1話 落月の夜に
1話〜落月の夜に〜
ずっとずっと広い空の向こうは、ずっとずっと深い海の底に繋がっていると言う。
俺は小さい頃からその深海へと繋がる"深空"に行く事が夢だった。
俺の名前は八星 賢、ただの狼獣人の一般人。
神無山県の縦浜市立、獣坂高校に通う何ら変わりのない高校2年生である。
今日は午前中に中間テストの最終日を終えて家に帰り、悠々自適な時間を送っている。
まぁ悠々自適とは言っても、ただ自室の窓から空を眺めるといういつもと変わらない時間の潰し方をしている訳だが。
日が暮れると空は深海の様に暗くなる、人はそれを"深空"と言う。
その暗い夜空のずっと先は深海へと繋がっているらしいが、普通にロケットに乗ったとしても深海へは繋がらずに宇宙へと行くらしい。
ならどうして深空は深海に繋がっているのか、どうやれば深海へ行けるのかは判ってはいない。
ただ、ずっと昔からそう言われている事だけは確かである。
だんだんと季節が移ろい、まだ6時も回っていないのに暗んで来た空を今日もただぼーっと眺めていた。
その空の、一際目立つポカンと浮かぶ黄色いような白いような丸が目に入る。
「そうか、今日は満月か…」
俺は思わずそう零していた。
自分が狼だからと言って満月を見たところで特別何かあるわけでもない、そんな事があるのはおとぎ話か何かの中だけだろう。
そんな事を考えたりしながら空を見ていた時だった。
ふと、その月の辺りで一瞬何かの光が閃いた。かと思えばその光は、そこから空を左右二つに切り裂くように下がっていった。
その下がっていく先を目で追うと…
「落ちて来てる…?」
そのまま光は消える事が無く地上へと来ている…が、それが途中で突然失速して、最後はゆっくりと地上に到達した。
それが落下した場所、それは目視する限り俺がよく知っている場所の辺りのようだった。
「近所の公園だ…!」
俺はそのまま上着を一枚羽織り、その公園に向けて一目散に家を飛び出した。
きっと宇宙じゃなく深空から落ちてきた物に違いない、俺はその時からそう確信していた。
ワクワクしながら、全速力で走る。
公園に着いた、さっき光が落ちた場所を探す。
と、公園の端の方へ視線を投げると…
「…ん? 誰かいる…?」
目を懲らすと、暗い公園で少し目立つ白い毛並みの誰かが地面に横たわっている。
少し警戒しながらも、俺はその人物に寄っていった。
近寄って見てみると遠くから見た通り毛並みは白く、その人物の耳は長かった。
恐らく兎の獣人であるが、一点気になる部分を挙げるとすると兎にしては尻尾が俺に似て長くふさふさだという点だ。
着ていた服は、毛色に近い白っぽい普通のパーカーに普通の長ズボンだった。
「だ、大丈夫ですか…!」
その人の側へと駆け寄って、声を掛けてみる。だが返事はない。
「あのー、もしもし…?」
ゆっくりと、兎獣人と思われるその人物を揺すってみる。
揺すった拍子に顔が左へ向き、右側の首筋が俺の目に入る。
そこには他の部分と違う、黄色っぽい毛色で三日月のような模様があった。
「まさか、さっき空から落ちてきたのってこの人か…?」
そんな独り言を零した時。
「う、う〜ん…」
その兎獣人が少し唸る。
「っ…! あの、起きてください、大丈夫ですか?」
このまま起こそうと、再び軽く揺すりながら声を掛ける。
「ん〜、どうしたの…ステラ…」
ゆっくりと目を開けて、少し焦点の合わない目で俺を見る。
「ほら、しっかりしてください…どこか痛んだりしますか…?」
慎重に起こそうとする。
「僕は大丈夫だよ…ところで見慣れない場所だけど、ここはどこ…?」
ゆっくりと起き上がった彼は軽く頭を振ってから周りを少し見回し、今度は焦点の合った目で俺を捉えて言う。
「それにステラ、いつもの服じゃないんだね?」
「えっと…その、人違いだと思いますけど…」
勿論、俺はこの人物に似た者を見た事はおろか聞いた事もなかった。
兎の耳に狼のような尻尾なんて、それこそおとぎ話の世界だ。
「え、でもどう見てもステラでしょ? 僕の事も解らない…? ルナだよ、ルナ。 聞き覚えは…?」
「いや…普通に知らないですけど…」
ルナ、この人物はどうやらルナという名前のようだった。
「本当に…? そうだ、ちょっと右向いてみてよ!」
「こ、こうですか…?」
俺はその意味を解らないながらも、とりあえず言われた通りに右を向く。
「…本当だ、ステラじゃないや…」
その彼、ルナは俺の首筋を見ると何故かそう呟き、少ししょんぼりとした表情を浮かべて肩を落とした。
「えっと…ルナさん?は、どこから来たんですか…?」
俺はさっきから気になっていた事を尋ねた。
「僕はアエクアの街に住んでるよ」
“アエクアの街”、全く聞いた事が無かった。
そもそもこの国なのかも怪しい名前の街だ。
「それでステラ…じゃなかった、えっと…」
「あ、賢です…八星 賢」
「ケン…ここって、どこですか?」
仮にこの人が外国人だったとしても、有名な都市を挙げれば解るだろう。
「タテハマです、ニッポンの」
「タテハマ…ニッポン…?」
全く聞き覚えが無いような反応だった。
「もしかして…月から来たんですか?」
俺は気になっていた事を聞いてみる。
「月…って、谷底に沈んでるあの月?」
「谷底…? 月って、ほら、アレだよ?」
俺は空に浮かぶその丸い形を指差す。すると…
「えっ…月だ…」
ルナは目を丸くし、何度も瞬きをしながらその月を見ていた…
ここまで会話を交わして、ほぼ確信に変わった。
ルナは、多分深空──正確には深海かも?──に住んでいたのだろう。
「ルナさん…今行く宛とかって、あるんですか?」
「あの月よりも上、だからその向こう…多分そこに家があるけど…」
「手段が無い、って事ですか…」
「はい、多分…」
「それなら、暫くの間俺の家に来ますか…?」
「えっ、でも良いんですか…?」
「多分大丈夫です、でも…」
「でも…?」
俺はそこで少し考えた後に言った。
「俺の友達のフリをするんだ」
「友達のフリを…?」
「うん、そうすれば俺の母さんの事だから大丈夫」
「だとしても、今会ったばかりの見ず知らずの人を家に上げるのは…」
「ゔっ…」
ぐうの音も出ない程の正論、というか招かれる側がそれを言うか。
「まぁ…俺ちょっとルナさんの元居たところについての話が色々聞きたいからさ、その代わりにって事で?」
「うん…それなら良いかな…」
「あと、敬語も禁止でお互いの呼び方も決めとこうぜ?」
「それだったら、僕の事はルナって呼び捨てで良いよ」
「じゃあ俺の事はケンか…あるいはさっき言ってた、えっと…」
「ステラ?」
「そうそう、その呼び方でも良いしさ…あだ名っぽいじゃん?」
「それなら、そうしようかな…?」
「おう、よろしくな、ルナ!」
俺はそう言ってニッと笑いながら片手を差し出す。
「うん、よろしくステラ!」
少し躊躇いながらも、握り返すルナ。
こうして俺は、深空から来たであろう少し不思議なルナと出会った。
さてと、とりあえず家に帰って母さんの説得をしなきゃな。