アラクナス症候群
昨今の研究者を、医者を、果ては人類全体を悩ませる、ひとつの病がある。神話になぞらえてアラクナス症候群と呼ばれるそれは、まさに傲慢な人間への天罰とばかりに我々を襲った。
原因すらも不明。わかっていることといえば、感染した人間はまるで大蜘蛛のように4本の手足で地面を這い回り、そしてほかの人間を襲って捕食するという見たままの症状だけだった。予防策も治療する術も見つからないそれは刻一刻と感染者と発症者を増やし、いまや世界的な恐慌状態に陥っている。
殺さなければ、殺される。かつての隣人に牙を剥かれ、そのまま喰われたか、あるいは反撃で眉間を撃ち抜いたか。いずれにせよ、その被害は社会を麻痺させるには十分なものだった。会話している相手が、いや、自分自身ですらいつ感染し発症するかわからない。そんな疑心暗鬼の状態で健全な社会を構成できたはずがなかった。
警察機構は信用を失墜させ、代わって民兵組織が誕生した。ときに市民を感染者から守る正義の味方だが、一方でその暴力と抑圧は看過しえないものでもある。政府によって黙認されてしまっているいま、その抑止力が存在していないのだ。実はヤクザが裏で糸を引いているとかそういう噂も絶えないが、彼らなしには市民生活はより脅かされてしまう以上、市民もまたおウエがそうしたように黙認せざるを得なかった。
そして衛もまた、彼らの一員であった。目の前で父に喰われる母を見た彼は、その悲劇を繰り返すまいという正義感のもとに『護国護民自警団』の門をたたいたのである。その道の才能には不自由せず、両手に収まらないほどの感染者を処分してきた手練れだが、今やその目には入団当初の活力や情熱といったものはない。ただ増える実績の数字と、それに伴う恨み節だけが彼の世界をなしていると言っても過言ではなかった。団内でさかんにかけられる賞賛も、果たして彼にとっての慰めになったものだろうか。
彼にとっては日常となった非日常のアラームが、地域を巡回しているさなかの車内に鳴り響いた。それは出動の合図であり、血をも暗示している。同様に搭乗していた彼の部下、本庄と業務上のやりとりを交わすと、すぐさま車を旋回させ現場に急行した。
到着したのは倉庫であった。褐色に焼けたトタンでできたそれは、人がまさか入ろうとは思えない雰囲気を醸している。彼は青色の襟を正すと、一本の連絡をいれたのちに本庄を率いてそのシャッターの奥へ這入っていった。
眼の奥の細胞を薄暗さに合わせて彼らが見たものは、惨憺たる光景であった。
「……ひどいですね、これは」
被害者のものであろう、白骨が散乱している。感覚がマヒしている衛もまた、本庄のような陳腐な感想を抱いた。
しかし、多すぎる。こんな辺鄙な、なかば放棄されたような場所で、被害者がこうも多くなるであろうか。
衛の脳内に、もしや、という念がひらめいた。彼がいますこし用心深ければ、あるいはそれに従ったかもしれない。しかし彼はその本能的な予知を、わずか腰の拳銃を取り出す動きに析出させたのみだった。
空気にまぎれた鉄のにおいが内臓に張り付いて、底冷えする不気味さを醸し出している。それは二人の集中力を研ぎ澄ませる効果をも持っていた。その影響もあってか、彼らは相手に気づかれることなく感染者の姿を視認した。
コンテナに身を潜ませつつ互いに目配せをすると、二手に分かれて極力音をたてぬよう、相手を挟み撃ちにするように動く。それは知能が低下している感染者相手には非常に有効な手段で、界隈では必殺のパターンとして広く知られていた。
衛は、本庄の銃声を合図にいつでも飛び出す準備ができていた。そう、銃声さえ鳴れば、彼は感染者という獲物を仕留める手筈だったのである。もっとも、その予定はまんまと狂ったのだが。衛は、なにかあったのか、予定と違うじゃないかと覗き見た。
一見にして絶句する。先刻までなかったもの、肉の存在に気付いたからだが、それがどこから湧いて出たものなのか、衛は反射的に理解した。思わず唾をのみこむ。
……いや、逆に考えろ、これはチャンスだ。衛は考えた。捕食に気を取られている今こそが、まさしく攻撃の機会なのではないか。彼は拳銃が手の内にあることを確認すると息を殺して、そして大胆に突撃をかけた。発砲の機会は一度きり、十分に距離を詰めて、標準を定める。そして、一気に、引き金を、引いた。
悠然と受け止められた。本庄の遺体をまるで盾にするように、獲物は銃弾を受け止めていた。気づいていないのではなかったのか。気づいていないからこそ、自分は突撃をかけたのではなかったのか。自分と、そしてその部下の顔に勢いよく泥をかけられた気分になり、衛は激昂した。
感情のまま、銃を乱射した。しかしそれは無為に終わる。部下の遺体が邪魔になり、そしてそれが銃弾に穿たれていき、頭に上った血が脳そのものをふやかしているかのように判断力が低下し、そして銃から命令通りの爆発音がなくなったとき、ようやく自分が、追い詰められていることに気がついた。衛は慄然とした。このとき、ようやく衛に獲物の姿が見えたのだ。獲物は、あの感染者の瞳の中にいる、あいつである。そのあいつこそが、ほかならぬ衛自身であった。
本来であれば、感染者は理性を消失し、本能の奴隷になる。障害物なんて使わないし、罠にだって容易に引っかかるはずなのだ。しかし、衛たちはいまだに弁えていなかったのである。自分たちの相対しているものが、自分たちの手に余るものであるというのに、それでいてなお、それが自分たちの思い通りに動くと思い込んでいたのだ。
その感染者――ようやく、衛の目には”捕食者”である”彼女”の姿が映った――は、本庄の遺体をそのままに、犬歯をむき出しにして、人ならざる歩行法で衛に迫る。なけなしの勇気を絞って、護身用にと支給されていたナイフに手を延ばすが、それは刀身の半ばを抜かれようとして、体当たりしてきた”彼女”に弾かれた。絶望が音になって地面を転がった。
そのままの勢いで、衛は背中から地面に打ち倒された。衝撃に目が暗み、はっとするとその双眸が上から自分をのぞいていることがわかった。それが嗜虐的にゆらめくさまは巣にかかった虫を見下ろす蜘蛛の複眼を想起させ、衛の視線と重なりうねり、複雑な模様を呈していた。
不可視の華がひときわ大輪に咲き誇り、それが色を失って立ち枯れたとき、”彼女”と衛は、いっぽうは殺すため、もういっぽうは殺されぬために筋肉をはじけさせた。いくら感染者とはいえ、衛の膂力は女性の生来のひ弱なそれを上回っていた。何とか振りほどくと、彼はなりふり構わずにその出口へと、光のもとへと走った。経路は覚えていた。記憶の地図にすがりながら蹴り出し、肺を潰すように酷使してようやく見出し手を伸ばしたその光明は、しかし、ひとつの影を投射するプロジェクターに過ぎなかった。
”彼女”だった。どういうわけか、衛にはいっさい想像もつかなかったが、どういうわけか、自分を背後から追っていたと思っていた”彼女”が、今や自分の目の前で、頭髪の間隙に瞳を光らせていた。考えれば簡単なことで、ようするに”彼女”は衛のそれよりもはるかに正確で詳細な根城の地図を用いて近道をしたわけだが、衛にはそれがトリックに見えたし、トリックじゃなかったとしてもどうすることもできなかった。
身一つで投げ出された贄。そんな形容の通り、衛には武器のひとつもなかった。足元にあった白骨の大腿骨を手に取り上げたものの、それは自衛するにはいささか心もとない。もう少し心に余裕があったなら、自分の所属する団体の名を復唱して失笑する程度できたろうが、今の彼の思考にはそこにいる自分と捕食者である”彼女”のものしかなかった。
どうこの場を切り抜けるか、それを試算して棄却してをくりかえし、しかしついぞ結論は出なかった。どんな手段を使っても、”彼女”に殺されるビジョンしか見えなかった。”彼女”は衛のなかで恐怖そのものとして君臨し、彼のすべてを実体のない細糸で縛り上げていたのである。気味の悪い四足歩行でその間合いを徐々に詰める”彼女”は、しかし突然に歩みをを止めると苦しげに痙攣を始めた。
好機か、そう思い動こうとして、衛は腰を抜かしへたり込んだ。好機などではない、むしろ、最悪の黙示なのではないか。その思いが彼の下半身を砕いたのだ。
彼はそのままに”彼女”を注視していた。歯を食いしばってその端正な唇の脇から泡を吹き、目を血走らせている。自らの体重を支えていた手足は地球を握りつぶさんとばかりに力がこもり、そのわき腹の皮膚と服を突き破って、生えた。
なるほどそれは蜘蛛の足であった。黒光りするそれは2対4本、つまり既にある手足と合わせて8本。その容貌はより蜘蛛に近くなっていた。生えると同時に悦とした吐息と表情を迸らせて、”彼女”は打ち震えた。
衛は目を疑い、そして自分の予感が、不幸なことにも正しかったことを悟った。このような症例は一切記録されていないことを、曲がりなりにも専門家である彼は知っていた。そしてその原因を考えようとして、彼はやめた。それを考えることは実地にいない学者の仕事だし、そしてそんなことを考えられるほどの余裕はいまの彼にはなかった。彼は大腿骨の棍棒を突きつけて申し訳程度の威嚇をすると、腕を使ってじりじりとあとずさりしていった。
”彼女”はいま得たばかりの足を器用にも動かし、捕食対象をその目にしながら涎を滴らせていた。いまに喰らわんと舌なめずりする”彼女”に衛は抵抗することも放棄し始めていた。骨の前の持ち主も本庄も、”彼女”の歯牙にかけられて命を落としたのだ。そして自分自身も、その一員になろうとしている。そして細糸は、彼の心を縛り上げ壊死させようとしていた。
再び、視線が繚乱する。しかし一方の波長は揺れて歪んでいた。氷の結晶が割れ、隊列が瓦解し、文字が霧散して、そのセッションは流転する炎のような情景を作り出していた。儚く脆いそれは、その距離が縮まるごとに烈しさを増し、そしてそれが緩慢に揺らめいたとき、衛はコンテナと背中合わせになって逃げ場を失った。しかし彼はもうその鋭利な視線に眼球を貫かれていたから、脇を見るなどありえないことだった。
衛が思わず乾いた笑いを浮かべたのも道理であった。それは、彼が同時に大腿骨の棍棒を投げだしたのと同じで、”彼女”に対する降伏の意であった。抵抗を自ら放棄した彼は、敗者の視線で再び”彼女”を見やった。血色のいい唇にいま気がついた。長い睫毛にいま気がついた。”彼女”は美しかった。限界まで高揚しきった恐怖は、客観的な美的センスへと昇華していた。そして美しさというものがなにかの幾何学的計算に基づくなら、その過程で運命というものが副産物的に導出されるのも当然であった。ぴんと張られた糸に運命という名をつけ、衛は満足した。運命に絡めとられてその美しい捕食者の眼前に供されているという情景が、彼に絵画的な感銘を与えていた。そしてその血迷ったような幻想が収束し、再び新感覚的な、運命と本能の恐怖に上塗りされたとき、彼はまさに今、己を喰らわんとする”彼女”の姿で視界を覆いつくされていたのである。
熱っぽい吐息がかかった。その眼は衛の心の奥底を見るようでも、また、物質的な捕食対象の蛋白質を見るようでもあった。あるいは、それは合一のものであった。この女性に、この女性に自分は。この女性に自分は殺されるのだ。そして、喰われる。特に賞味もされずに喰われるのだろう。それでいいと衛は思った。それで然るべきだと衛は思った。逆光のなか、”彼女”は美しかった。正常なはずの防衛本能が鼓動を速めて瞳孔を押し広げ交感神経を鋭く刺激していた。逼迫して浅くなる呼吸。彼は見蕩れていた。溺れていた。異常な執心をして、彼は”彼女”のすべてを記録せんとしていた。”彼女”の顔が近づいてくる。肌理が細かい。上気して朱が差した頬。唾液でぬれた犬歯。そして、眼窩に填まったそれ。
トタンのにおいだった。
熱がようやく衛の肩口にかかったとき、彼の鼻腔がとらえたのはそのにおいだった。
より正確に、彼の五感がとらえたものを言えば、それはひとつの銃声と、トタンのような鉄のにおいだった。
”彼女”は、衛の肩に倒れかけて動こうとしなかった。
そしてそれは糸の切れたマリオネットのように、衛の肩から落ちて地面に転がった。
あっけなかった。
衛はそれ、”彼女”の屍を眺め遣った。胸を撃ち抜かれていた。即死だった。
動揺を隠しきれずにいた。ただ茫然と、かつての支配者を望んでいた。動かなかった。まるで、強引に運命を寸断されて時間が止まったようであった。とにかく、衛にはなにもわからなかった。
入口のほうから、なにやら口上が聞こえる。護国護民自警団の特務隊を名乗る彼女が、どうやら”彼女”を射殺したらしいことを、うすぼんやりと衛は理解した。
その彼女――名を長谷川といった――は、銃をホルスターに仕舞うと平然と衛に近づいていった。衛は朦朧としたまま「ああ」とか「違う」とか言いながら、確認のために”彼女”の屍に触れる長谷川を、やはりぼんやりと見ていた。
「いやー、しかし、間に合ってよかったっす。この個体は知能がとりわけ高くて観察対象になってたんすけど、まさかこんなになるとは思ってなかったっすからね」
脇腹に生えた新しい足に興味関心を得た長谷川は、手袋越しにそれを動かした。衛は「そうか」と短く返した。
「んー、とりあえず、研究所に持ち帰る必要がありそうっすね。あ、そうだ。手伝ってもらっていいっすか? 自分、非力なもので」
「……。」
「どう、したんすか?」
長谷川が人のいい笑いをこちらに向けた。その眼は、なにも言っていなかった。しかしその眼を見たとき、衛は霧状になっていた思考をすべて、憤怒という感情に変換すべきだと理解していたのである。
長谷川も早かった。しかし、機先を制した衛のほうが半瞬だけ早く長谷川の手首を押さえつけて組み敷いた。
「なにするんすか……!」
その光景は、衛が”彼女”にされたそれの焼き直しのようであった。しかし、長谷川は勝算を見ていた。衛の目を、ではない。そして衛も、”彼女”がそうしたような、焦らすようなことをしなかった。彼の脇腹から蜘蛛の足が生えた。彼の犬歯は的確に頸動脈をとらえた。噛みちぎった。その激痛に体をよじったが、ついにゼンマイが切れて長谷川は動かなくなった。
衛は長谷川の肉には見向きもせず、”彼女”のもとへと手足を動かした。すこしの間、それを慈しむような視線を投げたあとに、”彼女”の顔に近づいてその眼球を二つとも抉り取って食べた。すると器用に新しい足を動かして、”彼”は自らの腹を二つに引き裂いた。その倉庫最後の死体ができた。




