8頁 放射冷却
しまった、
あの一件...いやまだ48時間も経っていないのだけれど僕の記憶は半分くらい蘇ってきていた。アナスタシア・キルヒホッフそれが彼女の名だった。最後は高熱と血痰に襲われながらゆっくりと眼を閉じた。後悔は...まあないわけじゃない。舟の上で虚ろな目をしてぼんやりと湖を眺めていた。水の黒さは光が届かないことによるものなようだから、ここにはコロイドは無いらしい。そんなつまらん考察が浮かぶほど脱力していた。しかしそんな時間も長くはなくまた例によって弥生さんからのお達しで仕事に赴くことになったのだが、いつもと表情が違っていた。
「あのー、どうしたんです?天国行きでも決まったような顔ですけど」
「え?ああ、うん。君にはまた頼みたいことがあってね。いやなんだ、立ち話もなんだし...」
なんて柄にもなく話し出すもんだから、完全に面食らってしまった。
「へえ、こここんな場所があったんですね」
切り立った崖に、平行脈の葉が露に濡れて横たわっている。対岸まではおおよそ100フィートってとこだろう。谷底は深く、かろうじて川が通っているのを確認できる程度だった。
「ああ、ええここは私のお気に入りの場所なんだ」
「あの、それで話って」
「うん...君は死神を続ける気はあるか?」
「え?」
脈絡のない質問だな。
「率直に言おう。今回の件で君の仕事は終わる可能性が高いんだ」
「はあ、そうすると退職手当でもいただけるんですか」
「ふふっ、そうだな人間に戻ることもできるよ」
「ああー、そうでしたね。ということは」
「けれど、私は君にいてほしい」
思わぬ反応だった。てっきり彼女は人間に戻ることを勧めてくれると思っていたものだから。
「君が必要なんだ。この世界において、死神という仕事をこれほど完遂できた者はいない。能力を抜きにしたって、ここをもう一つの居場所にしてほしい」
その言葉に後ろ髪を引かれたが、僕の中ではおおよそ結論は固まっていた。
「すみません、多分人間に戻ると思います。このまま悠久の時を過ごしていても心苦しさは募るばかりですから」
「そう...か。ここではだめなのか」
「ご期待に沿えず申し訳ございません」
「ううん、いいんだ。君は十分やってくれた、こちらこそだよ。それはそうとして今度の相手は相当に強い。恐らく最強だ。プレッシャーをかけるわけじゃないが、君の双肩には世界の命運が担われている」
「え?そんなに重大なことなんで...」
「君にしか出来ない仕事だからだ」
谷底へと背中から踏み切る
「その相手って」
弥生さんが重い口を開き告げられた名は、谷底に伝って僕の決心を共有結合にした。
サンクトペテルブルクの外れ、うっすらと霏がかかった町はまだ15時だというのに薄暗かった。それに誰に言われたのか、どの家の戸も締められ、侵入を拒絶していた。住宅の立ち並ぶ通りの先には噴水のある広場が設けられていた。とは言っても、水は時期も時期なせいで出てはいなかった。そこを抜けていくと戦争史博物館がある。警備員には視認されないまま悠々と中へ入る。
エントランスから見えるのは銅像だった。十代半ばと言った感じの少年5人組が待ち伏せた様に立ち並んでいる。説明書きを読めば、この国を救った英雄的小部隊はナチス軍に多大な打撃を与え、勝利をもたらした。中央の少年が持つ錆びついた軍刀は実際の物である、とのことだ。僕も伝説の剣か何か欲しいくらいだよ。そう嘆きかけた時、博物館の明かりは消え霧が中にまで差し込んできた。大理石の床は冷たくツンドラの様だ。警備も受付からも人が消えている。時間だ。
広場の真ん中で待つそいつは漆黒のアフターダークを着て、ブロンドのロングヘア―をたなびかせていた。
「悪いけど、あんたには死んでもらう。多分何の恨みもないけれど」
彼女は口元をひしゃげて、踏み込んだ。
「く...あっ」
一瞬にして放たれた拳は互いの距離を縮め、両手で止めることすらままならない程の威力を持って飛んでくる。お互い力比べの様な姿勢になるが、空いている左手のアッパーで弾き飛ばされる。おかしい、死神になっているというのにこんなにまで痛めつけられるものなのか?宙を舞いながら思考する。流石は伝説の吸血鬼、最後の仕事にふさわしい。空中でくるりと姿勢を戻し、遅いかかる肘打ちが届く前に、顔面を裏拳で払いのける。奴は広場の端へ何とか着地し、僕も民家の石屋根の上に立つ。
「まあだ思い出せないのか、デニス」
ん?何故コイツ僕の名を知っている。面識があったのか、いやそうなんだろう。錯乱したすきを突かれ、瞬きする間に距離を詰められ顔面に殴打を受ける。一撃一撃は重く、口から霏の様なプラズマの様な死神組織があふれ出ていることからかなりのダメージを負っていくのがわかる。
「お前何でっ」
殴り飛ばしてやろうと放った右ストレートはあえなく宙をきる。
「エリザベータ」
短く言い放った固有名詞とセットでくらった回し蹴りの衝撃で、記憶が再燃する。広場を横切りタイガに突っ込み、なおも威力を保って木をへし折りながら飛ばされる。思い出した、僕は彼女も待たせていた。
「エリザベータ...エリザベータ ベクマン=シチェルビナ?」
ようやく幹に背中を打ち付け止まったところで、苦し紛れに呟く。
「そう、その通り。ようやく思い出した?」
髪を掴まれ、首を持ち上げられる。
「ぁ、ぁ、つまり」
僕は彼女を待たせていた。アナスタシアが亡くなった日、学校の帰りエリザベータとそりをすると。けれど朝アナスタシアの容態を知った僕は結局広場へ行かずに彼女の方へ行ってしまった。
「お前のせいで、あのあと私は連れていかれた。キリルもディミトリ―もロジオンも!でもあんたは助けに来てくれなかった。あの女にご執心だったからだよなあ!」
「僕はっ...」
有無を言わせず、幹に頭を打ち付けられる。その威力でヒノキが折れる。
「でもよかったあ、あんたにあの戦争でたたっ斬られてから再生しきるのにずいぶん時間がかかっちゃって。どれだけ探しても見つからなかったから、もう死んだんじゃないかと。ああでも、その姿はもう生きているとも言えないのか」
「エリザ...」
片手だけだというのに有り得ない力で首を締めあげてくる。
「私は日々強くなる。生きることもままならないあんたと違って。わかる?この力の差。この70年間身体は常に更新されていく」
手を振りほどこうと細い光の線で出来たあの鎌を作り出そうとするも、すぐにもう片方の手で爪を立てられ手首に深い傷をつけられてしまう。
「じゃあこれで、ようやく約束はお終い。もう待ってあげない」
頼む、お願いだから待ってくれ。この期に及んでばかな命乞いが浮かぶ。いやもう命すらないのか。
“明日の放課後広場に来てね!絶対だよ、約束だから”
僕はもう、ただエリザベータに謝りたかった。
いよいよ首に歯を立てられ、鋭い犬歯で僕の血ではないなにかのエネルギーを吸われ始めた時、光の扉が開いた。正確には後ろ側からで見ていないから憶測だけれど、でもきっとそうだったと思う。エリザベータの驚いた表情を後に、その中へ吸い込まれていく。なんだか馴染みのある感触を覚えながら、心の底から安堵する声で“大丈夫”と言われたのを最後に意識は途絶えた。
とうとう6月中に更新できなかった...