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ただの人

作者: 叶 こうえ
掲載日:2018/01/29

第17回R18文学賞一次通過作品です。


忌み嫌われている黒い「G」や、蜘蛛アシダカグモが出てきますので、苦手な方はご注意ください。


 二十歳過ぎればただの人――折に触れて耳にする言葉だけど、私の中ではこのあと続きがある。三十過ぎれば女としての需要がガタ落ちし、四十過ぎれば会社からも煙たがられる。

 コンビニで買った缶ビールを呷りながら、私は家路を急いだ。まだ夕方の六時でさほど暗くなっていないのに、さびれた町だからヒールの音が響きまくる。左手には昼でもシャッターが閉まった商店街、右手には初代のび太の家が立ち並んでいる。中に空き家もある。自分のアパートがもうすぐ見えてくる、というところで、前方から風に押されて空き缶が転がってくる。蹴ってくださいと言っているようなものだ。小六の頃、缶蹴りで一番遠くまで飛ばしたことがある私としてはここでスルーするわけにはいかない。幸い履いているのはオリーブ色のチノパン。この小汚い缶を、あえて買ったばかりのエナメルベージュのプラダの靴で蹴とばしてやろう。子供の将来のために学資保険やら英語の英才教育やらにお金をつぎ込み、且つ、家事育児と仕事の両立という生活に追われ、自分の服一着も買えないワーキング・ママには手を出せない代物、プラダ。そういえば彼女は、毎日旦那のフォーメンフケ対策用シャンプーを使っているらしい。それを聞いたときは思いっきり笑ってやった。だから髪の毛がボサボサしてるのよ、と突っ込んでもやった。

缶から三十センチ距離を置いて右足を振り上げる。ここは思いっきり。サッカーみたいに遠くまで飛ばしてストレス解消だ。ピンと足を伸ばしてさあ振り下ろそう、としたときだった。爪先から太腿にかけて電流が走り抜けた。これはマズイ奴だ。程なく、ジッとしていられないほどの痺れと痛みが襲ってくる。足が攣った。

 こんなところに空き缶が置いてあるせいでひどい目に。

「誰だよ置いたのはあ」

 座り込み、痛みが遠のくのを待ってから立ち上がる。もう! と口のなかで吠えてから、攣っていない方の足で軽く缶を蹴る。そうしたら、浮かび上がった缶の飲み口から、残っていた液体が靴の先にぽたっと落ちた。最悪だ。慌てて靴を確認すると、トゥ部分にコーヒーが跳ねて蒸発したみたいになっている。幸いエナメル質だから、水分が靴にしみ込むことはない。でも拭かなくちゃ。チノパンからポケットティッシュを取り出し、きゅっきゅと音を立てて汚れを取った。

空き缶のポイ捨てをするなら、最後の一滴まで飲み切ってからにしてほしい、と切に思った。

 なんで缶に当たり散らしたくなるほど苛々していたのかと言うと、職場での私の存在価値が、育休明けの女(といっても職場復帰して半年は経っている)、田中によって軽んじられるようになったからだ。仕事復帰して一週間までは彼女はしおらしくしていた。私の仕事の指示にも文句言わず従ってくれていた。だがある日。エクセルでの単純な入力作業を頼むと、「これ、もっと効率的にできますよ」と言い出したのだ。当初私は、彼女の能力を甘く見ていた。関数を使って入力の簡易化と時間短縮ができるぐらいだろうと高をくくっていた。だが彼女は、手入力だと一時間かかる作業を、データベースから入力情報を取り込むシステムを編み出した。プログラミングにある程度時間はかかったものの、次回からこの仕事は所要時間一分程度です、と胸を張って言った。

田中は育児休暇中にエクセル、ワード、パワーポイント、更にはデータベースのソフトを猛勉強し、資格まで取っていたのだ。

「子供が寝ている間、暇だったので」

 彼女は軽やかに言ってのけた。上司に褒められた上、事後報告なのに取得した資格の受験料を会社に出してもらえた。彼女は調子に乗った。口を開けば仕事の効率化を提唱した。   

もともと会社全体(といっても、社員総数三十人強の弱小靴卸会社だが)でも、業務のIT化推進の声があがっていたので、その波に嬉々として彼女は乗った。伝票や在庫調整票など手書きで行う作業がパソコン画面で一回か二回クリックすれば、プリンタから排出されるシステムに様変わりした。

IT化の波に乗れなかった私は仕事を干された。唯一私に残された仕事は、アナログ業務だ。ポストイットや指サックといった事務用品のストックのチェック。お茶の上げ下げ、応接室の掃除、あとは虫退治だ。

周りの目は厳しい。彼らはそれほど苦労もせずにIT化に順応したため、私の苦しみが分からないのだ。

十六時ぴったりで田中が帰ったあと、私は暇なのでデスクでネットをしていた。すると同期(彼は専門卒、私は短大卒)の男、前田が背後にやってきて注意をしてきた。

「松野、暇だからってネットするなよ。少しは田中さんのこと見習ってエクセルの勉強でもしたらどうだ?」

「私は田中さんみたいに若くないから覚えるのが大変なの。パソコンスクールで習おうかとも思ったんだけど結構月謝が高いし、通う時間もないしね」

 言い慣れた言い訳を口にすると、彼はムっとしたように眉を寄せた。

「言い訳ばっかりだな。皆、少ない時間を縫って仕事のために勉強してるんだよ。俺だってそうだ。田中さんなんて、家に帰ったら育児もあるんだよ。あんたは一人暮らしなんだろ。田中さんよりずっと楽なはずだ」

 私はため息を吐いて返事に換えた。

 子持ち共働きの女と私を比べて何がしたいのだろう。そんな大変な今の状況を選んだのは彼女自身だ。

 前田がまだぐちゃぐちゃ言っている。見えない耳栓を耳に嵌め、私はエクセルを開いた。勉強するポーズをする。と、視界の上を黒い物体が横切った。とっさに、手近にあった箱ティッシュを掴んで、天井を這うトラッカに投げつける。ガツンと音がしたあと、箱ティッシュと一緒に黒いものが天井から消えた。

「よっしゃ、命中」

 室内の隅にあるファクシミリに奴が落下し、コピーを取っていた入社一年目の男の子が、キャアと声を上げた。

「松野さんすごい。トラッカやっつけたの、これで十匹目。二桁突入ですよ」

 隣で入力作業をしていた秬谷きびたにが手を止めて、メモ帳に正の字を記入している。私が成敗したトラッカの数をわざわざ記録してくれているのだ。

 うちの会社では、ゴキブリのことをトラッカと呼ぶようにしている。フィンランド語だ。フィンランドは寒いから、ゴキブリなんていないらしいが。巷でムーミンが流行りだして、社内でファインランド語を習う女の子が増えた。ゴキブリという名称は美しくないし、口にするのもおぞましいということで、社内では皆、トラッカと呼ぶようになった。

「次は三桁目指そうかなあ」

 私が冗談を言うと、秬谷が「怖い事言わないでくださいよぉ」と返してくる。

「松野がいてくれて良かったって思うのは、虫を退治してくれたときぐらいだな。ま、誰でもできることなんだけど」

 まだ後ろにいた前田が、また嫌味を言う。だったらお前が殺れよ、と内心思ったけれど、口には出さない。こいつはすぐ喧嘩腰になる。だから四十になっても独身なのだろう。はっきり言って不細工だし、腹は出ているし、頭もM字禿げだ。外見の魅力ゼロ。トラッカ一匹も殺せない小心者だから、内面も大したことない。そういう私も四十なわけだけど、前田とは違う。美容院には月一で通って小綺麗にしているし、だからと言って「私は美魔女」なんて勘違いもしていない。年相応に、周りを不愉快にしないように生きている。

「虫退治の会社にでも転職すれば。そっちの方が天職だろ」

 私が無視を貫くと、前田は舌打ちをして自分の席(私の真向かい)に戻った。

「それにしても、このところ出没率がアップしましたよね。やっぱり下の階が居酒屋になったからですかね」と、秬谷。私は同意した。

 今年の一月、テナントを募集していたビルの一階に、全国チェーンの居酒屋が入った。昼のランチもやっているので、便利になったと私も会社の人たちも喜んでいたけれど、三月になり寒さが和らいだころで、ビル内でトラッカを目撃することが多くなった。居酒屋の店内は工事したばかりで綺麗だし、不潔な感じはしない。実際に店で食事をしているときにトラッカを見かけたことはない。だが、私の職場である二階の事務所や、ショールームという名の三階の倉庫、エレベーター、廊下などで、一日に一回は誰かの目撃証言を聞くこととなった。ホウ酸団子やゴキブリコイコイなど、室内に設置する対策は行ったが効果がない。更に四か月後。梅雨が終わり夏本番になると、トラッカは増える一方だった。

「そんなことよりさ、田中さんの夏のボーナス、かなり良かったらしいよ。IT化の促進に一役買ってたし、資格も取ったりで頑張ってたもんなあ」

 その前田の言葉が、私のプライドを打ちのめした。

 軽く蹴った空き缶はまた風に吹かれ、どぶ川に自ら身を投じた。

ぬるくなる前に手中にあるビールをすべて飲み干し、缶を潰す。ベコンと気持ちの良い音がなる。だけど私の気分は晴れない。

「悔しい」

 無意識に出た本音。会社への貢献度は、私より田中のほうが高い。勤続年数は私が十年長いというのに。

 前田ほどではなくとも、職場のほとんどの人が私をバカにしている。もちろん私は屈辱感を覚えているし、見返してやる! って気概もあるにはあるけれど、すぐに「苦手なものは苦手なんだよね」と悪い意味で開き直ってしまう。このまま文句を言われ、バカにされながらも、私は定年まで勤め上げるだろう。不満があったって転職先が見つからないだろうから仕方がない。恋愛や結婚に関しても諦めの境地だ。四十過ぎて子供を孕む可能性も低くなっているから、子供嫌いの男、もしくはバツがついていて既に子供がいる男ぐらいしか相手にしてくれないだろう。幸い、私は男とのセックスで絶頂を得たことが一度もないから、真の意味で飢えるということがなかった。たまに自慰するぐらいで満足だし、男はさほど必要ではない。

 自分の空き缶はちゃんと捨てよう。一応私には倫理観がある。ちょうど目の前に自販機がある。その横には缶が溢れかえったゴミ箱が置いてある。私は手持ちの空き缶を、全体重をかけてゴミ箱に押し込んだ。家に缶を持ち帰る選択肢はない。ゴミを家持って帰るなんて負けた気がする。缶はなんとかゴミ箱内に収まった、と手を離したら、反動で私の缶が押し出され、地面にカランと落ちた。ついでに要らない物までくっついてくる。カサカサ動く物体が缶の中に侵入し、ガサガサと音を立てている。

奄美大島出身の私は、こんな場面を見慣れすぎていて、驚きや恐怖なんてものは全く生まれない。私は冷静に右脚のパンプスで缶を踏みつけた。飲み口部付近を先に踏んで逃げ道を塞ぐ。

「こんばんは」

 急に後ろから声をかけられた。男の声だ。

背後を見ると、なかなかの渋いイケメンが立っていた。目尻の皺と、顔全体のくたびれた感じで、四十代後半位だろうと予測する。

ニコリと笑いかけられ、私も自然と笑った。

「Aビルの方ですよね?」

 彼が尋ねてくる。Aビルとは、私の会社が入っているビルのことだ。そういえば私も、彼の歯並びの悪い口を見た覚えがあった。

「店長さんですか?」

「そうです。いつもお世話になってます」

一度彼は、居酒屋がオープンする前日に私の会社に挨拶に来たことがあった。居酒屋の食事券まで持参して。

せっかく顔の造りは良いのに、乱杭歯が惜しいと思ったのだ。

 こんなところにいて店は大丈夫なのだろうか、と一瞬考えたが、すぐに今日が月曜日で、居酒屋の休店日だと思い至る。

「ここで何してるんですか?」と訊かれ、私は踏んでいた缶から足を外した。

「この缶のなかにトラッカがいたんで潰してました」

「トラッカ?」

「ゴキブリのことです」

 すっかり私もフィンランド語に染まっているようだ。トラッカ以外に知っているのはキートスとサウナぐらいだが。

「ああ、最近よく見ますよね」

 店長が他人事のようにのほほんと言うので、少し苛ついた。

ここで会ったのもなにかの縁だ。私は店長に、一階が居酒屋になってから、ビル内でトラッカをよく見るようになったと伝えた。すると彼は、「え?」と驚いたような顔をしてから、それは申し訳ない、と頭を下げてきた。

「そういうことでしたら、うちの店でちゃんと精査して対策を立てますので。あなたの会社にもホウ酸団子を無償で」

「いや、ホウ酸団子とか効かないですよ」

 最近の日本のトラッカは、強くなってきている。市販の殺虫剤に耐性ができていて、そう簡単には死んでくれない。だから職場で、私の物理攻撃が重宝されている。

「じゃあ他の手を考えてみます。本社にも報告しておきます」

 柔軟な考えを持っている人だ。ふつうは、自分の店のせいじゃない、と一度目の苦情には取り合わないものだが。

「お住まい、この近くですか。良かったら送りますよ。暗くなってきましたし」

 たしかにあたりは暗くなっている。さっきまで見えていた電線の輪郭が、薄黒い空に溶けている。

 サービス業だからか、店長は物腰が柔らかい。家まで送ってもらいたい気分になったけれど私は断った。そこの曲がり角を曲がればすぐだし、築六十年以上の木造のアパートに住んでいるなんて知られたくない。

「じゃあここで。またランチ食べに来てくださいね」

 店長が私を通り越し、曲がり角を曲がった。モンシロチョウに似た蛾が纏わりつく外灯に照らされて、私のアパートがある通りをすいすい歩いて行く。四十代のわりに、スリムな体型で少し見惚れた。彼の背中を目で追う。果たして、彼はご近所さんだと発覚した。私のアパートの二つ隣の、これまたおんぼろなアパートの階段を、彼は上って行った。


 翌日私は、秬谷を連れてビル一階の居酒屋にランチを食べに行った。店内の、できれば厨房などの見えない場所を隙あらば覗くという目的があったが、私は食事中、店長がいないかフロアをさりげなく眺めていた。そうしたら私たちが座っているボックス席まで来てくれた。

「さっそく来てくれたんですね。ありがとうございます。今日は特別、デザートをサービスさせていただきますね」

 秬谷にではなく、私に笑いかけてくれた。彼の乱杭歯が思いっきり見えたけれど、前よりそんなに気にならない。

 私が遠慮せずに「ありがとうございます」と答えると、店長は「じゃあ手配しておきます」と言って、それ以上長居することなく、他のテーブルにオーダーを取りに行った。ランチタイムで忙しいはずなのに、私の元に来てくれたのだ。

「いつの間に、あんなイケメン店長と仲良くなったんですか。いいなあ、タダでデザート」

 秬谷が羨ましそうに私の顔を見た。その表情は、「私の方が若いし可愛いのに」と言いたげだ。

「あなたの分も持ってきてくれるわよ」

 私が言った通り、食後、レモンのシャーベットが二人分、テーブルに運ばれてきた。

 厨房やトイレの偵察はすっかり忘れてしまった。

 ランチから帰ると、社内はちょっとした騒ぎが起こっていた。私が座っている島のデスクの上からノートパソコンや書類が消えている。秬谷の向かい側の席――つまり田中の机の上にだけ、ぽつんとマグカップが置かれている。ミルクティーが入っていて美味しそうだ。が、よく見てみると、ぶくぶく微弱の泡が起こっている。

「あ」

 黒い脚がバタバタ動いている。溺れているようだ。

「もういや、こんな職場。もう本当にいや」

 大事なことなのだろう。田中が机から三メートル離れた場所で、二度言った。

 前田も落ち着かない様子で、席から距離を置いて立っている。私は今の状況を把握した。私と秬谷がランチに行っている間、この島の机で、トラッカが縦横無尽に走り回ったのだろう。捕獲すべく、前田と田中が卓上のものを取っ払った。

ノートパソコン四台が近くの床に積まれている。その上にはプリントやファイル、箱ティッシュが載せてあった。

「もう一匹がまだ見つからないんです」

 震える声で田中が言った。この怯えっぷりは嫌いを通りこして恐怖症だ。田中が哀れになってきた。

「コップのなかの奴、捨ててこようか?」

「ありがとうございます。でもその前に生きている奴を探してください」

「そのうち出て来ますよ」

 秬谷がウンザリしたように自分の席に座った。彼女は田中ほどトラッカが苦手ではない。

 秬谷が、半分開きっぱなしにしていた引き出しを全開にして、歯ブラシセットを取ろうとした瞬間、「うあああ」と叫び声を上げた。

 彼女は音を立てて椅子から立ち上がり、私の元に走って来た。

私は引き出しに入ったままの歯ブラシセットに注目した。プラスチックの筒に黒い生き物が這っていた。

「またかよ」

 誰も始末しようとしないので、私がやるしかない。箱ティッシュに手を伸ばす。


 職場でのトラッカの多さに耐えかねたのか、とうとう田中他十数人が社長に直談判した。害虫駆除業者を呼んでくださいと。

社長の返答は「とりあえず一階の居酒屋に苦情を入れてから考えよう」という曖昧なものだった。気持ちはわかる。害虫駆除には費用がかかるし、うちの会社だけがやったとしても、居酒屋はもちろん、他の階(四、五階は居住者向けのマンションなのだ)がやらなければ、あまり効果がない。ほとぼりが冷めたら、奴らが戻ってくる可能性がある。

 私はその、クレームを言う係に抜擢された。暇そうだからという理由だったが、私はムっとすることなく引き受けた。

昼休の騒動から三時間後。ランチタイムが終わり、準備中になった居酒屋に私は向かった。あらかじめ電話でアポを取っていたので、店のドア前にあるちょっとした踊り場で店長が待っていてくれた。すぐに店内に通され近くのテーブルに座るように促された。

 まずは名刺交換をする。ここで初めて店長の名前が木村孝則さんだということを知った。

「松野裕子さん。良いお名前ですね」

 社交辞令だとわかっていたが、褒められてくずぐったい気分になった。

「昨日の今日で何ですが――」

 私は、自分が会社を代表して苦情を言いに来たことを伝えた。

「そんなにひどいんですか。虫被害……」

 店長が参ったな、という風に頭を掻いた。

「うちの店がこのビルに入ってからってことですけど、それまでは一度も出たことがないんですか」

「いえ、毎年、夏になると少しは出てましたけど、今年は桁違いで」

 私は言葉を切り、フロア全体を流し見た。リフォーム済みの店内は壁も天井も目立つシミがないし清潔感がある。周りのテーブルは綺麗に拭かれているし、床にはゴミひとつ落ちていない。

「でも、このお店、綺麗ですよね。ここが原因じゃないかもってちょっと思ってきました」

 うちの会社の方がよっぽど汚い。

仕事中にお菓子を食べたり、爪切りや耳くそをほじっている人がいる。

「厨房も綺麗なんでしょうね」

「まあ、汚くはないですよ。あ、ご覧になりますか」

 店長は察しが良かった。

 厨房内は思っていたよりも狭かった。二人同時に通れるぐらいの通路には一切物が置かれていない。タイル地の壁やステンレス製の作業台、コンロ、引き出し、棚――どの箇所も、影が映るぐらいに磨き込まれていた。飲食店の厨房といえば油まみれ、というイメージが私にはあったが、それが見事に覆された。

「ここでゴキブリが出たことってあります?」

 一応聞いてみると、店長は「店の開店準備をしているときに何回か」と答えた。

「オープンする前に業者に消毒してもらいました。あと、秘密兵器も投入して」

「秘密兵器?」

「知りたいですか? ちょっとグロテスクですけど見たい?」

 店長は見せたくてうずうずしているように見えた。声が弾んでいる。

「あなたなら大丈夫そうだ。平然とゴキブリを倒せるんだから。ついてきてください」

「はあ」

 私はどうやら店長に気に入られたようだ。

 一番隅にある棚の鍵を開け、店長は透明のプラスチックケースを取り出した。その中には、小さいタコを潰したような灰色の生物がカサカサと音を立てて動いていた。私はそいつに見覚えがあった。

「アシダカグモですね」

 トラッカの天敵だ。十歳の頃まで、私は奄美大島に祖父と住んでいた。あそこではアシダカはいて当たり前の存在だった。壁を見ればいる。窓を見ればいる。

「よく知ってるね」

 店長が嬉しそうに笑った。

「これを閉店したあと店に放しておくんだ。そうすると勝手に掃除してくれる」

「間違ってお客さんがいるときに出てきたりしないんですか」

「まずないよ。こいつ恥ずかしがり屋だから。夜行性だしね」

 まるで「小人の靴屋」の小人みたいだ。人間が寝ている夜中に活動してくれる。

「あなたの会社でも一匹どうですか。一匹いるだけでだいぶ違ってきますよ」

「そうですね……」

 それもアリかも、と私は思った。私自身がアシダカグモに抵抗感がないからだ。小さいころよく見てきたし、彼らが益虫だということを知っている。人間を攻撃してくることもない。人間と遭遇すると、慌てて逃げる可愛い奴。そして、トラッカを殺傷する能力が凄い。掃除機並みのスピードでトラッカを捕食する。せめて外見がもうちょっと良ければ、と思う。

「私の友人が、爬虫類とか珍しい生き物を売ってるんですよ。ちゃんとした店です。そこにアシダカグモも置いてるんですよ」

 私は店長の勧めに少し心が動いた。他の皆が賛成してくれるなら、アシダカグモを購入するのも悪くない。

 私は店長に、友人の店の名前と住所を教えてもらい、メモをした。

 店長が腕時計を見て「もうこんな時間だ」と言った。私も時計を見る。もうすぐ十七時になるところだ。

「お忙しいなか来て頂いてすみません」

「いえいえ。どうせ暇だったんで。社内のIT化についていけなくて私、会社のお荷物なんですよ。若い子に庶務オバサンって呼ばれてるんです」

 自虐ギャグのつもりで言ったのに、店長は笑わなかった。

「まあ、年を重ねていくと新しいことを覚えるのが難しくなってきますよね。でも、自分にとって本当に興味があることならいくつになっても覚えられると思うんですよね」

「そう、ですね……」

 彼の言葉は、私の胸に重く響いた。

 その通りだと思った。少しでもパソコンや仕事の簡略化に興味があれば頑張ろうと思えたはずだ。

「本当は私、事務が嫌だったんですよ。今の会社に入ったのも靴のデザインとか企画がやりたかったからなんです」

 でも希望の職種で採用されなかった。仕方なくこの二十年、事務員をやってきた。

「だったら上司の人に言ってみたら良いんじゃないですか。他の仕事をしてみたいって」

 簡単に言ってくれる。

「もうこんな年だし、今さら」

「やけに後ろ向きですね。松野さんって強いイメージあるんですけど」

 私は苦笑した。彼にとって私は、トラッカを缶越しに潰す神経の図太い女、なのかもしれない。

「私は今年四十八なんですけど、副業をやってるんですよ。夏限定なんですけど、楽しくて」

 本当に楽しそうに店長は笑った。

 帰社すると、パートを含めた職員大半の社員が帰ったあとだった。社長もいない。終業時間を過ぎているから当たり前なのだが、それにしても残業する人が少ない。たぶん、トラッカが原因だ。

 私の島で唯一残っていたのは前田だった。彼に一応、アシダカグモのことを話すと、彼は意外にも乗り気になった。

「本当にそいつを放し飼いにすれば、トラッカが消えるのか」

 勢い込んで聞いてくるので、私は引きながらも頷いた。手中にあった店の名前と住所を書いたメモも、奪い取られる。

「俺、今すぐ買ってくるわ。その、アシダカ!」

 書類を片付けて、前田が鞄を手に持った。

「ちょっと待ってよ。皆の意見も聞かないと。その蜘蛛、めちゃくちゃ見た目がキモいから」

「夜行性なんだろ、その蜘蛛。仕事中に出ないなら良いよ」

「でも社長の承諾も貰わないと」

「大丈夫だいじょうぶ。バレないよ」

 前田らしくない物言いだった。いつもは真面目で、私に説教してばかりなのに。

「松野も誰にも言うなよ。知らぬが仏ってやつだから」

 私は半ば茫然としながら、走り出した前田の背中を見送った。彼がトラッカ嫌いだということは知っていたが、ここまで追いつめられていたとは思いもしなかった。

 翌日、彼はやけに嬉しそうな顔で出社した。私は、ああ、やったんだな、と察した。昨日アシダカグモを買いに行って、昨日のうちに社内に放ったのだろう。

 昼休みになると、前田が私に近づいてきて耳打ちをした。

「アシダカグモ、凄く高かったよ。一匹十万。買ったけどさ」

「十万っ?!」

 あまりにも高い。ぼったくりのレベルだ。奄美大島ならタダでいっぱい手に入るのに。

「オークションサイトでいくらぐらいか調べたんだけど、店と同じぐらいするよ。今年はとくに高騰しているみたいだ」

 前田が大金叩いて買ったアシダカだが、それがちゃんと機能してくれるのか。私はちょっと心配だった。が、それは杞憂に終わった。

 アシダカグモを社内に放ってから二日立った頃から、効果が表れた。一日に一回は出ていたトラッカが、二日に一回、三日に一回と出没率が下がって行き、しまいには一週間一度も目撃者がいなくなるまでになった。こうしてわが社のトラッカ騒ぎは、呆気なく収束に向かったのだ。秘密裏に前田が放ったアシダカによって。


 季節は秋になり、過ごしやすい気温になってきた。装いもそうだ。半袖から長袖に、サンダルやミュールからパンプスやブーツに。

 私の心持ちも多少は変わった。相変わらずパソコンは苦手だし、庶務ばっかりしているけれど、今度、三日間有給を取って、シューフィッターのスクーリングを受講することになった。この資格を取って、少しでも靴のデザインの仕事に近づければと思った。どうせ駄目と思っていたら、いつまでたっても駄目なままだ。やれることはやろう、とちょっと前向きになった。

 そういう風になれたのは、居酒屋の店長――木村さんのお陰だ。彼とあの日話したことで、私は自分の気持ち、本当にやりたかったことを思い出したのだ。

居酒屋にランチを食べに行くことが増え、店長と顔を合わせることが多くなった。そして、一言二言話す関係から、夕飯を一緒に食べに行く間柄に進展していった。

 彼も私も独身の四十代。家は近い。住んでるアパートがボロい。と、色々共通点があった。

 十月の初め、私は木村さん部屋に初めてお呼ばれした。

「そろそろ俺の副業を教えようかと思って」と言って。

 どんな副業をしているのだろう。ワクワクしつつも、変な胸騒ぎを覚えていた。気のせい気のせい、と自分を鼓舞して、私は彼のアパートの近くにある銀杏の木を流し見ながら階段を上っていく。

 二階に着き、二〇二号室の前に立った。ドアの隣には、インターホンではなく、ただの呼び鈴が設置してあった。とりあえずそれを押す。数秒して、微かに「入っていいよ」と彼の声が聞こえた。

 私はドアを開けた。玄関に彼はいない。靴を脱いで、上がり框に立った。廊下はない。すぐにキッチン付きのワンルーム部屋が見えた。そこに彼はいた。

「今、最後の作業をしているところなんだ。今日が仕事納め」

 そういって、彼は瓶のなかのアシダカグモを一匹、長方形で少し高さのあるプラスティックケースに移した。空のケースはまだ何十個とありそうだ。瓶のなかにもまだいる。十匹以上のアシダカ――灰色の体に白い線が入った、脚の長い蜘蛛が。

 それだけじゃない。ガサガサガサ、とさっきから聞こえてくる音。体を押し付け合っているような、窮屈そうな音の正体は。

 アシダカグモの入った瓶の隣。カブトムシ飼育用の大型のプラスティックケースに、それはいた。すべて黒一色、というわけではない。茶色いのも、赤茶色いのもいる。

「なに、してるんですか?」

 声が掠れた。さすがの私も、動揺するに決まっている。久々にトラッカを見たからじゃない。その量の多さに驚いた。トラッカが苦手な田中、前田、秬谷が見たら卒倒するレベルだ。

「見ればわかるだろう? 飼育していた蜘蛛を出荷ケースに入れてるんだ」

 彼はにっこりと笑って言った。心底この作業を楽しんでいるみたいに。いや、実際楽しいのだろう。

「そのゴキブリはどうするんですか?」

 アシダカグモを出荷するなら、餌はもういらないはずだ。余ったそれらは、一体。

「ああ、これね。少しずついろんな場所に撒くよ」

「は?」

 何を言っているのだろう。そんなことをしたら沢山の人に迷惑がかかる。

「冗談でしょ?」

「冗談じゃないよ。これはビジネスなんだ」

 その言葉で、私は全てを悟った。理解した。

 木村さんが店長としてAビルにやってきたのも、そのタイミングでトラッカが大量発生したのも、彼の友達の店で買ったアシダカグモによってトラッカ騒ぎが収束したのも、すべて目の前にいる彼の企みだったのだと。

「Aビルにもそれをばら撒いたんですね」

「そうだよ。需要と供給のバランスは大事だからね」

 悦に入ったような彼の言い様に腹が立った。額が熱を持ったように熱くなる。

「それが迷惑行為だってわからないんですか」

 前田はトラッカによって相当追い詰められていた。自腹を切って十万のアシダカグモを買うほどに。精力的に働いていた職員も、トラッカが出る職場にいるのが嫌で逃げるように定時で帰るようになった。

「ちゃんと改善案も出したんだから良いだろう。来年はターゲットにしないから安心して」

「そんな問題じゃ」

「だいぶ儲けたし、その資金でトレーダーにでもなろうかと思ってるんだ。ブラック居酒屋の店長なんてさっさと辞めて。大卒の俺がこんな仕事してるなんておかしいだろ?」

 君もその方がいいよね? と悪びれもしないで聞いてくる。

「私に聞かないでください。もう関係ない」

 彼の顔を見るのも嫌になった。私は玄関に向かって歩き出した。

 やっぱり四十過ぎて独身は、何かあった。

「待てよ。俺を逃したらもう、出会いなんて転がってないぞ。四十過ぎて仕事もできないで」

 そうかもしれない。仕事も恋愛も中途半端で、ないない尽くしの人間に成り下がった。だけど。

「あんたに言われる筋合いはない!」

 一気に怒りが吹き出した。バカだった。少しでもこんな奴に好感を持った自分が、見る目のない自分が。

 彼の座っている座卓まで歩いて行き、カサカサ音を立てる虫ケースの取っ手を掴む。

「おい、なにするんだ」

 彼が慌てたように立ち上がり、その反動で蜘蛛の入っている瓶が倒れた。彼は更に慌てて、瓶を立てたが、アシダカグモが一匹逃げた。

「あんたも手伝えよ」

 床を這う蜘蛛を追いかけながら、彼が言う。私は無視し、玄関まで行き靴を履いた。

虫ケースの上蓋にある開閉ストッパーを開ける。カサカサと中から音がする。すぐに一匹二匹と、這いあがってくる。私は急いで、虫ケースを木村の顔目がけて放り投げた。見事命中する。

「何するんだ!」

 怒声はすぐ「助けてくれ」という懇願に変わった。彼の顔に二匹のトラッカが張り付いている。

部屋中に撒き散ったトラッカを数匹のアシダカグモが掃除機のペースで捕食していく。

「あんたは害虫だよ、木村さん」

 私が言うと、彼はトラッカを自力で顔から剥ぎ取り、負けじと言い返してくる。

「お前だってそうだろ! 生きてて誰の為にもなってない!」

「あんたよりはマシ」

「何様だよ、おまえ!」

 私は少し考えてから答えた。

「ただの人だよ」

 益虫でも害虫でもない。

 でもいつかは、自力で誇れるものを手に入れたい。

 私は害虫の声を遮断すべく、玄関のドアをピシャリと閉めた。了


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[良い点] 前半の丁寧な描写で、主人公の松野の状況等を整理し、物語をきれいに導いている点。 細部にわたる地の文章による伏線の設置。 [気になる点] 唐突な「説明」の描写が気になりました。特にここ。 …
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