第1話 ④
前回の続きです。
珠里と北上の諸事情について。
第1話はこれでおしまいです。
※当初は一話丸ごと投稿していましたが、2020年8月31日にパートを分割して投稿し直しています。内容は変更ありません。
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今日はもう原稿どころではないと皆が判断したから、彼らは画材を一度片付け、その代わりお菓子とお茶を広げて机を囲んだ。
漫研部のキャビネットの下段の一角には、律子が個人的に持ち込んだ電気ケトルとお茶のティーバッグ、そして紙コップをこっそり隠してある。それで、今はピーチフレーバーの紅茶を淹れた次第だった。
お菓子は、偲が持っていたバタークッキーを部員達に振る舞ったもの。一口サイズのものを一人三~四枚程度、各々ティッシュペーパーの上に乗せて皿代わりにしている。
それで何となく談笑する雰囲気になったところで、珠里が話を切り出した。
「北上と私は、小学校の頃の同級生だったんです」
珠里の目線が特に偲に向きがちなのは、やはり全面的に庇ってもらったという負い目があるからなのだろう。口調も彼に合わせるように敬語である。
「恥ずかしいんですけど私、当時は女子のリーダーみたいな立ち位置で、クラスを仕切ったりしていたんです」
「えー、何か意外だねえ」
律子が向かいの席から興味深そうに身を乗り出した。
「それでそれで?」
「で、その時にクラスの女子の一人が、男子のグループに苛められたっていうことがあって。結構悪質な嫌がらせとかもあったから、その……」
珠里は言いづらそうに言葉を濁した後、覚悟を決めたように続ける。
「私が制圧したというか……」
「わー……」
「すごいパワーワードだね……」
律子が呆気にとられた声を上げ、その隣の偲も顔を引きつらせている。
倫と桐矢も、珠里を挟んでそれぞれ下を向いてリアクションに迷っていた。
「何かごめんなさい……引きますよね」
その場の空気を感じ取った珠里が恐縮しているが、部員達は別に珠里個人に引いているわけではなく、話の規模に面食らっているのだ。
桐矢にしても、他の者にしても、自分の小学校時代を振り返ってもそんな武勇伝のような話は持ち合わせていない。桐矢、律子、倫は大人しく、下手をするとむしろ苛められ兼ねないタイプだったし、偲はマイペースで学級の力関係に関与することはなかった。だから、珠里のクラスを仕切っていたというカミングアウトに、自分達にない世界を見た気がしたのである。
「てことは、北上はその男子グループにいて、宮古のことを逆恨みでもしてるのか?」
話の流れから予測できるのはこんなものだろう。桐矢が尋ねた。
「逆恨みは逆恨みなんだけど、事情がちょっとややこしくて」
珠里は困ったように首を振っていた。
「当時の北上は身体も小さくて気も弱くて、男子のなかでも強い奴に従うしかないような、そんな奴だったの。クラスの女子を苛めていたその場にもいたけど、嫌々仕方なくいるような感じだった。それが分かってたから私、加害者の男子達を締め上げた時、北上のことは敢えて見逃したんだ。そしたら……」
一呼吸置き、珠里は顔を覆いながら言う。
「私に気を遣われたのが彼のプライドに障ったらしく、その後延々と責められる羽目になっちゃって」
「…………なるほど。気持ち悪い話だ」
「部長!」
偲のあまりにも率直な反応を桐矢は窘めたが、本音では同意したいところだった。北上の他人を恨むポイントは、どうも一般的ではない。
「それじゃあ珠里ちゃん、小学校の頃からずっと北上君に追いかけ回されてるってこと?」
「ずっとではない。私、附属中に行ってたから、中学は北上と別だったの。でもこの高校に上がって再会したら、向こうがまだその時のことを覚えていて、決着をつけろとか何とか責められて」
「中学で三年間離れてのそれって、逆に執念を感じるんだけど」
珠里に合わせるように、律子の表情も曇っていった。
「小学校の頃の北上って本当にぱっとしない奴だったんだけど、再会した時の本人曰く、私に見下されたのが悔しくて、その後体力をつけ、腕力をつけ、成績を上げ、県第一の進学校であるこの高校に入ったんだとか。おまけに背は伸びてるし、成長に伴って顔面偏差値は上がってるしで、何かもう」
「そ、そんな素敵になって再会したらときめいちゃうね……なんちゃって」
「そこに執念が伴ったら、それはもはや暴力」
「だ、だよねー……」
心の底から湧き上がる不快感に耐え切れないあまり、冗談めかすしかない律子だったが、珠里が乗らないのでやむなく取り下げた。
「ちょっと……その話聞いて、僕、明日からどういう顔で彼と接したらいいんですか。クラスメイトなんですよ」
「でも、辿っていけば倫君が彼に声をかけたことが原因だったと思うの」
「まさかの僕のせいですか? 事情を知らなかったんだから、僕だって被害者みたいなもんです」
「倫のせいじゃないよ」
責任の所在で今にも揉め出しそうな律子と倫の間に割って入るように、珠里が言う。
「倫が声をかけなくても、あいつのことだからいずれここには来たと思う。そのくらい、執着する奴なんだ。そもそも私が、小学校の時に情けなんかかけたから……やっぱり潰しておくべきだった」
「いやいやいや……」
一族を滅ぼし損ねた悪役じゃないのだから、という突っ込みが思い浮かんだが、辛うじて飲み込む桐矢だった。
それはさておき、気がかりなことがあった。
「北上、去り際に言っていたけど、また来るのかな」
正直にいって、北上と向き合うのは桐矢にとってかなりのストレスだった。いちばん辛い思いをしているのは珠里であるとは百も承知だが、桐矢としても、北上のようにしつこい上になまじ力があるタイプは本当に苦手なのだ。
「来るだろうね」
偲が投げやりに言った。
「来ると思います」
珠里も頷く。
それを踏まえ、彼女は苦しそうに一つの選択を表明する。
「私がここにいると北上は何度でもここに来るだろうし、迷惑をかけてしまう。だからその……みんなの活動に差し障らないように、私が部を離れた方がいいのかなって思ってます」
「それはやだよ、珠里ちゃん!」
「そうですよ。何もそこまで思い詰めることないじゃないですか」
要するに珠里は、自分経由でこれ以上部に悪影響を及ぼしたくないために、退部を視野に入れているということなのだが、律子と倫は即座に反対した。
「確かに北上に来られちゃ困るんだけど、そこは宮古が引くところじゃないと思う。宮古が好きで入った部活なのに」
桐矢も同意見だった。
「本当は入りたかったけどずっと遠慮してて、漸く踏み出した一歩だったんだろ。こんなことでといったら悪いけど、手放すのはちょっと違うだろ」
「でも――」
それでもなお、依然として引っかかるものがあるようで、珠里は言葉を詰まらせていた。
そこへ、偲が悠然とした口調で部員達の思いをまとめ、告げる。
「珠里ちゃん。みんなも俺も、珠里ちゃんに迷惑をかけられているとは思ってないよ。そりゃ間接的な原因ではあるかもしれないけど、北上君が来るのを阻止したいからって、そのために君ごと追い出したいなんて思っていない」
部員達も首を縦に振っている。
「君がここにいたいというなら、俺達はそれを拒否したりはしない。君が部のことを大事に思ってくれているのは、分かっているからね」
珠里が部のために自分の身を引こうとしたことが、その証拠だろう。
そんな彼女だからこそ、退いては欲しくなかった。たとえそれで災難を呼び込むことになろうとも。
「自分の居場所は自分で守ろう、宮古」
「――――うん」
駄目を押すようにかけた桐矢の言葉から暫し間を置いた後、珠里は力強く頷いたのだった。