ラグエルとカマエル
「やあ、ハリー君。釈放、おめでとう」
留置場兼食料庫を出たマリーたちを、ラファエルが笑顔で出迎えた。いつの間にか食堂は空っぽで、照明も落とされている。ラファエルに聞けば、ちょうどお昼の営業時間が終わったところだと言う。彼はホットチョコレートのカップを人数分用意してから流し場に腰をもたれると、「それで?」と聞いてきた。ラグエルが事情を説明すると、彼はしげしげとマリーを眺め、言った。
「本当だ。確かに大人の姿が入ってるね」
「いいおっぱいだろ?」
ハリーが懲りずに聞いた。
「うん、素敵だと思うよ」
ラファエルはにっこり笑顔で返す。マリーはハリーのおでこにチョップを入れた。ハリーは「なんで俺だけ?」と抗議する。
「ラファエル様はエッチな感じがしなかったもの」
「なるほど」
ハリーはおでこをさすりながら納得した。
「消えた書類に、マリーちゃんの影か。ねえ、ラグエル。探すったって、まさか闇雲に走り回るわけじゃないよね?」
ラファエルが聞いた。
「警備部に応援を頼む」
それを聞いたラファエルは、笑顔を微かに強張らせた。
「カマエルに頭を下げるの?」
「この面子だけで幽霊探しをするのは、少しばかり骨が折れそうだからな」
ラグエルは肩をすくめた。
「カマエル?」
尋ねるマリーにラファエルが答える。
「警備部の部長さんで、ラグエルを蛇みたいに嫌ってる人だよ。そして僕は、彼を毒虫みたいに嫌ってるんだ」
食堂にいた天使たちのいけ好かない態度もそうだが、なぜ彼らはラグエルを、そこまで嫌うのだろう。
「俺の仕事に関係があるのさ」
ラグエルが言った。
「守衛さん?」
「そっちじゃない。俺は監視者なんだ。他の天使たちがルールを破っていないか見張って、もし不正があれば罰を与える」
「みんなラグエル様が、意地悪で罰を決めてるって思ってるんだ。ちゃんと話をすれば、そうじゃないことくらい、すぐわかるのに」
ハリーはふんと鼻を鳴らして言った。彼も他の天使たちの態度には、物申したいところがあるようだ。
「みんな、ラグエルと話をする機会が無いんだよ。君みたいにしょっちゅうルールを破って、ラグエルにお説教されてるなら話は別だけど。それに、ラグエルは目付きも愛想も悪いから、ひどく誤解されやすいんだ」
「悪かったな」
ラグエルは鼻を鳴らした。
「謝ることなんてないさ。それが君だからね」
ラファエルは寛大なところを見せた。
「けどね、カマエルがラグエルを嫌う理由は他の人たちとちょっと違う。彼は、監視者にふさわしいのは自分で、ラグエルはその邪魔をしていると考えてるんだ」
みんなに嫌われるような仕事をしたがるとは、なんとも奇特な人物である。
「そうじゃないよ、マリーちゃん」
ラファエルは笑いながら訂正した。
「監視者って、場合によっては天使長よりも強い権力を使えるんだ。ラグエルは、それを笠に着るようなことをしないから、みんなはすっかり忘れてるようだけど、カマエルは違う。あいつは、ただ威張りたいって理由で監視者になりたがってる。ねえ、ラグエル。そんなやつに借りを作ったりしたら、きっとろくな事にならないよ?」
「好き嫌いで仕事をこなせるほど、俺は器用じゃないんでね。さっさと行って片付けてしまおう」
そう言って、ラグエルはホットチョコレートを飲み干した。
一行がやってきたのは、マリーにも覚えがある警備課の窓口だった。例の女性職員に用件を告げると、彼女は「カマエル様はオフィスにいらっしゃいます」と言って、自分の仕事に戻ってしまった。勝手に行けと言う事だろうか。
ラグエルは事務机の間をずかずかと通り抜け、部長室と室名札が掲げられた部屋の前に立ち、その扉をノックも無しに開け放った。
天使長室よりも豪奢な机の向こうに、赤い甲冑をまとう天使がいた。彼は不機嫌な表情を隠しもせず、乱入者を冷たい目で睨み付ける。彼の傍らには目元にほくろのある女性天使が立っていて、彼女はすました顔で服の乱れを整えていた。
「カマエル、厄介ごとだ」
「お前以上の厄介ごとなどあるものか。ラグエル、なんの騒ぎだ?」
ラグエルは手早く経緯を説明し、話を聞き終えたカマエルはマリーに目を向け言った。
「影だと?」
ラグエルは頷く。
「ハリーの話によれば、そいつは逃げた影の例に漏れず主人のマリーを嫌っていて、マリーにたちの悪い嫌がらせを繰り返しているらしい。俺たちは彼女が、ハリーの書類を盗んだ犯人じゃないかと疑っている」
「主人への嫌がらせのためにか? くだらん」
と、カマエルはうんざりした様子で言った。
「お前がどう思っているかは知らんが、警備部は無能の集まりではない。ハリーが書類を提出したと主張した時点で、我々は盗難の可能性について捜査を行っているのだ。それでも盗難があったと言う証拠は見つからなかった。私には、お前が友だちに罰を下すのを引き延ばすために、あれこれ言い訳を並べ立てているように見えるがね」
「そんな器用なことをするだけの才能があったら、ラグエルの友だちはもうちょっと多いはずだよ」
ラファエルが口を挟んだ。
「つまらんことを言って邪魔をするな、ラファエル」
カマエルはじろりとラファエル睨んで言った。そして彼は、ふとマリーを見て首を傾げた。
「しかし、なぜ影の代わりが大人の姿なのだ?」
マリーはきょろきょろと辺りを見回し、壁掛けの姿見を見つけると、その前に立って懐中時計の蓋を開いた。大人に変身したマリーは、目を丸くする天使たちに向き直り、お辞儀をして見せた。
「驚いたな」
カマエルは変身したマリーを舐めるように見回した。それは、マリーを食べようとしたラビーノ伯爵の視線に、あまりにもよく似ていたので、彼女は背中が粟立つのを感じた。カマエルはいやらしい笑みを浮かべ、ラグエルに言った。
「この人間、私に譲るつもりはないか?」
「悪いな、カマエル。俺はこいつが気に入ってるんだ」
ラグエルは、眉間に微かな皺を寄せて答えた。
「そうか、残念だ」
カマエルは未練がましくマリーを一瞥し、ラグエルに向き直った。
「まあ、いいだろう。面白いものを見せてくれた人間への礼に、警備課を影の捜索にあたらせよう。それで構わんな?」
「ああ。恩に着るよ」
「お前の口から礼が聞けるとは思わなかったな。あるいは、お前は天使では無くて、悪魔の類ではないか。そうであれば、心にも無いことも口に出来るだろうからな」
カマエルがくどくどと憎まれ口を重ねていると、不意にオフィスの扉が勢いよく開け放たれ、窓口にいた女性天使が駆け込んで来た。
「どいつもこいつも、なぜノックをしない」
カマエルはぶつぶつ言った。窓口係の天使は上司に駆け寄ると、なにやらこそこそ耳打ちをする。カマエルの眉がぴくりと持ち上がった。彼は窓口係をオフィスから追っ払うと、ラグエルに目を向けた。
「手掛かりが勝手に転がり込んできたぞ、ラグエル」
「どう言うことだ?」
ラグエルは訝しげに聞いた。
「その娘の影が、資料室で何やらしでかしたらしい。おい、ローズ。ラグエルと一緒に行って、何があったか詳しく見てくるんだ」
カマエルは泣きぼくろの女性天使に命じた。女性天使は頷き、一歩進み出て会釈した。
「ローズと申します。よろしくお願いいたします、ラグエル様」




