天使長ミカエル
そこは、窓ひとつない石積みの狭い部屋だった。片隅に置かれた机の前に、灰色のローブをまとう白髪の老人が一人。ちっぽけなランプの灯りを頼りにして、黄味をおびた紙に何やら熱心に書き付けている。
そんな、以前に訪れたときと全く変わらない風景を見て、図書室に通じる赤い扉の前に立つマリーは、一瞬、時計が巻き戻ったのかと思った。
「意外に早かったな」
老人は手を止め、マリーに目を向けた。
「お久しぶりです、おじいさん」
マリーがお辞儀をする。
「聞きたいのは、お前の連れについてだな? 生憎と魔物の子については、わしにも居場所は掴めておらん。ハリーは今、捕らえられて牢の中にいる」
どうしてと聞こうとしたマリーを、老人は止めた。
「わしに理由を聞いて時間を無駄にするな。詳しいことを知りたければ、ミカエルに聞け」
しかし、マリーにはもう一つ、どうしても聞きたいことがあった。
「ウサギのハロルド?」老人はきょとんとした。「やつなら心配はいらん。元気にしているぞ。ただし、居場所は教えられんがな」
マリーは理由を尋ねるが、老人は「そう言うルールだ」と、にべもなかった。
「わかったら、さっさと行け。出口は青い扉だ」
そう言って、彼はまた仕事に戻った。
マリーはあきらめ、青い扉のノブに手を掛けた。
老人の部屋を出ると、マリーは雲の上に立っていた。足元の地面はふわふわとゆらめいているが、爪先で突いてみれば、見た目とは裏腹に意外としっかりしていることがわかる。ふと振り振り向けば、ずんぐりとした石造りの塔が建っていた。老人がいたあの部屋を収めるにしては、ずいぶんと大げさな建物である。
地面が雲であることを除けば、辺りは普通の街並みだった。公園があり、通りがあり、カフェや新聞売りの屋台もある。ただし、行き交う人々はもれなく美しい顔立ちの天使ばかり。マリーはカフェのテラス席で新聞を読む一人の天使に声を掛けた。
「ミカエル様? ああ、彼なら役所じゃないかな。けど、忙しい方だから会えるかどうかわからないよ」
「お役所って、どこですか?」
「向こうに見える、あの大きな建物さ」
天使が指さした先には、四階建てのアパートメントがあり、その屋根の向こう側に、四角いガラス張りの塔がにゅっと飛び出している。
「大して遠くないから、真っ直ぐ進めばすぐに着くよ」
マリーは天使に礼を述べてから、お役所を目指して歩き出した。しかし、通りを進み路地を抜け、最短距離を進んだはずなのに、ガラスの塔は大きくも小さくもならなかった。まるで月を追い掛けているような気分だ。
ほとほと疲れ果て、ため息をついたマリーは、ふと天使が言ったことを思い出した。彼は、真っ直ぐに進めと言っていたではないか。それならばとマリーは、行き先に壁があるのも構わず、真っ直ぐお役所の方へ歩き出した。すると周りの建物はくるくる回転しながら、マリーの進む道から勝手によけ始め、ほどなく彼女はお役所にたどり着いた。
入り口の前に立つと、ガラスの扉が勝手に開いた。建物の中へ入るとそこはロビーになっていて、その真ん中に「総合案内所」と書かれた丸いカウンターがある。カウンターの中にいた女性の天使に、ミカエルに会いたい旨を伝えると、彼女は笑顔で聞いてきた。
「お約束はございますか?」
マリーが首を振ると、天使は笑顔のままこう言った。
「申し訳ございません。お約束のない方は、ご案内出来ないルールとなっております」
ちっとも申し訳なさそうに見えないので、マリーは少しばかりムッとした。
「それじゃあ、どうやったら会う約束を貰えるんですか?」
「市民課の窓口で、手続きをお願い致します。市民課へは、右の廊下をお進みください」
マリーは案内された窓口へ向かい、そこにいた職員の天使に要件を告げた。
「総務課で、天使長への会見許可請求の手続きはお済みですか?」
マリーが首を振ると、職員は「総務課は三階です」と言って、それっきり口もきいてくれなくなった。仕方なく三階の総務課へ向かうと、そこの職員は申し訳なさそうにこう言った。
「それには天使長への会見にまつわる注意事項確認証明を、警備課で取っていただく必要がございまして……」
マリーはため息をついて警備課の窓口へ向かった。
「では、こちらの書類に記入をお願い致します」
女性職員はピンク色の用紙をぞんざいに置き、マリーはイライラしながら必要事項を記入した。職員は書類に目を通し、何やら色々と書き連ねたプリントをカウンターに置いた。
「こちらのプリントに全ての注意事項は記載しておりますが、ルールですので口頭での説明も行います。天使長様は、この天界においてとても重要な方です。会見許可が下りた際、保安上、会見の時間については秘密厳守としてください。また――」
長々と説明を受けた後、マリーはようやく解放され、軽い目眩を覚えながら役所の廊下を歩いていた。次は総務課だったかしらと辺りを見回していると、天使長室と書かれた室名札が目に入る。彼女は、ためらうことなくその扉をノックした。
「入れ」
声がしたので、マリーは扉を開けて中へ入った。
「今は忙しい。用件は手短に頼む」
マホガニーの机の向こうから、甲冑を身にまとった天使が書類の山と格闘しながら言った。彼は書類からふと目を上げ、マリーを見るなり目を丸くする。
「驚いたな。どうやってここへ来たのだ?」
「こんにちは、天使様」マリーはお辞儀した。「歩いてたら、たまたまお部屋を見付けたんです」
「ミカエルで結構だ。お茶はどうかね?」
ミカエルは席を立ち、身振りでソファへ座るよう勧めた。歩き通しだったマリーは遠慮なくそれを受け、柔らかなソファに身を沈めてほっとため息をついた。
「ずいぶん、くたびれているようだな」
ミカエルは戸棚の前でちょっと思案し、抽斗を開けて湯気を立てる二つのカップを取り出した。それからカップの一つをマリーの前に置き、自分もソファに腰を降ろした。マリーが、くたびれている理由をミカエルに告げると、彼は笑い出した。
「大抵の天使は、ここまで真っ直ぐに飛んでくるからな。まさか、君が歩いて向かうとは想像もしなかったのだろう。そして役人たちは、ただのミカエルではなく、天使長に会うためのルールに従って君を案内してしまったのだ。どちらも悪気があってやったことではないから、許してやってくれ」
マリーは頷いた。
「わかってくれてよかった。おっと、茶菓子を忘れていたな」
彼はいそいそと戸棚へ向かうが、抽斗を開けてため息を落とした。
「どうやら、菓子を切らしているようだ」
マリーは大丈夫ですと言って、エプロンのポケットからルクスに貰ったクッキーを取り出し、テーブルに置いた。ソファに戻ったミカエルはクッキーを一つ摘まみ上げ、問うようにマリーを見る。マリーは「召し上がれ」と言って、彼にそれを勧めた。クッキーを口に入れると、ミカエルは目を丸くした。
「これは美味い」
「ルクスさんって人にもらいました」
「ルクス・フェロか?」
「はい。知り合いですか?」
「まあ、家出した兄と言ったところかな」
ミカエルは苦笑を浮かべ、もう一つクッキーを食べた。
マリーは本題を切り出した。
「ハリーか。彼はルールを破り、その罰を待っているところだ」
「ルール?」
「天使の力は強大だから、我々はルールに従って行動しなければならないのだ。ルールを守らず好き勝手なことをすれば、そこら中に稲妻や燃える硫黄の雨が降り注ぐことにもなりかねん」
マリーはその場面を想像して、思わずぞっとした。しかし、ハリーをこのままにはしておけない。なんとか許してはくれないかとミカエルに頼み込むが、彼は難しい顔をして考え込んでしまった。しばらく経って彼は「ちょっと待ってくれ」と言うと、ソファーを立って机へ向かい、抽斗から書類を一枚取り出した。それに素早く何かを書き付けて、再びソファーへ戻ってくる。
「物であれ心遣いであれ、人間から何かを受け取った天使は、必ずお返しをしなければならないルールなのだ。美味しいクッキーのお礼に、君にはこれをあげよう」
マリーは書類を受け取るが、難しい言葉だらけで何が書いてあるのかよくわからなかった。
「地下にいるラグエルと言う天使に、それを渡すといい。ハリーに面会させてもらえるだろう」
「ありがとう、ミカエル様」
「どういたしまして。ところで、もう一つもらっても構わないか?」
もちろんマリーは「どうぞ」と言って、立派な天使に美味しいクッキーをすすめた。




