資料室の事件
役所の廊下を歩きながら、マリーは不思議に思っていた。ラグエルと並んで先を行くローズは、なぜあんなにぷりぷりとお尻を揺らして歩けるのだろう。今の身体は彼女と同じ大人なのに、マリーにはどうしても真似できない。いろいろ試しているうちに、とうとうハリーが言った。
「大丈夫か、マリー。どっか、かゆかったりうまかったりしないか?」
心配しているのはわかるが、何を心配しているのか、マリーにはよくわからなかった。
そうこうしている間にマリーは子供の姿に戻り、一行は資料室へたどり着いた。資料室の中には書架がずらりと並んでいるが、その半分以上は空っぽで、床には大量の資料がぶちまけられていた。入口の脇にはカウンターがあり、そのかたわらで途方に暮れた顔の天使が、一人立ち尽くしている。彼はマリーを見るなり、ぎょっと目を見開いて言った。
「お前は!」
マリーは、またかとため息をついた。やはり、鏡のマリーもこの天界に来ているのだ。そして彼女は、相変わらずイタズラを繰り返しているらしい。
「よく見ろ」ラグエルが言った。「ちょっと変わってるが、こいつは人間で、お前が見たのは彼女の影だ。お前も天使ならわかるだろう?」
天使は目をこらしてマリーを見てから頷いた。
「それより、ここで何があった?」
ラグエルが聞くと、天使は事の次第を話し始めた。彼は、ここの管理を担う天使で、事件は彼が昼食のために席を外した隙に起きた。昼食を終えて戻ってきた彼は、マリーにそっくりな女の子が資料室から逃げ出すところを見付け、訝しく思いながら中を覗いてみると、この有様だったらしい。そして、たまたま通り掛かった警備課の職員に事態を通報し、今に至る――と言うわけである。
「逃げ出した娘が、どこへ行ったかわかるか?」
ラグエルの問いに、資料係は鏡のマリーが逃げた方向だけを告げ、どこへ行ったかまではわからないと首を振った。
「あの、ラグエル様。私の罰はどうなるんでしょう?」
資料係の天使はしょんぼりと聞いた。しかし、この惨状は、どう考えても彼の責任ではない。マリーはその事を指摘するが、ラグエルは首を振った。
「こうなったのは、こいつが不用意に資料室を空にしたからだ」
マリーは引き下がらなかった。
「ゴハンや、おトイレに行くことがルール違反なの? そんなの馬鹿げてるわ」
「マリーちゃんが言うことは、もっともだよ」ラファエルが応援した。「今までは彼が席を外している間に、資料室を荒そうだなんて考える人がいなかったから、たまたまうまく回ってたんだろうけど、本来は複数人であたる業務なんだ。そうじゃなきゃ、ここに鍵を掛けられるようにするかだね」
「体制に問題があるのはわかったが、ルールはルールだ」
ラグエルは頑なに言ってカウンターへ向かい、そこにあった紙切れにペンで何事かを書き付け、それを資料係の胸元に押し付けた。
「今から、これを持って天使長室へ行ってこい。そこでミカエルの書類の整理を手伝え。それが、お前の罰だ」
「私が、ミカエル様のお手伝いを?」
信じられないと言った様子で、資料係はラグエルの書き付けを胸に抱きしめた。
「不服か?」
「とんでもない、喜んでお受けします。ありがとうございます、ラグエル様」
資料係は深々と頭を下げた。なぜ彼は、これほど嬉しそうに罰を受け入れるのだろうとマリーが首をひねっていると、ハリーが説明してくれた。
「ミカエル様は、みんなの憧れなのさ。そのお側で仕事が出来るってなれば、罰と言うよりご褒美なんだろ。まあ俺は、そんなのごめんだけどな」
そう言えば彼は、ミカエルのステンドグラスが飾られた教会から、逃げ出したことがあった。なぜそんなにミカエルを嫌うのかと問えば、「偉い人は、なんか苦手なんだよ」と彼は渋い顔で答えた。
「罰に喜ばれても困るんだがな」
ラグエルは頭を掻いた。
「まあ、いいか。ついでに、夜になったら守衛室へ来るよう彼に伝えてくれ」
資料係は頷き、いそいそと資料室を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、マリーは天使長室で見た書類の山を思い出し、少しだけ彼のことが心配になった。そのことをラグエルに告げると、彼は「そうじゃなきゃ罰にならん」と真面目な顔で答えた。
「ミカエル様を呼びつけて、どうするの?」
ハリーが聞いた。
「説教する。体制に不備があるなら、それは天使長の責任と言う事になるからな」
マリーは思い出した。場合にもよるが、監視者は天使長よりも強い権力を行使できる――と、ラファエルは言っていた。しかし、それが天使長にお説教をする権限だとすれば、少し拍子抜けである。
「なあ、ラグエル様。マリーの影がウロウロしていることもわかったし、俺の罰もナシにならない?」
ハリーが期待を込めて言った。
「ならない」ラグエルはきっぱりと言った。「今のままじゃ、影はまだ参考人止まりだ。限りなく黒だとしてもな」
「やっぱり、ダメか」
と、ハリーはため息をついてから、覚悟を決めた様子で言った。
「ミカエル様との約束もあるし、それならさっさと済ませちゃってよ」
「いいのか」ラグエルはピクリと片眉を上げた。「マリーの影を捕まえれば、帳消しになるかも知れないんだぞ?」
「あいつが、簡単に捕まるとは思えないんだよなあ。警備課の連中がひどい目に遭う方に、三シリング賭けてもいい」
「生憎、俺は人間の金を持っていなくてな」
ラグエルはズボンのポケットを叩いて見せた。
「なんだっていいさ。それより――」
ハリーは、資料室の中を歩き回って被害の状況を調べるローズに、ちらりと目をやった。
「カマエル様が言ってたこと、忘れたの。あいつ、ラグエル様が俺に気を遣って、罰を延ばし延ばしにしてるんじゃないかって疑ってだろ?」
ラグエルは口元に手を当てて考え込み、ハリーはさらに続けた。
「一応、あいつの力を借りて影を捜索してるんだから、今は足元を見られないように気を付けた方がいいと思うんだ。さもないと、難癖付けて協力するのを止めるって言いだすかも知れない」
「お前の言うとおりだ、ハリー」
ラグエルは認め、両手を広げてこう続けた。
「お前は散らかった資料をすっかり整理して、この部屋を元通りにするんだ。それを、お前の罰とする」
「資料整理なんてどうやればいいのさ?」
ハリーは途方に暮れた様子で言った。
「ほとんどの資料には分類や並び順を書いた背ラベルが貼ってあるから、それを見ながら書架の決められた場所へ収めればいい」
「わかった、やってみるよ」
ハリーは神妙に頷いた。
「私は、カマエル様のところへ戻ります。このことを、ご報告しなければなりませんから」
調査を終えたローズは会釈をして資料室を出て行った。
「俺は影の足取りを追ってみるか」
ラグエルも資料室を去り、ラファエルは「手伝うよ」と言って彼を追った。
大人たちがいなくなると、ハリーは床に散乱する大量の資料を眺め、盛大にため息をついた。それから彼は、すがるような目でマリーを見た。マリーは答える代わりに、床の上の本を一冊取り上げて言った。
「これから始めましょう?」




