第2話 ③
前回の続きです。
北上がちょっぴりだけしょんぼりしています。
律子視点でお送りします。
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その次の活動日。
いち早く部室へ来て鍵を開け、一昨日は最悪であったと、律子は思い返した。
逃した魚は大きかった。雪奈が入部を断るようなリアクションを示して、引き返してしまった後の部員達の雰囲気はとにかく険悪だった。
まず、あからさまに怒りを滲ませていたのは珠里であった。その怒りの矛先は大方北上なのだが、それ以外の動作もいつになく荒っぽく、喋らずとも憤慨していることが分かるような、そんな振る舞いだった。
偲も、笑顔ではあったものの声が驚くくらい素っ気なく、珍しく苛立っていた。
そして、倫は何も言わずに当てつけのような溜息ばかりつき、桐矢は吐き気を訴えてトイレに逃げ込んだ。
皆に無言で責められる北上を気の毒にも思ったが、あまりにも彼の部が悪すぎて、律子も庇うに庇えなかった次第だ。
そして、当の北上は、謝るどころか不貞腐れてその場を後にする始末だった。
(今日もあんな雰囲気だったら嫌だなあ……)
前回の不穏は、その日の活動終了まで引きずり、そのまま解散したのであった。したがって、その気まずさが解消されているのか、甚だ疑問だった。
律子と桐矢は同じクラスで、その後も普段と変わらぬ様子で話したりはしたが、珠里はどこか刺々しさを残していた。倫と偲、更にいえば北上には、その後会っていない。
あの雰囲気を解消しないまま、絵など描けたものではないのである。
律子が開けた部室は、空気が籠っていた。今日は気温が高く、教室でも窓を開けなくては汗が滲むほどだ。
ついでに一昨日残った嫌な空気も逃がしたいと思い、律子は部室の窓を開け、外の空気を取り込んだ。
そうやって入り口に背を向けていたのに、油断をしていた。
誰かに強い力で肩を掴まれ、律子は飛び上がるほどに驚く。
「わっ……!」
振り返ると、北上がいた。今日は、入り口の施錠はしていないので、勝手に入ってきたのだろう。
「女子一人なのに不用心だろうが。ちゃんと鍵かけろや。安全管理どうなってんだ、この部は」
先日は施錠されて入れないことに立腹していた北上が、今度は真逆のことを言っていちゃもんをつける。そのあたりが、彼がクレーマー扱いされる所以なのである。
「北上君……今日は何? この間のこともあるし、珠里ちゃんも部長も、多分君のことは相手にしてくれないと思うよ」
押しつけがましいとは思いつつ、律子は切に忠告したかった。
はっきりいって、北上の行き過ぎた言動がこの状況の原因を引き起こしたようなものだ。そうでなくとも、日頃から部員達からの彼の評価は芳しくない。これまでと同じように通ると思って欲しくなかった。
「――――分かってるよ……分かってる」
律子の言うことに、北上は思いの外神妙に答える。
「……悪かったって」
そう言って、彼は目を伏せた。その様子はどことなく弱気で、律子もこれ以上は、彼を責めることも諭すこともできなかった。
珠里も偲もまともに取り合ってくれないとなると、本来ならば副部長の律子が部のために、北上にもっと厳しく言わなくてはならないのだろう。
部外者が許可なく部室に入らないように。
部員を大声で威嚇しないように。
物や人に暴力を振るわないように。
珠里にしつこく絡まないように。
それ以外の人にもしつこく絡まないように。
だが、それは今更自分が言うようなことか。北上だって、分かっているのではないか。分かった上で、どうにもならない何かがあったのではないか。
そう思うと、それらを口に出すのは酷というもので、律子自身も心苦しい。言いたいことは山ほどあったが、律子は全て飲み込んだ。
「もういいよ……私は珠里ちゃんと違って弱いから、厳しいこといえない」
もしも珠里だったらきっと、躊躇いもなく彼に説教でもしたのではないか。だが、律子にはそれができなかった。
「……それで北上君、この後どうするの? 帰るならそれでもいいけど、他の人達が来るの待つなら、とりあえず座りなよ」
他の部員に知られたら叱られるだろうかとも思いつつ、律子は他にかける言葉がなくて、彼に着席を促した。
北上は、きまり悪そうな顔をしつつ、入り口にいちばん近い席に腰かけた。
その隣の席に律子も座って、他の部員が来るまでの時間をやり過ごすことにする。
待っている間、どんな風の吹き回しか、北上は律子にお菓子をくれた。箱を二つ提示され、好きな方を一つ選べという。両方とも同じ製菓会社のチョコビスケットだったが、一つはきのこの形、もう一つはたけのこの形……要するに、有名なあれである。
律子は断然たけのこ派だったのでそれをもらおうとしたが、そうすると北上は、自分が選べと言ったにもかかわらず、「そっち選ぶとか」「マジ、センスねえわ」など難癖をつけて酷い圧力をかけてくる。構造はほぼパワハラと同等である。
先程までのしおらしさはどこへやら、だが、そうやってふざけてでもいないと北上自身居心地が悪いのだろう。律子も、なるべくいつもの雰囲気を取り戻したい一心で、自ずとそのノリに合わせていた。
少しの間、小さな攻防を繰り広げ、やがて律子が重圧にも負けず、無事にたけのこ側の箱を手に取った頃だった。
ノックの音とともに、
「失礼します」
と、入り口の引き戸が開かれると、そこには雪奈が立っていた。
スクールバッグを抱き締めるように抱えている雪奈は、緊張気味に、律子に向かって言った。
「先輩、この間はすみませんでした……入ってもいいですか?」
「い、いいよ! どうぞ……!」
まさか雪奈が再び漫研部にやってくるとは思いも寄らず、律子は驚き、裏返った声で答えた。
律子に入室を許可された雪奈は、机の前まで進み出て、鞄のなかから封書を取り出し、律子に手渡す。
「先日は大変失礼いたしました。もしよろしければ、今からでも雪奈を漫研部に入れてください。お願いします」
「え……本当に? 本当に、うちの部に入ってくれるの?」
しつこいと思われないか心配だったが、先日の展開から一転した雪奈の決断がにわかには信じられず、律子が確認するように尋ねた。
雪奈の振る舞いは至って明るかった。
「はい! 先日はびびって帰っちゃいましたけど、もう平気です。雪奈、漫研部の皆さんと一緒にいっぱい漫画描いたり、お話ししたいです。あ、それで、今日早速絵を持ってきたんですけど、後で見ていただけますか?」
「見る見る! 見るけど、本当に大丈夫? その……ご覧の通り今日も怖いお兄さんいるけど……嫌だったら、追い出すなり息の根を止めるなりするよ?」
「……何で息の根まで止められなきゃなんねえんだよ。そこまで嫌がられるなら、普通に出ていくわ、俺」
折角戻ってきてくれた雪奈を逃したくない一心で、できもしないことを口走る律子。テンパった時は、少々過激なことでも何でも言ってしまうものである。
それに対して、北上が冷静に突っ込む。
「問題ありません!」
雪奈はあくまで力強かった。
「むしろ、北上先輩にも見て欲しいくらいです、雪奈の絵」
「は? 俺も?」
「はい! というか、北上先輩にこそ見て欲しいですね。凄い傑作ができたんです。それを是非とも、北上先輩に見ていただきたい」
何故雪奈がそこまで北上に鑑賞を勧めるのかは定かではないが、そう言われると彼も承諾せざるを得ない。
「といっても、俺が見て分かるかどうか……部員の奴らほど、絵にも漫画にも詳しくねえからな」
「全然構いませんよ。いいか悪いか、好きか嫌いか、それだけ言っていただければ」
「それなら、まあ」
「そしたらさ、みんな揃ったら雪奈ちゃんの絵をお披露目しようよ。折角だから、みんなで一緒に見たい」
話がまとまりかけたところで、律子が提案した。
部員達が揃ったところに、入部希望の雪奈がいて、しかも絵を持参しているとなれば、皆きっと喜ぶに違いない。珠里や偲の機嫌も直ることだろう。
そう思うと、この待ち時間が急に楽しくなったのだった。