アメノハラ(上)
雲一つない晴天の下、二つの影が荒野を横切っていた。
先を行くのは銀の髪に白い着物、白い肌をした小柄な少年だ。
二歩ほど遅れて、黒い毛皮に炎の模様の着物をまとった狼の妖が続く。
「──雨が来るな」
その狼が、不意に空を見上げて呟いた。短い髭をそよがせ、大きな耳を後ろに向けて聞き耳を立てている。
少し先を歩いていた少年も、言葉につられたように顔を上げた。
さらりと銀色の髪が流れ、陽の光を反射してきらりと光る。焦点の合わない鳶色の目玉は雲一つない空を映す。
足を止めぬまま風の流れを読み、地図を思い出して次の町までの距離を計算する。
「あと二十里くらいで町じゃない。半日かからないんだから、雨宿りするなんて言わないでよ」
心底迷惑そうな口振りの少年に、狼は首を横に振った。
「いや、案外足が速い。しかも土砂降りだぞ」
「本当? これで小雨だったら承知しないからね」
「聞こえるんだから間違いない。それこそぐうの音も出ないほどの大雨だから安心してくれ」
「安心のしようがないじゃないか……」
意味もなく尻尾を振り回す狼に、少年は肩を竦めながらも追従の意を示した。
* * *
追い立てるような雨の境界線の手から逃れて、ようやく見つけた大木の根本に避難する。
旅人を濡らし損ねた雨が猛然と飛沫を上げ始めるのと、狼の長い尻尾が木陰に滑り込んだのはほとんど同時だった。
「ふう、助かった」
たちまちのうちに色を変えていく地面を眺めながら、木の根元に座り込んだ狼が息を吐く。
「そんなに急がなくたっていいのに」
心底助かったという顔をしている狼とは対照的に、少年はどこか不満げだった。
狼のおかげで自分も濡れずに済んだというのに、あまりありがたいとは思っていない顔をしている。
そのくせ風のこない場所にちゃっかりと陣取っている少年を眺めて、狼は不満げに尻尾を振り回した。
「あのな、怜乱。お前さんは濡れても大した被害はないかも知れんが、俺は結構大変なんだぞ。毛皮の根本まで濡れちまったら、乾かすのは骨なんだぜ」
「そうなんだ。でも、毛皮って奥まで雨がしみこまないようになってるんじゃないの」
怜乱と呼ばれた少年は、膝を抱えて座り込んだ姿勢のまま、ちらりと狼の黒い被毛に目をやった。陽が当たっていれば内側から光を放つような黒銀の毛皮も、この湿度の中では少しばかりしんなりしている。
少年の気のない返事に、狼の琥珀色の目が細くなった。
「違う違う。例えばだな、箸を二本揃えて汁の中に突っ込むと、漬かってないところまで汁が上がってくるだろ? あれと同じ要領でじわっとだな」
尻尾を樹の根に叩きつけながら身振り手振りで力説する狼に、少年はゆっくりと首を振った。
「そんなの、転変さえすれば全部吹っ飛ぶ程度のものでしょ。大袈裟に言うことなんてないよ」
「だから、それまでの間が厭なんだ」
「でも、お風呂は嫌いじゃないんだよね。わりと温泉にはつかってるじゃない」
「風呂と雨は天と地ほどの差があるぞ。大体、お前だって雨が降ってきたらあまりいい顔はせんじゃないか」
狼に抗議されて、少年は難しい顔で視線を巡らせた。
何か思案しているように黙り込み、徐に座り直して辺りを見回す。そして狼に手招きをした。
「老狼には言っとかなきゃいけないと思いながらも言いそびれてたんだけどさ」
ひどく深刻ぶった少年のようすに、狼は少しばかり緊張して身を乗り出した。
そんな狼の耳に口を寄せて、少年は囁く。
「僕の原形が紙なのは知ってるでしょ? だけど実は、あんまり長いこと水に濡れるていると、墨が溶けてきて死んじゃうんだ」
聞こえるか聞こえないか程度の声で告げられた内容に、狼の琥珀色の瞳がまん丸に見開かれる。
「……嘘だろ?」
怜乱の顔をまじまじと見つめて、狼は困惑したように尻尾を振り回した。
振り回された尻尾が木の根にぶつかって、かつんと痛そうな音を立てる。
「だってお前、雨の中だって平気で歩いてるじゃないか。それに、風呂だって」
「起きてる時は結界を張ればいいだけだから、問題ないんだ。けど、僕が完全に意識を失ったり、正気を保つのがやっとなくらい消耗したりすれば、結界は消えてしまう。雨だからって妖が遠慮してくれるわけでもないし、本能的に嬉しくないものはできれば避けたいものでしょ?」
そんな説明をする少年を見下ろして、狼は首をひねった。
「……そうなのか? しかし、結界は結界だろう? おまえさんが気を失った途端、消え去るようなものでもあるまい」
「普通の結界ならね。理屈の説明は長くなるから省くけど、結界っていうのは一般的に、箱形とか球形とかの、単純な形のほうが強度も持続性も高いんだ。術者の力量にもよるけど、本人がいなくなっても何百年もの間保つのもある。
でも、周りを箱形とか球形で囲っちゃうと、人型をしてる僕がまともに動けなくなってしまうし、第一不自然だろ? だから、ちょっと工夫をして、僕の表面すれすれに結界を張ってるんだ。動きに合わせて形状を変えるのは、結構繊細な作業なんだよ」
「……よくわからんがお前も大変なんだな」
怜乱が水に濡れると危ないらしいということだけを理解して、狼は心底同情したように頷いた。
言われてみれば確かに、彼が雨に濡れているところなんて見たことがない。
びしょ濡れで悲鳴を上げる自分の隣を平然と歩く怜乱が羨ましいと、何度思ったか知れない。
──しかし、それが命に関わるほどの大問題だったとは。
真剣に考え込んだ後、ふさりと尾を振って狼は提案する。
「それなら、雨が避けられるようなら極力避けた方が良いんじゃないのか? 何なら、もっと安全なところを作ってやろうか」
その言葉に、少年はちょっと眉を上げ、しげしげと狼の顔を眺めた。
そして唐突に笑い始める。
最初は肩をふるわせる程度だった笑いが、徐々に発作めいたものに変わっていく。
そのようすを目の当たりにして、狼は気味の悪いものでも見るような顔になった。
普段にこりともしないどころか、無表情ここに極まれりといった体の彼が、壊れたように笑っているのだから当然と言えば当然だ。
「あはははは! 嘘だよ、嘘。仮にも画師が創り出したものが、たかだか水で壊れるわけないじゃないか。だいたい、画師の使ってる紙の構成物質は九割方金属だし、墨だって水の中でも使えるよ」
「なっ……俺が知らないのをいいことにからかったのか!」
ただの冗談だとの告白に鬣を逆立てた狼に動じもせず、少年はけらけらと笑い続けている。
「あはは、だって、信じるなんて思ってなかったんだもの。だいたい、嘘かどうかなんて僕の行動を見てたら判りそうなものじゃないか」
「妖の俺に画師のことが判るか!」
「あはははは!」
実は本当に、この豪雨でおかしくなってしまったのではないか?
笑い止みそうにない怜乱を、狼は疑いの目で眺めた。外見だけで言えば何をやってもおかしい年頃の少年だが、その中身はもっと年を経た何かなのだ。狼と出会ってからでも百年単位の時間が経っているのだから、経年で多少機能に異常を来たしてもおかしくないのかもしれない。
狼がそんなことを考えていると、木の裏側で誰かが身動きする音がした。
「はは………………あれ? 今、何か聞こえなかった」
物音に気づき、笑いを引っ込めた怜乱が辺りを見回す。
「聞こえたな。今まで隠れてたのか?」
警戒するように狼が立ち上がる。
足を踏み出そうとした狼よりも少し早く、
「……いやぁ、災難ですねぇ」
何とも暢気そうな男の声が聞こえた。
「誰」
条件反射のように問いかけて、怜乱は声のした方を覗き込もうとする。
「あぁ、驚かれると思いますから、あまり見ない方が良いですよ」
しかし、その行動を見透かしたように、男の声は少年の動作を遮った。
「大丈夫だよ。僕は画師だし、大抵のものは見慣れてる。驚いたりはしないから、良かったら姿を見せてくれないかな」
「……画師様ですか。でしたら、伺いましょう」
何かを一人で納得したらしい。向こう側ですっと誰かが立ち上がる気配があった。