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友達が恋人になった、ということを経験したことがない。
友達というものはどこまで行っても友達であって、恋人というものは別れてしまえばそこでお終いだ。求めているものが違うから、それらはナツの中で重ならない。
ではユキは?
あいつは、友達なのか?
友達、というにはよく分からない立ち位置だ。死んだ妻の弟。
確かに一緒にいることを苦痛に感じたことはない。時々、一緒にいると辛くなってくる人間というものが存在する。合わない、というやつだ。最初は適当に仲良くやっていても、なんだか少しずつズレてきて苦しくなる。お互いに、相手が悪いんじゃないかとイラだってくる。求めていた反応が違っていたり、察して欲しいことが察してもらえなかったり。友達だろ、と言いたくなってしまう、けれども相手にとって自分も同じことをしているんじゃないかとふと考えてしまうとつい言葉を飲み込んでしまい、ただ距離を置くようになる、そんな相手が。
「……スカート、」
似合わなさそうだなあいつ。
アパートの窓を開けたまま、鉄柵のついたベランダに足だけ伸ばしてビールを飲む。
日曜の午後。
十一月の雨が降りそうな灰色の雲の隙間に、場違いな青空が顔を覗かせている。なんだよそのちぐはぐさはよ、とナツは空に向かって文句を言う。
泣き笑いしてるみたいな顔の、空。
あれからユキの携帯はまた繋がらない。
ズレたんだろう。あいつにとっての俺は。ナツはそう考える。要らないって思われたんだったら、すがるなんてそんな男と女みたいな。そんなことは、しないし、格好悪いし、意味がないし。
女になるって。
どんなんだろうとナツは思う。
184センチの大女。恐ろしい。俺よりはるかに背が高い。10センチほど軽く。
やだな、とナツは笑う。
笑ったのに、声はかさついていて唇が切れそうに痛かった。
ユキは別に死んでないのに。
モモみたいに、死んだわけじゃないのに。
目の前からいなくなってしまうという。しかもモモと同じ病気なのだという。あいつは俺を恨んでいるだろうか。姉であるモモの最期に連絡もしなかった義兄を。桃の芳香を放ちながら腐ってゆく病気なのだと知っても、最期は顔を見たかっただろうか。モモが誰にも会いたがらなかったとしても、本当は会わせた方が良かったのだろうか。だって死んでしまえば、そこからはもう誰も手が届かない世界に行ってしまうのだから。
「――分かんねーよっ、」
飲み干してはいないビールの缶をベランダに投げる。
カコン、と軽い音がして、灰色にも見える泡が缶の口から洩れる。液体が広がる。灰色のコンクリートの上を。
俺がモモだったら?
俺がユキだったら?
考えても本当は分からない。だって違う人間だから。別々の魂だから。
もう会わない、と言われた。
たすけて、と言われた。
さあ、どうすればいい?
心は簡単に倒れる。折れる。昨日言っていたことと今日言うことが違うことなんて誰だってある。
「あーーーーーーーーーっ! もーーーーーーーーーーーっ!」
ナツはベランダから脚を引き上げると、頭をがしがしと掻きながら家具の上のモモの白い仏壇を開ける。
「なんなんだよ、モモ、俺どうすればいいわけ? 俺、ユキに告られて振られたわけ? なんなの、好きになられても困るだろうから二度と会わないとかってそれってなんな……の……うん?」
窓から風が入ってくる。
それはナツのほんのりと酔った赤い目尻、頬を撫で、首筋をくすぐる。
猫みたいに目を細めて、開け放っているベランダに目を向ける。もう薔薇の匂いはしないけれど、モモの愛したエントランスのそれはまだそこにちゃんとあるだろう。花こそ咲いていないものの、茶色くなった棘と枝はフェンスに絡まって、ここが自分の居場所だと威張っているようだろう。
ナツは冷蔵庫から黒いビールの缶を取り出してくる。
プルタブを引いたその手で、携帯をいじくる。呼び出した番号はコール音ばかりで案の定ちっとも繋がらなかったけれど、ナツは苛立ったりしなかった。
あんな最初から逃げ腰の告白なんて、格好悪い。
だったらもっとガツンとぶつかってこいよ。
一ヶ月近くもぐずぐずとしていただけの自分も格好悪いけれど。
唇の端を持ち上げて、ナツはここにいない男に笑いかける。
「ぶつかられたら、俺が逃げるかもしれないけど」
なあ、と声をかけたモモの写真は、いつもより笑って見える。
黒い自転車に乗ってナツは酔っ払ったまま日曜のけだるい日差しを走る。
これも飲酒運転だ。知っている。警察がいれば、すぐに捕まえられる。罰金か? 口頭注意か? よく分からないけどまあいいや、と機嫌良くナツは口笛を吹いた。
ミリーのマンションは昼間の光の中で見るとかなり大きなものに見えた。
どうせ奴はいないだろう。でもユキはいるはずだ。日曜は病院なんかやっていないし、あんな桃の匂いをさせてふらふらと遊び歩く奴じゃない。
オートロックじゃなくて助かった。入口の管理人室には茶色いカーテンが分厚くかかっている。夜間と土日は休みなんだろう、きっとそんな感じだ。
ミリーの部屋はどこだかよく分からなかったが、七階建てなので全部玄関先でも見てやればどうにかなるだろうと思っていたら、案外身体が覚えていた。四階か五階かでエレベーターのボタンを押す指が迷ったが、5の数字を選ぶ。角部屋ではなかった記憶がある。そう狭くはない、ベランダのような作りの通路を歩きながら、嵐の日とかは濡れるんじゃないのか、とどうでもいいことを思った。
ミリーの玄関は笑ってしまうほどショッキングピンクで。
他の部屋のドアは茶色い落ち着いたものだったのに、まさかの金斑を纏ったショッキングピンクに塗られていてナツは思わず笑う。桃色のひょう柄だ。この前はまったく気付かなかった。
「ミリー、」
玄関のチャイムを鳴らしてみる。
誰も出てこない。
「ユキー、」
ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
ぴんぽんぴぴぴぴぴぴぴんぴぴぴぴぴんぽん―――――――
「おらっ、出てこいっつの、ユキ! てめぇ出てきやがれ!」
チャイムは途中で指先がだるくなったので、ナツは拳を握って玄関のドアをばんばんと叩きはじめた。借金取りのような勢いでだ。ご近所さんに迷惑、というのを全く考えず、「出てこーい!」「蹴破んぞ!」と怒鳴りまくっていると、やがて鍵の回される音がして小さくドアが開けられた。
「し、信じらんない人だ……」
「よーう、ユキ。お前俺の電話無視すんのもいい加減にしろよ?」
微かな隙間から、彼の細い目が覗いている。困ったような顔をしているし、実際困っているんだろう。チェーンロックは外されていなかった。桃の香りは、確かにそこからこぼれていた。
「具合は?」
「え、あ……ああ、まあ……」
「開けてくれよ」
「……なんでだよ」
「俺、客だもん」
手土産のひとつも持ってないけど! とナツは目をつり上げてにんまりと笑う。
「……会いたくないっ、て、」
「そりゃお前の都合だろ? 俺は別に会いたくなくねーもん」
「ナツちゃん、」
「お前さ、俺が人の言うこと素直に聞くと思ってる?」
思ってない、と即答されて、苦笑より先に「だろう?」の言葉が出た。
「だから、開けて」
「ミリーちゃん、いないから」
「あいつは俺のこと好きだから大丈夫」
「なにが大丈夫なんだよ」
小さく笑った気配がして、少ししてからキーチェーンの外される音がした。ジャラン、カシャン。そして扉は先ほどより大きく開かれる。
「髪」
「うん?」
「また伸びたな」
「ああ……うん」
「切ってない?」
「切ってたら伸びてないだろ」
ナツちゃん適当にしゃべってんだから、と笑われる。
何年も会わなかったわけじゃないのに、ユキは以前と違う表情をしていることに、ナツはすぐ気付いた。顎の辺りが丸みを帯びている。すらりとした喉に、前より喉仏が目立たなくなっている。
顔つきが温和になっている。
角が取れて、それはまだ存在はしているのだけれど、出っ張りは丸みを帯びている、というような。ごつごつとした骨っぽさがなくなっている。それが不思議で、ついナツは口を軽く開いたままユキの顔を見つめた。
「なんだよ、入るなら入れば?」
「……お前ん家みたい」
「ははは、そうだな、ミリーちゃん家だもんな」
相変わらずの真っ赤な色をした毛足の長い絨毯やらどピンクの靴入れやら、確かにミリーをゴージャスには飾り立ててよく似合う空間なのだろうけど、ユキには似合っていない。
似合っていない。
「ナツちゃん?」
「ユキ、帰ろうぜ」
「……どこに」
群青色のシャツを着て、ブラックのタイトなジーンズを履いていて。やわらかなイメージを纏ったといえ、甘ったるい桃の香りを振りまいているとはいえ、相手はユキで、男で、相変わらずの長身で、涼しい目をしてナツを見ていて。
「帰ろうぜ」
ユキの質問には答えないまま、ナツは開け放たれた玄関へは入ろうとせず、ただ右腕を伸ばす。
ユキはなんの表情もない顔でナツの目を見て、そしてその伸ばされた手に視線を落とした。ゆっくりと。
「お前にここ、似合わないと思う」
ミリーには世話になったかもしれないけど。
伏せられた目を見ていた。まつ毛の揃った目は、まっすぐ見つめた時よりも幼くなくなる。
「……俺んとこ、帰ろうぜ」
「……ナツちゃんとこなんて、最初から、」
「そりゃ居ついたことはないけどさ、お前。でもあれだ、ほら、モモも歓迎するから」
「しねーよ」
「するよ」
「しないって」
「するさ」
「あのさ、ナツちゃん。俺はもうあんたに、」
「ドア開けといて、今更『二度と会わないって言ったはず』とか言うなよ?」
上げられようとしていた視線がまた落ちる。ナツは差し出した右手を下ろすことができず、ん、と言ってユキの前で小さく振って見せる。
「帰るぞ」
「オレは、」
「俺、その腐敗桃化症の人間と一緒にいるの、二回目なんだ。最初より、もっとなんかしてやれると思う」
「ナツちゃん……」
「お前、女になんだろ?」
「……気持ち悪いだろう」
「よく分かんねーよ、気持ち悪いとか気持ち悪くないとか、この目で見て見なきゃさ」
「オレは、ナツちゃんが好きなんだよ?」
それはキスしたいとか、抱かれたいとか、抱きたいとか、そういう純粋な欲望を伴うものなのだろうか。聞いてみなければ分からない。聞いてもユキが正直に答えるかは分からない。
「女になるんなら、子宮も生える?」
「し、子宮? それって、生えるもん、なのか……? いや、そんなことは……知らない、けど」
ふうん、とナツは鼻から抜けるような声を出した。それでようやく、ユキが顔を上げる。視線が、ぶつかる。
「俺、男とか抱いたことないし」
「は? ……はあ?」
「お前もあれだろ、その、身体が女になってきててさ、なんかよく分かんなくなってんだろ。でさ、俺はほら、モモのアレだったわけでさ。多分女初心者っていうかなりかかりのお前には一番とっかかりやすい男って言うかさ、」
「モモちゃんのアレってなんだよ、旦那とか夫とか伴侶とか言えよせめて」
ユキが唇の片側で笑う。
「酔ってんだろ、ナツちゃん」
「うん」
「そういう返事だけ素直なのな」
「でもチャリで来た」
「自転車?」
「うん」
飲酒運転になるぞそれ、とユキが心配そうな顔で言う。うん、とナツが頷く。
伸ばしたままの手が少しずつ痺れたようになる。それでもこの腕を自分から下ろすなんて格好悪いことをしたくなかった、から、ナツは一歩近付いてユキの手首をガッと掴んだ。
驚いた相手の身体が一瞬跳ねる。
逃げようとするように引かれるから、力を込める。
ふわりと、香る。
瑞々しい、果実の香り。
それは実際のところ、ナツにいい感情だけを与えるということはない。モモのことを思わせるから。助けてあげられなかった、愛しい人。お前は何をしていたんだ、と責められているような気がして。
「酔っ払いだからさ、帰りはユキが運転して」
「ナツちゃんはどうすんのさ」
「俺? 後ろ。二ケツして帰ればいいじゃん」
「ふたり乗りも罰金対象だって」
「え、子供とかよく母親の後ろに乗ってんじゃん」
「あれは別だって」
ナツちゃん無茶苦茶だな。ユキが逃げようとする手の力を抜いた。ああもう、と長いため息を吐かれる。
「ナツちゃん、なにも考えてないだろ」
「うん?」
「オレの不安とか、なんにも考えてないだろ」
「俺、ユキじゃないから、お前の不安なんて分かんねーよ。でもさ、えーっと。上手く言えないけど。不安っていうのを自分だけで全部抱えてるよりはさ、そういうのを誰かに聞いてもらえたりするのが、いいんじゃないかって、いうか、えっと、」
「オレの不安をナツちゃんが聞いてくれるよ、ってこと?」
「うん」
「だから帰ろうって?」
「うん。帰るだろ?」
「オレ、多分一生治んない病気だし、ナツちゃんはオレといるとモモちゃんのことずっと思い出してなきゃなんなくなるかもよ?」
だったらそんなのは初めからだ。
いいよ別に、とナツは、今はそう思う。
未来のことなんて誰も知らない。分からない。占い師だろうが預言者だろうが、本当はそんなのみんな嘘っぱちで有り得そうなことを口にしているから、どこかしら当たったところだけ取り出して周りが騒ぐだけだ。
未来は白い。
なにもない。
それは哀しいことではなくて、色をつけていくということなだけ。
未来は真っ白だから、今を精一杯転げまわって身体に色を移して、まだ誰も見たことのないところへぶっ飛んで行くだけ。
「お前さ、子宮生えたら、子供とか産めばいいよ」
「――はあ?」
「俺、モモと子供作んなかったの後悔してるからな。ああ、楽しみだな、ユキに子宮が生えんの! な、もういいじゃん、お前子供産め、子供!」
「子宮は……生えるもんじゃないと思うし……そんなの無理だろう、っていうか、ナツちゃん無茶苦茶言いすぎだろ……」
病気なのはオレなのに、ユキがそう言って怒るでもなく苦笑するでもなく笑った。
「ナツちゃんの子供でも孕むのかよ、オレ」
「……俺、男抱いたことないな……」
「抱いてたことがあってたまるか、あーもうなんでナツちゃんそんなに無茶苦茶なんだよ、変な人だな、本当に。あのな、ホルモンバランスがどうのとかで肉体が女性化しても、まさか子宮なんか生えてこないだろ」
そんなん分かんねーじゃん、とナツが唇を尖らす。
ああ。
なんだか滅茶苦茶で。
哀しいとか淋しいとか苦しいとか、切ないとか痛いとか、そういうのよりはただ笑っているだけの時がほんの少しでも多ければいい。
「お前はうちに来い、な? 俺の家族みんなお前好きだし、いいじゃん、モモも喜ぶし」
「そんな簡単なことじゃないだろ」
何かにぶつかったり困ったときは、その時に悩んで考えればいい。
先回りして苦しくなって進めないのは、もう嫌だ。判断を間違えたのではないかと後で後悔するよりは、失くす前のものと少しでも長い時間を共有したい。
それだけ。
「簡単なことだよ」
ナツはユキの腕を引く。靴も履いていないユキは、よろけるようにして玄関から踏み出す。
握っていた腕を離すと、ナツはポケットに入れていた自転車の鍵をユキに渡した。帰ろうぜ、ともう一度言う。俺を後ろに乗っけてさ、と。
「病人に自転車漕がせんのかよ」
「あ、ビール冷えてるぜ、うちの冷蔵庫」
「ビールしかないじゃんか、ナツちゃんの家」
うん、と悪びれずもせず頷くナツに、ユキが笑う。
「後で後悔するかもよ」
「しねーよ、俺は占いとか予言とか信じないんだ」
「ナツちゃんらしい」
「あのな、未来っつのは誰の手垢もついてないんだ、だから未来なんだよ」
似合わない言葉を吐いた自覚があったので、ナツは照れて背を向ける。ジーンズのポケットに両手を突っ込んで、ほら行くぞ、と声だけかける。
振り向かなくても、ユキがついてくるだろうことは分かっている。確信している。だって、笑っているから。ナツちゃんは仕方ないな、と諦めと許容を混ぜたような顔で。
「なんにも考えてないんだな」
「おう」
「……それがナツちゃんのいいところなんだな」
「褒めんな、照れるから」
チャリ、と自転車の鍵が鳴らされるのをナツは聞いた。
鍵閉めてくからちょっと待っててよ、とユキが言うので、ようやく振り返る。
「帰りにビール買ってこうぜ」
「家にビールあるって言ってたじゃん」
「あるけどさ、もっと飲むだろ?」
「もっと、って、元々どんくらい入ってるか知らねって」
「五本くらい」
「……足りないな」
「だろう?」
くつくつと互いに笑い出して、ああそうだこれだ、と思う。
ユキに「もう二度と会わない」と言われたときに、自分がどれだけ捨てられた犬の気分に同調したのかを飲みながら話してやろう。あんなに淋しい気分にさせるのは、お前達姉弟だけだよと嘆いてみせよう。
未来のことなんか分からない。
明日のことなんて知らない。
でも「昨日」や「今日」が続いていくものなのだったら、そんなに悪くはないはずだ。
「早くしろよー」
一旦部屋の中に姿を消したユキに声をかける。大丈夫、玄関は開いたままだ。出てこないことなんて、ない。
日本酒もだな、とナツは思いながら、空の広がる通路の手すりに手をかけた。秋の空はやわらかな雲を纏ってどこまでも透き通り、そこにある。桃の香りが漂う。悪いことばかりじゃないんだ、とナツは心の中でつぶやく。
悪いことばかりではない。
少なくとも、桃の香りがしたらユキがいるってことだ。
小さく笑うとナツは空へ向かって手を伸ばした。
日曜の甘く懐かしいような空気の中で、どこからか子供の笑い声がする。
了
長々とお付き合い、ありがとうございました。
ナツ、ユキには多少モデルがいたりしますが、タイトルで察した方は
こっそり笑っていただけると嬉しいです。
「ハローベイビー」、本当に言いたいことはそれに続く、「お前の未来を愛してる」でした。