水晶の迷宮
右も左もわからず、ともすれば上下すら見失ってしまいそうな深い闇の中を、マリーは歩いていた。しばらく進むと、少し先に黄色い光がぽつりと灯った。光に駆け寄ると、それは灰色のローブをまとう老人が手にするランプの灯りだった。
「やっと来たか」
老人は言った。
「こんにちは、おじいさん」
マリーがお辞儀をすると、老人は小首を傾げて見せた。
「ついてこい」
老人の後をついていくと、マリーはいつの間にか赤い絨毯が敷かれた廊下に立っていた。窓がひとつも無いことを除けば、どこかのお屋敷のようにも見える。想像していた迷宮の姿とはかけ離れていて、マリーは拍子抜けした。
「このまま真っ直ぐ進むといい」
老人は言うと、近くにあった青い扉を開け、それからふと思い出したかのように振り返り、言った。
「ここで、わしと会ったことは誰にも言うなよ。わかったな?」
マリーが頷くと、老人は扉の向こうに消えた。マリーはすぐに追いかけ扉を開けようとするが、鍵でも掛かっているのかびくともしなかった。仕方なく老人に示された方へ進むと、向こうから見知った顔が現れた。
「遅かったな。外で何かあったのか?」
ハリーだった。
マリーは「ちょっとね」と人差し指と親指にすき間を作り、他のみんなの所在について尋ねた。
「わからないよ。俺が来たときは、誰もいなかったんだ」
「探した方がいいわね」
しかし、マリーが歩き出しても、ハリーは動こうとしなかった。訝しく思いながら振り返ると、彼は言った。
「なあ、マリー。もう、やめないか?」
マリーは首を傾げた。
「鏡のマリーだよ。あいつを捕まえてどうするんだ?」
「家へ帰るの。影がないと、きっとママはびっくりするもの」
すると、ハリーはため息をついて首を振った。
「家に帰ってどうするんだ。ママに会いたいのか?」
「そうよ。当たり前じゃない」
「仕事、仕事って、いつもお前をひとりぼっちにするママに?」
マリーは答えを返せなかった。
「俺は、今が一番じゃないかって思ってるんだ。だってさ、今のお前には俺もジローもいて、ひとりぼっちじゃない。辛い思いをして家に帰ったって、なんにもいい事ないだろ?」
ハリーの言う事はもっともだ。家にいたときのマリーは、いつもひとりぼっちだった。遊び相手はウサギのハロルド一匹と、本の中のお話だけ。しかし、今は冒険があり、仲間がいる。辛いことも怖いこともあったが、少なくとも寂しくは無かった。
「もうみんなやめにしようぜ。そうして、俺たちといつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたしで、このお話を終わらせるんだ」
ハリーが右手を差し出した。マリーは彼に歩み寄った。そして、渾身の蹴りを放つ。
「何するんだよ。危ないな!」
マリーの蹴りを飛び退いてかわし、ハリーは抗議した。マリーはふと笑みを浮かべ、彼に指を突きつけた。
「あなた、ハリーじゃないわ」
「何を言ってるんだ?」
ハリーはぎょっとして言った。
「だってハリーは、いっぺんだって私のキックやパンチを、よけたことないもの」
ハリーは目を丸くして、それからマリーの声で笑い出した。
「確かにそうね。うっかりしてたわ」
「次からは気を付けたほうがいいわ」
「ええ、そうする」
ハリーの偽物は手鏡を取り出すと、それを覗き込みマリーの姿に戻った。
「ここを抜け出すのに、協力するつもりはある?」
マリーはだめもとで聞いてみた。鏡のマリーは首を振った。
「そう。あなたには、あてがあるのね」
鏡のマリーは頷き、マリーの脇を通り過ぎて立ち去った。今なら、追いかけて取り押さえることもできるかも知れない。しかし、マリーはそうしなかった。彼女は、このゲームのルールを理解し始めていた。鏡のマリーとの鬼ごっこの決着は、そんなことではつけられないのだ。
マリーは両手で自分の頬をぺちんと叩き、迷宮の廊下を歩きだした。
他に手掛かりは無いのだから、老人が言った方向へひたすら歩いてみるつもりだった。もっとも、その試みはすぐに頓挫した。角を曲がると右手の壁にはずらりと扉が並び、左手には枝道もある。迂闊に歩き回れば、すぐ迷子になってしまいそうだ。
マリーは妙案を思い付いた。エプロンのポケットを探り、ルクスのクッキーを二枚取り出す。一枚をポケットへ戻すと、残った一枚から小さな欠片を折り取り、砕いて足下にぱらぱらと落とした。ほんのわずかな量だが、それでじゅうぶんだった。白いクッキーの粉は、真紅の絨毯によく映えたからだ。調べ終えた部屋の前や分かれ道に、こうやって目印を付けて行けば、そうそう迷うことは無いだろう。そうやってくまなく辺りを探索し、彼女は降りの階段を発見した。今のフロアには誰もいなかったから、ハリーたちがいるとすればこの先だ。
しかし、探索はすぐに行き詰まった。この階には、先ほど降りて来たものを除いて、他に階段らしきものが見当たらなかったのだ。もちろん天使たちの姿も無い。仕方なく彼女は、一度覗いた部屋を一つずつ調べ直すことにした。最初に入ったのは、彼女が勝手に「武器庫」と名付けた広い部屋だった。壁紙も絨毯もなく、壁や天井や床は石のブロックがむき出しになっていて、辺りには凶悪そうな武器がずらりと並んでいる。圧巻なのは、マリーの背丈の倍近くもある巨大な戦斧だ。それは壁の高い場所で水平に掛けられており、子供のマリーでは手を伸ばしても指先すら届かなかった。三日月形に磨き上げられた刃は、あちこちの壁面に掲げられた燭台の灯りを受けて、禍々しく輝いている。
武器庫を念入りに調べ上げたマリーは、そこには何もないと結論付けて次の部屋の調査に取り掛かった。武器庫の他には「図書室」と「書斎」があり、マリーが選んだのは書斎だった。机がひとつあるだけのその部屋は狭く、怪しげな物も場所も何一つ無かったが、それは彼女が予想した通りの結果だった。なぜなら、最後に残った図書室こそ、マリーの本命だったからだ。
図書室に入って目を引くのは、三方の壁面に設えられた大きな書架。部屋の中央には、本を読むための大きなテーブルと六脚の椅子がある。よくあるお話のように、本を動かすと仕掛けが作動して隠し扉が現れるのを、マリーは期待していた。ところが、手の届く範囲の本を書架から全て引っ張り出しても、それらしい仕掛けは見当たらない。残るは書架の一番上の段だが、背伸びをしてようやく棚板に指先が掛かるくらいの高さなので、中を調べるなど到底無理な話だ。床の上に積み上げた本の山に座り、マリーは考えた。大人に変身すれば楽に届きそうだが、生憎とこの部屋に鏡になりそうなものは一つも無かった。もちろん、積み上げた本を踏み台にすることも考えたが、重たい本を抱えたまま、ぐらぐら揺れる足場を降りるのは名案ではないと、すぐに思い知らされた。
頭にできた大きなたんこぶをさすりながら、マリーは「そうだわ」と呟き、本の山から床の上にぴょんと飛び降りた。迷宮の入口で、短剣の刃を鏡代わりに変身したことを思い出したのだ。武器庫へ向かい、様々な形の武器を一つずつ吟味する――が、いくら探せど鏡代わりになりそうなものは一つも無い。中には薄っすらと錆が浮かんだものまであり、手入れもされず長らく放置されていたことがわかる。がっかりして武器庫を後にしようと扉へ向かったとき、彼女ははっと息を飲んで振り向いた。見上げれば例の戦斧がぎらぎらと刃を光らせている。もちろん背は届かないから、それに顔を映すには工夫が必要だった。彼女は武器庫と図書室を何度も往復し、戦斧の下に本を積み上げた。突貫工事で完成した足場は不吉にぐらついていたが、大人に変身する間くらいはもってくれるだろう。
用心しながら本の山に這い上り、懐中時計を取り出すと、果たせるかな大人のマリーの顔が、三日月形の刃に映し出された。ぱちんと蓋を開け、くるくる渦巻く光に包まれて、マリーは大人の姿に変身する。しかし、しめしめとほくそ笑むのも束の間、彼女は計算違いに気付いた。子供の小さな足ならともかく、変身した彼女には足場が狭すぎたのだ。マリーはバランスを崩して石の床へと落下し、お尻を強かにぶつけるハメになった。
「ひどいわ」
崩れた本の山に抗議し、マリーは立ち上がった。お尻をさすりながら目を上げ、ふとあることに気付く。戦斧を支える掛け金の付け根に、スリット状の穴が空いていたのだ。ひょっとしてと重たい戦斧を壁から外せば、掛け金は音を立てて跳ね上がり、背後から石臼のような音が響いてくる。振り向けば床の一部がぽかりと消え、そこには降りの階段が現れていた。マリーは大きなため息をつき、戦斧をぽいと投げ捨てた。戦斧は床に落ちて、けたたましい音を立てた。誰かにからかわれてるような気分を味わいながら、彼女は階段を降りた。




