第2話 ②
前回の続きです。
この時の部員達は、3匹の子ブタのような7匹の子ヤギのような、そんな気持ちだと思います。
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今日の活動の残りは喋りに徹するつもりで机の上を片付け、お茶とお菓子を並べる。律子がアールグレイを淹れ、偲がチョコレートを二粒ずつティッシュにくるんで配った。
桐矢は、アールグレイの苦みを含んだような柑橘の香りがあまり好きではなかった。香水のような強い香りに、飲みづらさを感じるのである。ただ、アールグレイは律子のお気に入りの紅茶なので、それを言ったら彼女ががっかりするだろうなどと考えていたら、申告するタイミングをすっかり逃してしまい、今に至る。だから、時々こうやって我慢しながら紅茶を飲んでいることがある。
それはさておき、各々自己紹介を済ませた後、雪奈の話である。
「珠里先輩と雪奈は、中学の時に生徒会をやってたんです。珠里先輩は生徒会長で、頭もいいし美人だし、ホント憧れでした」
「知り合いって、そういう知り合いだったんですね」
「ていうか珠里ちゃん、生徒会長だったんだね」
倫と律子が感心したように珠里を見ている。
桐矢も、彼女の輝かしい経歴にただただ呆然とするばかりだった。小学校時代の武勇伝、中学校時代の生徒会所属経験、いずれにしても自分のこれまでの人生にはないものだ。小学校中学校共に、成績だけはよかったもののそれ以外は目立たず静かに過ごしてきた桐矢とは、何かが根本的に違う気がする。
「雪奈はその頃から漫画描いていたもんな」
「はい」
珠里がその過去に触れると、雪奈は喜々として語り始めた。
「描いてました、漫画。今も描いてます、漫画。描き手になったのは小四からですけど、オタクになったというか所謂性癖に目覚めたのは小二からですかね。何だか気がついてたら死ぬ敵ばかり好きになっていたなあって気づいたのがきっかけですかね。中盤以降の比較的強めの敵です。あ、でもそれは主人公が嫌いとかそういうことじゃなくてですね、主人公はあくまで全体の中心だからバランスが取れている分良くも悪くも雪奈にぶっ刺さるものがないことが多くて、それよりだったら敵もしくは主人公サイドだったとしてもサブキャラとかの方が個性があってそこに魅力を感じるというか。それで強く美しく死んでいく系の敵はそのなかでもやっぱりステータス高いと思うんですよ。ちなみにサイコパス系よりは執念系の方がより好きですね。そういう敵が稀に改心して味方になってくれるパターンもありますがまあそれも嫌いではないです。嫌いではないですが単なるいい人になって欲しくもない複雑な乙女心がありまして、雪奈を震えさせるほどの恐怖を感じる強さを持つ敵なのに味方になった途端以前の彼もしくは彼女なら絶対に切り抜けられていたであろう戦闘であっさりやられてしまうような事態が出来しようものならそれは興ざめですし、何かもうねお前はその後何をさぼっていたんだと問いたくなるというか――」
息継ぎもしているのかしていないのかといった勢いで話す雪奈の話に、桐矢はついていけなかった。何だか所々は頷けるような話をしている気もするが、如何せん早口で何を言っているのか分からない。
「すごくいい感じだね、雪奈ちゃん」
他の部員が圧倒されるなか、微笑ましく応じていたのは偲だった。
「それだけ語る好きなものがあるっていうのは強みだよ。さぞかし楽しく活動できるだろうね」
「…………ふあっ、すみません!」
偲は嫌みなどではなく純粋に称賛したのだろうが、雪奈の方が何かを感じたようで、それまでの語りをやめて姿勢を正した。
「雪奈、駄目なんです。好きなものの話になると、周りが見えなくなっちゃって……それで中学時代はクラスで浮いちゃったんです。でも楽しい学校生活を何とかして送りたくて、生徒会に入ったんです。珠里先輩には、その時いっぱいお世話になりました」
クラスで浮いていたにもかかわらず、そこから生徒会に入って華を取り返そうとするあたりが、雪奈の強さを感じさせるところである。
「だから高校では雪奈、あんまり漫画の話とかしないように、迂闊にそういう仲間に近づかないようにしようと思っていたんです。でも、珠里先輩が困ってるっていうのでここに馳せ参じた次第でした」
「ああ、そういうことだったんだね」
雪奈の身の上話に納得した偲は、寄り添うように頷き、言った。
「そんななか、来てくれてありがとう。そして、ここは、君が好きなものを好きなだけ語っていい場所だよ。大丈夫。みんな勢いにびっくりしたけど、そんなことで誰も君のことを拒絶したりしないからね」
「本当ですか? 雪奈、これからもこんな感じでうるさくしちゃいますよ?」
「どんと来い。みんなでうるさくしようじゃないか。俺だって、語りたい話や萌えや性癖はいっぱいあるんだ」
偲が力強く言い、雪奈の肩を叩いた。
桐矢としては、雪奈のやや苛烈なテンポについていくのはきついものがあるが、彼女自身に嫌悪感はなかったし、是非とも部員として歓迎したい気持ちは偲と一緒だった。
そうすれば、今度こそ晴れて廃部危機を免れるのである。
その事実に安堵しかけたその時だった。
入り口の扉がノックされ、その方向を見やると、桐矢は震え上がった。
北上だった。施錠によって扉が開かないことに苛立っているのであろう。こちらを睨んでいる。
「うわ……もっとうるさい人来ちゃったよ」
暴力的な執念を伴う北上のうるささに比べたら、好きなものについて楽しく語る雪奈のうるささなど可愛らしいものである。
北上の扉を叩く音が、徐々に大きくなっていく。こんこん、というような音が、どんどん、に代わり、やがては拳全体で殴りつけるような叩き方をしている。
「やばいやばい! めっちゃ怒ってる!」
「叩き方がもうこれノックじゃない!」
これはもはやお茶など飲んでいる場合ではなく、桐矢と律子は立ち上がって身構えた。
「みんな、一端奥に」
偲の指示で、全員が部屋の奥、つまり窓際へ寄って、入り口に控える危険から退避する。
北上は一度扉を叩く手を止めた。しかし、それで諦める彼ではない。何を思ったのか彼は、扉へ向かって体当たりを始めたのであった。
どん! どん! という、重く響く音は、聞く者の恐怖を煽る。
「やばい、あいつ頭おかしい!」
「怖い! ただただ怖い!」
桐矢と律子は、頭を抱えて悲鳴を上げた。
「部長、きっと彼は、こっちが開けるまであの悪質な体当たりをやめるつもりはないと思います。このままだと、扉が破られます。あの人は、木の家程度なら確実に破壊してくるタイプです」
扉へ全身をぶつける未だに鳴りやまない音に耳を塞ぎながら、倫が切迫した表情で訴える。
「えー!? でも、今更鍵を開けるっていうのもどうなの」
倫の言うことも尤もだとは思っているのだろうが、偲は難色を示している。
「扉壊されたら元も子もないですって。そうなったら、俺ら活動停止になりますよ」
脅威に屈するのは甚だ不本意であるが、背に腹は代えられない。桐矢も倫を援護した。
北上をなかへ入れるのは危険を伴うが、このまま物理的に部室を破壊されるよりは余程ましというものである。
「分かったよ。仕方がないから、一度扉を開けてあの体当たりをやめていただこう」
苦渋の決断、とばかりの辛さを滲ませた表情で、偲が言う。
「でも……あんな、人間だかゴリラだか分かんないような奴の近くには寄りたくない。ここは、じゃんけんで負けた人が鍵を開けることにしようじゃないか」
握った拳を差し出して示された、情けない提案である。
鍵を開けるためには、扉へ近づかなくてはならない。
だが、今この場にその役割を進んで買って出るような人間もおらず、全員がその提案に乗り、拳を一つずつ出す。何故か雪奈も律儀に参加していた。
「じゃん・けん・ぽん」という掛け声を全員で発し、たった一ターンの戦いが繰り広げられた。
「い、嫌だあぁああぁあっ!」
その結末に泣いたのは。
律子だった。一人だけチョキを出して、一発で負けたのだった。
「無理! 私、無理!」
「律子ちゃん、頑張って!」
じゃんけんを制した心の余裕が偲の声には表れているが、律子からしたらそれが腹立たしいことこの上ないだろう。
「私、何を頑張ったらいいんですか! 扉開けて北上君が入って来たら、私から殺られますよね! 近い位置だしいちばん弱いと思われてるし! そしたら私死にますよね!」
「り、律子、何かごめん……私、代わろうか?」
ここで交代を申し出る珠里の勇敢さは、漫研部一である。
しかし、律子も律子で、口で騒ぐ割には妙な使命感を持つ面があって、助け船に簡単に甘えることはしない、何だか生きづらい人間なのである。
「珠里ちゃんに代わってもらうのは流石に申し訳ない……いいよ。私も覚悟を決めるから」
そこで全く手も足も口も出せないのが桐矢で、この状況では己の逃げ腰な弱さをただただ恥じるばかりだったが、如何ともしようがなく、固唾を飲んで展開を見守るしかなかった。
律子は、震える足で入り口まで近づき、深く呼吸をした後、すぐにつまみを押し上げてその施錠を解除する。
鍵の開く音に気がついたのだろう。北上は引き戸を勢いよく開け、あからさまに苛立っている足取りで入室を決め込んだ。
そして、すかさず逃げる律子の首根っこを捕まえて、強引にその身体を引き寄せる。
「ちょっと待てや、律子よぉ。お前が早く鍵を開けてくれねえから、手がこんなに赤くなっちまっただろうが。どうしてくれんだ、これ」
「因縁の付け方が、完全にやばめのクレーマーなんだけど。何なのこの人」
宛ら当て擦りのように、自分の手の腫れ(扉を強く叩いた時のものだろう)を見せつける北上に絡まれ、律子が涙目で周囲に窮状を訴えた。
「律子を放せ、北上」
珠里が席を立って、律子を助けに駆け付けた。その手にはいつの間にか自在ぼうきが握られており、柄の方を向けて北上を威嚇している。
ちなみに、この自在ぼうきは珠里が持ち込んだ私物で、部室の隅に置いてあるものだ。何でも彼女によると、かつて小学校時代に男子グループを制圧した際は、多くの人数を相手にしつつリーチが届くよう、教室にある自在ぼうきを武器に無双したのだとか。だから、今でも自衛の際にはなるべく長い棒状のものを使いたいのだという。
「やっと本気になってくれたかよ、珠里。俺と勝負だ」
「勝負じゃない。律子を放せって言ってんの」
律子を肩ごと締めつけるように抱えている北上に、珠里が繰り返し警告した。
この北上、珠里との小学校時代の因縁をいつまでも引きずっていて、漫研部に訪れる度に、勝負しろ、決着をつけろと騒ぎ立てる。それだけならいざ知らず、その時に彼は、何故か律子を人質のように巻き込む。恐らく、それは律子が騒動の初回で、迂闊にそのポジションを許したのも原因であろう。初期対応を間違えたといえばそれまでだが、堪ったものではない。
「北上君、困るよ。今、新入生の見学対応をしてるから、君には来て欲しくなかったのに」
珠里の後ろに立って、偲も苦言を呈した。
すると、北上は律子をさりげなく解放して、心外な顔をしながら偲と向き合う。
「偲先輩、何でそういうこと言うんですか。俺だって、入部届を出しにきたんですよ」
「そんな力強い体当たりで入部届出しにくる人は初めてだよ」
北上から差し出された入部届 (くしゃくしゃ) を、そっと差し戻す偲。
まともに応じるのもエネルギーを使うので、偲、珠里、そして律子はそそくさと席へと帰ってきた。
誰にも椅子を用意してもらえない北上は、仕方がなく近くの壁に凭れて佇んでいる。しかし、腕を組んでこちらを見据えるその立ち姿は、桐矢にまた見えない重圧を与え、席を譲った方がいいだろうかとか、でも今更声をかけるのは怖いとか、要らぬ神経を使わせた。結果、黙っているしかなかったが。
「ごめんね、雪奈ちゃん。彼は、うちの部室付近によく出るクレーマーでストーカーの北上君だよ」
呆気に取られて目を見開いている雪奈に、偲が事情を説明する。
それについて、北上は不服そうな顔で言った。
「紹介に悪意を感じる。俺が気に入らねえからって、クレーマー扱いしないでください」
「ほら。ストーカーの方は否定しないあたりが、嫌な気合が入っていて怖いでしょ」
雪奈は気遣うように笑っていたが、その頬が痙攣するように吊り上がっているのを桐矢は見逃さなかった。
まずい。これ、引いている人間の顔だ。
「……漫研部には、こういう先輩が毎日出入りしてるんですか?」
「そ……そんなことない。今日は偶々だから……っ!」
桐矢の口から咄嗟に嘘が出たが、嘘なだけに動揺が声に表れてしまう。
そんな当座凌ぎの嘘を、北上は平気で台無しにする。
「俺はいずれ部員になるんだ。毎日通うに決まってるだろうが」
「……ちょっと、トシ君、空気読んでくださいよ」
雪奈の雰囲気が逃げ腰になりつつあるのを察して、倫が北上のもとへ寄って懇願する。
「雪奈さんは貴重な新入部員なんです。君のせいで、入部をやめてしまったらどうしてくれるんですか。怖がらせないでください」
「はあ?」
倫の切実な訴えが却って癪に障ったようで、北上が不機嫌になった。
「貴重な新入部員って、俺はこいつよりも前からこれだけ熱心に漫研部に来て、入れてくれって頼み込んでるじゃねえか。それなのにお前らは、俺よりも、この一年の方がいいって言うのかよ。信じられねえ!」
「こっちも本当に信じられないですよ、君の執着が」
カリカリしている北上に、疲れている倫。
だが、北上は構わず騒ぎ、雪奈の座っている席まで歩み寄って凄む。
「おいコラお前、俺が先にこの部に目ぇつけたんだぞ。横取りすんじゃねえ」
「べ、別に入部は先着順とかじゃないから……」
桐矢も慌てて近寄ってフォローするが、北上にその言葉が届いているかどうかは不明である。
「雪奈を苛めないで、北上!」
珠里が叱りつけるような声を上げた。
「彼女に何の非があるの! 北上の入部が認められないのは、自分のせいだろ!」
珠里の言い分は尤もで、正しかった。雪奈がいようといまいと、入部が締め切られるようなことはないし、北上が入部を断られるのは全てその素行のせいなのである。
北上自身も、それが分からないはずもない。
だからなのか、彼は、珠里に正論で咎められた後の反応に窮していた。
そんななか、立ち上がったのは雪奈だった。
「珠里先輩、すみません――」
雪奈はそういうと、珠里へ向かって深々と頭を下げた。
「――――雪奈、珠里先輩の力になりたい気持ちは本当にあるんです。でも……今回のお話は、ちょっと考えさせてください。本当にすみません」
珠里も、他の部員も何か言おうとはした。
しかし、そうする隙も与えないうちに、雪奈は下を向いたまま、逃げるように退室したのだった。
思いも寄らぬ出来事に、それまでの騒ぎが嘘のように静まり返る室内。
雪奈は何があっても絶対に入部してくれるものだと、全員が漠然と信じていたのだろう。その彼女の決断が、こんなことで覆るとは誰も思わなかったのである。
だが、それは部員達の勝手な決めつけだったのかもしれない。何しろ、雪奈ははっきりと入部の意思を示したわけではない。ただ部員達と楽しそうに話していた、入りたそうにしていた、それだけを理由にした都合のよいな推測だったのかもしれない。
そうだとしても、彼女が入部を保留して部室を後にしたことには、落胆せずにはいられなかった。
その後の長い間、誰も言葉を発することが出来ずにいたのはいうまでもない。
当然活動もままならなかった。