カマエルの陰謀
急ぎ足で進むラファエルを追って、マリーたちがやって来たのは役所の最上階だった。ガラスの壁と天井に囲まれたそこは、背の低い草花が床を覆う庭園になっていて、そこかしこに大小さまざまな透き通った水晶の岩が転がり、きらきらと虹色の光を放っている。うっとりするほど美しい場所なのだが、そこに集う天使たちは、ひどく不穏な空気を漂わせていた。
超然と立つラグエルの胸元に、指を突き付けながら何やら激しくまくし立てる赤い鎧の天使と、彼の背後で「そうだ、そうだ」と叫ぶ数人の天使。そして、困った様子でそれを見守る、ミカエルの姿。
「カマエル様じゃないか。困ったことって、あれ?」
ハリーが聞くと、ラファエルは肩をすくめた。
「僕とラグエルがマリーちゃんの影を探していたら、警備課の人からここへ行くように言われてね。それから、ずっとあの調子なんだ」
「全員、揃ったか。ラファエル、使いを頼むような真似をして悪かったな」
ミカエルがほっとした様子で言った。
「気にしなくていいよ、ミカエル。それよりも、二人に説明してあげてくれる?」
ミカエルは頷いた。
「カマエルは、ラグエルが監視者としての義務を怠り、ハリーに不当な罰を与えたと主張している。私としては、罰を受けたハリーの意見も聞くべきだと思い、ラファエルに君たちを連れて来るように頼んだのだ」
「主張ではありません、天使長。これは告発です」
カマエルは訂正した。
「告発? 俺の適性がどうとか言う、当てこすりにしか聞こえなかったけどな」
ラグエルは頭を掻きながら言った。
「ただの前口上だよ、ラグエル。観客が揃うまでの、ちょっとした時間つぶしだ」
カマエルは口の端を歪めて言った。
「楽しみだなあ。どんな三文芝居が始まるんだろう」
ラファエルが混ぜっかえす。
「お前の役目は終わりだ、ラファエル。厨房へ戻っても構わないぞ」
「お構いなく、カマエル座長。それとも、立ち見はお断りって言いたいの?」
にこにこ顔のラファエルに、何を言っても無駄だと悟ったのか、カマエルは彼を無視してミカエルに目を向けた。
「まずは、ラグエルの怠慢の証拠をご覧にいれましょう」
「よっ、カマエル屋!」
ハリーはからかうように言うが、カマエルにじろりと睨まれラファエルの後ろに逃げ隠れた。カマエルは部下の一人に命じて、くしゃくしゃに皺の寄った三枚の書類をミカエルに差し出した。
「これは、ハリーが人間界へ赴く前に提出した届出書です」
ミカエルは書類に目を通した。
「なるほど。確かにハリーの届出書と、その写しだ。しかし私はハリーが無届けで人間界へ行き、その罰を受けたと聞いている。なぜ今さらこんなものが出てきたのだ?」
「盗まれていたのです」カマエルは苦り切った顔を見せた。「言わば、これは我々警備部の失態の証拠とも言えましょう。しかし、同時に監視者が勤めを怠った証拠にもなるのです」
「よくわからないな」
「簡単なことです、天使長。ハリーは当初から、届出書を提出したと訴えています。我々天使は嘘偽りを口にできませんから、それは真実と言うことになるのです。しかしラグエルは彼の言い分に耳を貸さず、失われた書類の捜索を怠りました。そのためにハリーは牢へ捕らえられ、さらには受けるべきではない罰を受けたのです」
どうだと言わんばかりに両手を広げ、観衆にアピールするカマエルだったが、なおも首を傾げるミカエルの様子に、そのしたり顔は次第に薄れ、代わりに不安の色が浮かんできた。
「お前の言うことは、いちいちもっともだ」
ミカエルは認め、カマエルは自信を取り戻した。
「しかし、まだわからないことがある。その書類は一体だれが盗んで、お前はどうやってそれを手に入れることができたのだ?」
「犯人は、そこの娘の影です」
カマエルはもったいぶった仕草でマリーを指さした。
「我々は影を捕らえ、彼女のポケットから件の書類を発見しました」
「どうやって捕まえたんだ?」
ラグエルが口を挟んだ。
「ハリーに聞いた話だと、マリーの影はなかなか手強い相手らしいぞ。お前も、最初の捜査で盗まれた証拠を見付けられなかったと言ってただろう。お前たちの目を盗み、証拠も残さずまんまと書類を盗み出すようなやつを、なぜ今になって捕まえることができたんだ?」
「それは……」
カマエルが言いよどむと、彼の部下たちの中からローズが歩み出た。彼女は上司の横に立ち、艶然と微笑みながら言った。
「彼女から私に、取引の申し出があったのです。ラグエル様を陥れる証拠があるから、引き換えに人間の娘を捕らえてくれ、と。もちろん、その場で縄を打ち、速やかにカマエル様へ引き渡しましたわ。私が資料室の検分を終えて、カマエル様のオフィスへ戻る途中の出来事です」
ハリーがひゅうと口笛を鳴らした。
「あいつ、本当に陰謀が大好きだな?」
なんで普通に逃げないのかしらと、マリーはため息をついた。余計なことをしなければ、今頃はずっと遠くへ逃げられていただろうに。しかし、これはチャンスだった。鏡のマリーは今、どこにいるのだろう。なんとか、カマエルから居場所を聞き出せないものだろうか。
カマエルは咳払いした。
「経緯はともあれ我々は犯人を捕らえ、証拠も手に入れた。何か異論はあるかね?」
「いや、何も」
ラグエルは肩をすくめた。
「俺はあるぞ」
ハリーが言うと、カマエルはいかにも面倒くさいと言った様子で、彼に目を向けた。
「俺の届出書が盗まれたってことがわかったのも、マリーの影がうろついているってわかったのも、ついさっきのことじゃないか。いくらラグエル様だからって、俺が逮捕された時にそこまで考えられるわけないだろ」
「しかし、実際にお前が罰を受けたのは、ラグエルが盗難の可能性に気付いた後だ。となれば、彼はお前への罰を保留にすべきだったのだ」
「罰をくれって言ったのは俺だ」
ハリーは食い下がった。
「その時は、まだマリーの影が本当に盗みを働いたかどうかわからなかったし、書類も見付からない上に盗みの証拠もなかった。そうなると、俺のルール違反を無かったことには出来ないだろ? それに、牢から出してもらう代わりにちゃんと罰を受けるって、ミカエル様との約束もあったんだ。ラグエル様に責任はない」
「では、お前を牢から出すべきではなかったな」
「あんたが言ってるのは全部、後知恵じゃないか!」
「もういい、ハリー」
ラグエルはハリーを止め、カマエルに目を向けた。
「マリーの影はどこだ」
するとカマエルはニヤリと笑って見せた。
「なんのために、この場所へ呼ばれたのか気付いてないのか。あれは迷宮の中だ。会いたければ勝手に会いに行けばいい」
彼は身振りで自分の背後にある水晶の大岩を示した。人の背丈ほどもあるその岩には、大理石の扉が設えられていた。
「迷宮って?」
マリーが聞くと、ハリーは少し蒼ざめながら答えた。
「ずっと昔、神様に逆らった天使がいて、そいつが天界から逃げ出す時に、追っ手がついて来られないように作った場所なんだ。追いかけて行った天使のほとんどは二度と戻って来られなくて、どうにか戻れた天使も、ろくに話しも出来ないくらいポンコツになってたって聞いてる。だから、中がどうなってるかは誰にもわからない」
マリーは大理石の扉に目を向けた。この向こうに鏡のマリーがいる。彼女を取り戻すには、この扉をくぐり抜けるしかない。
マリーはハリーを見た。行きましょうと言う言葉を、彼女はぐっと飲みこんだ。もちろん、マリーがそうと決めれば、彼は一緒に来てくれるだろう。しかし、扉の向こうでは明白な危険が待ち受けているのだ。それも、強大な力を持つ大人の天使が正気を失うほどの。そんなところへ、彼を連れて行くわけにはいかなかった。とは言え、八歳の女の子一人で何ができるだろう。考えるうちに、マリーは分身を永遠に失ってしまったように思えてきた。
「なるほど。それが、あんたの選んだ俺への罰ってわけか」
ラグエルは肩をすくめた。
「誰かに罰を与えるのは監視者の仕事じゃ無かったか? その重荷を譲り、代わりに罰を決めて欲しいと言うのなら、私は喜んで引き受けるぞ」
「いや、それには及ばないさ。それじゃあ、ちょっと行ってくるか」
まるで散歩にでも出かけるかのような口ぶりで言うと、ラグエルは大理石の扉に向かって歩き出した。
マリーは慌てて彼の袖を引き、何度も首を振った。
「影はあの中なんだぞ。迷宮に入って探さないと、連れ戻せないだろう?」
確かにその通りだ。しかし、だからと言ってラグエルがそれをする理由は無い。
「理由ならある。これは監視者の俺が、俺に下した罰なんだ。かばってくれたハリーには悪いが、あいつに罰を与えたのは俺のミスだ。警備部の協力を失いたくないと考え、俺は判断を過った。だから、俺は罰を受けなければならない。それに――」
ラグエルはふと言葉を切って、きまりの悪そうな笑みを浮かべた。
「カマエルのオフィスで言っただろう。俺は、お前が気に入ってるんだ。だから、お前の助けになりたい。それじゃダメか?」
マリーは何も言えなくなった。そんな風に言われて、どう引き留めればよいのか。しかし、彼をあきらめるわけにはいかない。マリーはミカエルに目を向けた。なんと言っても、彼は天使の中で一番偉いのだから、この状況を引っくり返せるのは彼しかいないだろう。
「ラグエル様を止めて」




