不殺の天使
全ての色を消し去ったかのような純白の長い髪。
透き通るような白い肌。
聖職者を思わせる白い装束。
息を呑むほどに、まばゆい美貌。
少女を構成するそれらの要素が、日の光の下にあって
彼女を光り輝いているように感じさせたのだった。
その姿は、少女がまとう神秘的な空気も相まって
どこか現実感のない、天から舞い降りて来たなどという
戯言さえ真実にさせてしまいそうな、
目を離せない引力を伴ってそこに存在したのである。
まさしく降臨したように突然現れた少女に、
その場にいた者たちはしばし言葉を発せられずにいた。
そうさせたのは彼女の容姿のみならず、
いつの間にかここにいた唐突さでもあったのだった。
「…お…」
ようやく声を出したのは、ウォルケンであった。
視線は、街道警備隊に囲まれる形になっている少女に
釘付けになったままである。
大柄な兵たちの中では見誤りそうになるが、
彼女はかなりの長身だった。
少なくとも、ジャカよりは上背があるだろう。
厳密に比べればヴァッセよりも高いかもしれない。
そして、非常に均整の取れた身体つきをしていた。
切れ長の瞳は黄金に輝き、長い睫毛をも照らしているかのよう。
伸びる四肢はしなやかで、
白磁の如き頬は形良い顎へとなめらかな曲線を描く。
細く引き締まった腰元に帯びた緩やかな弧を持つ剣でさえ、
芸術を彩る華と思わせたのである。
「お嬢ちゃんは、一体…」
「…待て、ウォルケン」
ウォルケンの身体をぐいと押しやって、ヒルトは少女に向き直った。
その目つきは、険しいものになっている。
「娘さん、あんた…
レッドハンドか」
ヒルトの鋭い視線は、少女が左手にだけ着けた
赤い剣士用の手袋に注がれていた。
彼の言葉を耳にして、周りの兵たちはどよめいた。
レッドハンドは、ウィルスター王家直属の武装組織を前身とする
武闘集団である。
制服や統一された装備などはないが、利き手に赤い手袋を着けているのが
メンバーの証となっていた。
属する者はいずれも一騎当千たる武力を持ち、
ウィルスター軍の傭兵隊ということにはなっていたが
常に唯々諾々として従う連中でもなく、
いつまでその状態が続くかわからないという危惧を
多くの者が抱いていた。
この夢幻的な少女、年の頃は十代半ばに見える彼女が、
そんな猛者ぞろいの武闘集団の一員だというのか。
しかし、ヒルトが表情を厳しくしているのはそのことよりも、
「なぜレッドハンドがここにいるのか」という疑問であった。
上述のように、あの集団は全員が腕利きではあるが
読めないところも多い、ウィルスターにとっては危うい存在でもある。
諸刃の剣やもしれぬ連中を、上層部も滅多なことでは使わないはずだ。
「こんな所で一人旅というわけでもないだろう。
目的を聞かせてもらおうか」
「あなたたちには用はない」
冬の空気のように冷たくよく通る艶やかな声が、
ヒルトを刺した。
同時に、少女の黄金の瞳がウォルケンを射抜く。
「私が会いに来たのはあなただ。
フリード・ウォルケン」
「俺の名と顔をご存知かね、お嬢さん」
名指しを受けたウォルケンは、前に出ようとするゼップを制して
あえて柔らかい口調で答えた。
少女が王都から来たのなら、彼が長く暮らしたフェデリエのどこかには
写真の一つも残っているだろうから顔を知っていてもおかしくはない。
「確かに俺はウォルケンだ。
よければ君の名も教えてもらいたいもんだが」
「アンジェ」
「ほう、いい名じゃねえか。
天女様みたいな見目麗しさだし、
つけもつけたりってやつだな」
少女の名を聞いてウォルケンは何度かうなずいていたが、
兵たちは再びざわついた。
そんな彼らを代表するように、ヒルトは声を絞り出す。
「…お前がアンジェか…
メルヘヴン・アンジェ」
「知ってんのかよ、ヒルト」
「…最近になって耳にした。
これほど若いとは思わなかったが…
“不殺の天使”と呼ばれる凄腕らしい、と聞いている」
「何だァ、その気取った響きの二つ名は」
響きだけを聞けばそう感じる。
が、肌も髪も清美なる白という端麗な姿を目にすれば、
天使という表現をしたくなるのは理解できた。
「由来までは知らん。
天使さんよ、どういう命を受けているのかはわからんが
ウォルケンは俺の旧知だ、黙って見ているわけにはいかない。
レッドハンドが来ている以上穏便にとはいきそうにないが
この状況ではどうにもなるまい、
俺たちもウォルケンもお前さんも
ひとまずみんな仲良くマイラルへ行くっていうのはどうだ」
「断る」
「!?」
アンジェの答えを聞いた時には彼女の姿はそこにはなく、
背後に立っていた兵が三人くずおれるところだった。
「問答無用かよ!
しかし、いつ斬った!?」
剣に手をかけながら、ウォルケンは愕然とした。
少女とはいえ、悪名高いレッドハンドの一員が相手ならば
躊躇している暇はない。
それにしても、驚くべきはアンジェの身のこなしと剣腕である。
一瞬で背後の兵を倒し、自らを囲む警備隊の輪の外に出たようだ。
動きも、剣を抜く瞬間も、刃が疾ったのも
目で捉えることができなかった。
そう考えている間にも、左手側の兵たちが次々と倒れていく。
その恐るべき光景に警備隊に戦慄が走り、
心身共に剛健な彼らに恐怖が伝染していった。
ウォルケン自身も、瞬時に命の危険を感じたほどであった。
「ヒルト!
俺たちで…」
目を向けた先に、ヒルトの姿はない。
正確には、その場所ですでに地に伏していた。
指揮官を失った兵たちは数を恃んで一斉に斬りかかっていったが、
麗しき剣士は白い閃光が発されたように速く、軽やかに動き、
時には地面すれすれまで身を低くして駆け、
時には兵の頭よりも高く舞い上がり、
時には回転して白刃をかすらせることもなく
瞬く間に警備隊の半数以上を斬り伏せていった。
真っ白な髪をなびかせ、しなやかな肢体が躍動する様は、
恐ろしくも美しく、見る者を自らが窮地にあることを
忘れさせそうなほどに魅了した。
「ウォルケンさん、あれはいけねえ。
オレが足止めするから逃げてくれ」
「うるせえ!
この道二十年の戦士が、俺らの半分も生きてねえ娘っ子に
背中を見せられるか!」
ウォルケンはゼップに怒鳴ったが、
言葉どおりに考えているわけではない。
アンジェの迅疾さを見れば、近くに物陰もないこの場所では
逃げきれるとはとても思えなかったのである。
茂みの中からウォルケンと街道警備隊の様子を窺っていたジャカたちは、
何が起こっているのかすぐには理解できなかった。
突然警備隊の兵たちが続々と倒れ始めた、ように見えたのだった。
それが白い剣士の仕業であると気づいた時には、
警備隊は半数近くがやられていたのである。
ジャカは、思わず身を震わせた。
白い剣士のあまりの速さにだ。
動きを目で追うことができない。
映像を早回しで見ているように剣士は速く、目まぐるしく動いて
それが通り過ぎた後に兵たちが倒れた。
いかにウォルケンやゼップといえども、
あれほどまでの技と速さに対抗できるだろうか。
やられるのも時間の問題と思えた。
「ジャカ、ヴァッセ、ここを動くな!」
低く、鋭く言い置いて、グレイは茂みから飛び出した。
「冗談言うなって!
隠れてやり過ごして、俺たちは無事で良かったなんて言えるかってんだ」
即座に、ヴァッセも続いていく。
後には、固まったままのジャカだけが残った。
「…え?」
数秒してから、ジャカは油の切れた機械のような動きで
つい先程までヴァッセがいた方へと首を向けた。
まさか、彼がすぐさまグレイを追って行くとは
思っていなかったのである。
「…嘘だろ!?
兵士さんたちがあんな簡単にやられているのに
僕やヴァッセに何ができるんだよ!
僕も行った方がいいの?
一応行った方が後々いいのか!?
でも絶対無理だし!
絶対やられるし!」
ジャカは、迷った。
あんな化け物じみた相手の前に出て行ったところで、
自分など紙の盾ほどにも役に立たない。
が、家族同然のウォルケンたちを何とか助けたいという
気持ちもあるし、行かなければ一人残って
ルフィカの時のような悲劇を繰り返すことになるかもしれない。
だから、ジャカは迷った。
「どうすれば…
僕は、どうすれば…!」
その時。
彼の視界が青く光った気がした。
身体が熱くなったような気もした。
そして、目の前に文字が浮かんで見えた。
『とりあえず出て行け』と。
例の力が、発動したらしい。
「とりあえずって何だよ!
他人事だと思って、いい加減だな…
誰か知らないけど!」
言いながら、ジャカは茂みから出て走った。
勇気や義心からではない。
自分では決断できない彼が、誰かの意見を
撥ねのけることができなかっただけにすぎなかった。
「来るなら来ォォい!
ああっと、何の天使だっけ…
とにかく、かかって来いやぁー!」
「オレらの魂、見せてやるぜぇー!」
剣を構え、気合十分に叫ぶウォルケンとゼップ。
そんな二人を意に介さず、街道警備隊を壊滅させた
何とかの天使は違う方向を見ていた。
何を見ているのかとウォルケンも視線を巡らせてみると
グレイとヴァッセ、少し遅れてジャカまでが
こちらに向かって来ているのが目に入った。
「(あのバカども!)」
「…ウォルケンさん、変じゃないですか?」
一方のゼップは、辺りの地面を見回していた。
「何がだ!」
「倒れている連中、血が一滴も出ていませんよ」
「何!?」
言われてみれば、これだけの人数が斬られたのなら
血の海になっていなければおかしいが、
この場に血は全く流れていない。
「とにかく、このままじゃガキどももやられる!
いくぞ、ゼップ!」
「承知しました、ボス!」
呼吸を合わせて斬りかかろうとした二人であったが、
アンジェは剣を納めて純白の髪を翻し立ち去ってしまった。
気勢を殺がれたウォルケンとゼップが立ち尽くしていたところに
グレイとヴァッセがやって来て、最後にジャカが到着した。
「何だ何だ、一体どんな魔術を使ったんです?
あの剣の鬼みたいなのを追い返すとは」
「追い返したんじゃねえ、いきなり帰っちまったんだ」
グレイに答えながら、ウォルケンは倒れた者たちの
顔を覗き込んだり揺すったりして状態を確認した。
その結果、ヒルトも兵も皆生きていて、
気絶しているだけのようだということがわかった。
「なるほど…不殺の天使…だったっけか」
立ち上がってアンジェが去って行った方向を眺めながら、
ウォルケンはつぶやく。
彼女は、確かに剣で警備隊の面々を斬っていた。
しかし、彼らは死んでいないどころか傷ひとつなかったのである。
これは、技術云々の話ではあるまい。
ならば、メルヘヴン・アンジェという剣士は
一体いかなる力を持つのか。
そして、今後も自分たちを狙って来るのか。
そうだとすれば、これからの道程は極めて厳しいものとなるだろう。