発しましょう。ジロー坊ちゃまも探さなきゃ」
「そうだな。あのオンボロ兎、無事だったらいいけど」
マリーとハリーは並んで扉に歩み寄った。
「ねえ、ハリー。やっぱり、この扉って二つなの?」
ハリーは頷いた。
「一つは天界に、もう一つはどこかわからない場所に繋がってる。鏡のマリーがラクガキした時に、そうなったんだ」
「よかった。じゃあ、みんなはちゃんと天界へ帰れるのね」
「俺は当分、無理だけどな」
「そうね。大好きよ、ハリー」
「ちぇ、せいぜい頑張るさ」
ハリーは重たい扉をぐいと押し開き、マリーに右手を差し出した。マリーはその手を取り、振り返って天使たちに別れを告げた。マリーとハリーは頷き合って、扉の中へと飛び込んだ。新しい冒険の始まりだった。




