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 ユキと連絡が取れなくなってしまったまま、十月に入った。

 携帯は繋がらない。

 呼び出し音が鳴るだけのときと、電波が悪くて繋がりませんのアナウンスが流れるときと。

 そういえばナツはユキがどこに住んでいるのかも知らない。まだ隣の県の実家にいるのか、それとも別のところに住んでいるのか、それすら知らなかった。

 こんな時に限ってミリーもつかまらない。

「ナツ、おばさんからまたお見合いの話がきてるけど、」

「ああもう、うるせぇ、あのババアぶっ殺すぞ!」

「あんたえらい機嫌悪いわね」

 不機嫌なことは重なるもので、最近父方の伯母がお見合いお見合いとうるさい。後継ぎがいないと自分の実家が絶えてしまうと騒いでいるらしい。だったらお前の家の馬鹿娘でも婿取らせてこっちに養子にでも入れてやれ、と思わないでもないが、そうするとそれはそれでまた面倒なことになりそうで途中から考えるのが嫌になる。

「俺は結婚なんかしない」

「お母さんだって、お嫁さんはモモちゃんひとりで充分よ。そりゃあ、贅沢を言えば孫の顔が見たくなかったとは言わないけど、でもねぇ」

「後継ぎが欲しくて俺を再婚させんなら、どっかから養子でも貰ってこいよ……」

 父や祖父はナツに再婚しろなんて言わないし、後継ぎがどうのとも言わない。その代わり、娘であり姉である伯母の見合い攻撃を止めてくれることもしない。

「断っときたいけど……」

 母が言い淀んだ。

 ナツは知らなかったが、モモが亡くなった次の月からもう伯母は見合い話を持ってきていたらしい。男なんてぼやぼやしてるとあっという間に四十になって相手が見つからなくなるのよ、と、最近ますます見合い攻撃は激しい。

「お父さんもおじいちゃんも、みどりさんになんにも言ってくれないから、結局お母さんが断ることになるのよねぇ。でもさ、ほら、みどりさんって、」

「意地悪ババア」

「あんた、そんな率直にもの言うもんじゃないわよ。でも、……そうなのよねぇ」

 伯母は何を根拠になのか、どうも自分はいい女だと勘違いしてるのかそこそこ金のある男と結婚したためなのか、やたらとツンケンしていていけ好かない。

 なにかあるとすぐに自分の娘達とナツを比べたがる。もちろん、娘を持ち上げるためだ。

「多分あの人、お母さんのことが嫌いなんだと思うのよね。っていうか、嫌いなのよね。だから、お見合いって単にその嫌いな女から生まれたあんたに対する嫌がらせなんじゃないかと思うのよね」

「おいおいおい、なに分析してんだよ。あのおばはん、お袋のこと嫌いなわけ?」

「あの人、おばあちゃんと仲悪いじゃない。実の親子なのにね。で、お母さんはおばあちゃんに可愛がられてるじゃない。嫁姑なのに。どうもそれがものすっごく気に入らないみたいなのよね」

「バカくせー」

「女ってそんなもんなのよ」

「面倒くせー」

 年と職業の割に細い体型の母は、苦笑するようにため息を吐く。どっと老けたように見えた。ナツの細さは母親譲りだ。食べても食べても太らない。

「まあ、どうにか断っとくからおじいちゃん病院に連れてってくれない?」

「じいちゃんどうした?」

「ただの血圧の薬もらいに行くだけよ。でもひとりで行かせると、行ったって嘘ついて逃げちゃうから」

「子供だな」

「あんたのおじいちゃんだもの」

 なにも言えなくなってナツは口をつむぐ。

 ナツは自分の車を所有していない。前は持っていたけれど、結婚してから燃費とガソリン代を考えて軽自動車に変えて、そしてほとんど運転はモモがした。別に金ばかりかかる外人モデルのように見た目だけはゴージャスで完璧なアメ車じゃなきゃ嫌だとか、そういうことを言うつもりはなかったけれど、モモは「ナツちゃんに軽自動車って似合わないねぇ」と笑った。モモが亡くなってから、車は売ってしまった。思い出がありすぎて、切なくて。

 店のバンで祖父を病院まで送る。

 ひとりで行けるのに、とブツブツ言う祖父は、茶道の先生から茶会の菓子を頼まれていることを話し出す。ふうん、と聞きながら、ナツはハンドルを握っている。

 三時からの診察。

 仕事中、学業中の人間が多いだろうに、道路は妙に混んでいる。信号機の緑。黄色。赤。ベビーカーを押す若い母親。携帯をいじりながらフラついて走る自転車。杖の年寄り、押し車の老婆。

 いつもの光景。

 いつもの風景。

 信号が青に変わって、ナツはアクセルに右足を乗せ換える。

「――タバコ吸いてぇ」

 そんな気はさらさらないのに、そう口にしてみる。

 自分の声は乾いてざらついている。


 嫌なニュースは夜に紛れてこそっとやってくる。

 音もなく忍び寄るように気がつけば背後にべったりと張り付いているくせに、うっかりしていると胸に裂いたような爪痕をつけて行ったりする。

「ナツー」

 グローは今日も混んでいた。ナツはギネスを飲んでいた。ここに来るとそればかりだ。

「聞いたわよー、あんたお見合いしてたってー?」

 ぶほっ、と思わずむせて気管の方にビールの泡が入る。みぞおちを押さえて痛がるナツの前に、ミリーが立った。

「なっ、」

「駅前のプリズムホテル。お相手さん、気合い入れてピンクの振袖着てたのに、ナツってば真っ黒いスーツにどピンクのシャツ着て、真っ赤なネクタイしめてたって? どこのバンドマン崩れかと思ったって」

 どうせあんたのことだから、モッズ系の細いスーツ着てたんでしょう、とミリーがにやつく。

「仲人のおばはんがキーキー怒ってたけど、ナツってばポケットに手突っ込んで、反抗期の若僧みたいだったってね。でも相手の娘さん、格好良いって目をハートにしてたらしいじゃないの」

「ど、どうしてそれを、」

「あたし、顔広いもん」

「い、居たのか?」

「やだ珍しく動揺してるー。きゃはははー、笑える、ナツのその顔!」

 蛍光ピンクのストレートなロングヘアは指通りが恐ろしく良さそうだ。

 黒い革のボンテージワンピースを着ている。どこにいても目立つおかまだ。

「見たのは別の子。でもあたしの耳にはがっつり入ってきちゃってる」

「なんだよミリーのフットワーク」

「……ネットワーク、って言いたい?」

「なんでもいい」

 なんでも良くないわよ、とミリーがナツのビールを取り上げた。

 見合い、は、した。

 例のうるさいみどりという名の伯母が、それはそれはものすごい勢いで見合い話を持ってくるので、断り続けていた母が疲れてしまって「あんた直接あのおばさんに会って『うるせぇババア』って言ってやんなさい」と言った。驚いたナツが思わず頷くと、その返事がどこでどう捻じ曲げられたのか、なぜか見合いがセッティングされていた。それが先週の日曜日。

 うんざり顔の母親と、同じくうんざりしたナツでお見合いとはとても思えないような格好をして渋々出向くと、相手は意外にも二十五、六の素直そうなお嬢さんだった。

 釣書どころか写真すら見ていなかったナツは、相手が可愛らしい顔をしていることに「見合いもブスばっかってんじゃねーんだな」と失礼な感想を漏らしたが、相手はにこにこしていた。母親の実家が和菓子屋だったらしい。料理やお菓子を作るのが好きです、とこれまた可愛らしいピンク色の振袖を着た彼女は控えめに言った。

 もっとブスが来ていれば良かったのに。

 そしたら、ふざけんな、と吐き捨てて帰れたのに。

 これではこちらがいい年をして悪ぶっているだけの、いつまで経っても子供気分の抜けない身体だけ大人になった情けない人間みたいだ。

 情けないのも、子供のままなのも、間違ってはいないが。

「で、どうなったのよ、お見合い」

「知らん」

「知らん、って、他人事みたいに」

 母親が断った、と思う。うちの息子は先妻を失くしてから随分ぐれてしまって、まだ傷心のままなようなので、そちらは本当にいい娘さんだと思からうちの息子にはもったいない、もっといいご縁があるはずですので、などと言って。 

 当然のようにみどり伯母は目をつり上げて烈火の如く怒り出した。それをナツの母親が指差し、「こんな人と遠いとはいえ血縁になってしまうのも、お勧めしませんよ」と言ったので、ナツは盛大に吹き出してきた。

 このまま叔母とは縁が切れてしまうかもしれないが、むしろその方がありがたい。

「結構可愛い子だったって聞いたけど?」

「可愛かったよ」

「あらま珍しい、素直じゃないの」

「でもそれだけだし」

「興味は湧かなかった?」

「うちの親が断ってた」

「えー、なに、気に入らないって? うちの息子にあんたなんかもったいないって?」

 違うよ、と苦笑いしながらナツはカウンターに向かう。ギネスハーフパイントで、と注文して小銭をじゃらりと出した。数えられて余った分と黒いビールで満たされたグラスが渡される。

「やだ、あたし全部飲むつもりはなかったのに」

「いいよ、やるよ」

「うふふ、間接キス」

「やめろ、おかま」

「おかまって言わないでよ、失礼な」

「やめろ、陸男」

「あんた、ぶん殴るわよ」

 店内はオレンジ色っぽい照明が数多くあり、明るい。カントリーっぽいジャズが流れている。人々が好きなように飲んで、食べて、笑っている。

「そういえば、ユキ知らねぇ?」

「ユキちゃん? どうしたの?」

 電話が繋がらない、連絡が取れない、どこにいるか分からない、と言うと、ミリーは眉を下げて可哀想なものを見る目になった。

「ねぇ、ナツはユキちゃんが今どこに住んでるのか、知ってる?」

「知らない」

「呑気にお見合いなんかしてるくらいだもんねぇ」

 ミリーの言葉にカチンときて、なんだよそれ、と答える声が尖る。

「ユキちゃん、具合悪くしてるのに」

「……え、」

 すぐに脳裏へ甦るのはあの夜の電話。

 あの夜の声。

「……具合?」

 深い水のような淋しい声。

 あれは夜のせいではなかった、ひっそりと電話の向こうで笑ったのが分かった、具合が悪いのかと聞いたのに、奴はごめんとだけ言って通話を終えてしまった。

 具合が。

 悪い?

「……なんだよ」

 だってそんなことひと言も口にしなかった、ユキは。言わなかった、自分は気付いて問いかけたのに誤魔化された、どうして。なんで。

「……風邪、とかじゃ、ないだろ」

 耳障りな周囲の笑い声。ふたりの周りだけ透明のガラスに仕切られて囲まれてしまったような静けさが落ちる、だからこそやたらと耳に大きく響く、流されているジャズだとかが。障る。心に。

 ミリーが小さく頷いた。

 なんだよ、とナツが小さくつぶやく。

「具合悪いって、」

「会いたくないって」

「なっ……」

「ナツちゃんに、会いたくないから内緒にしといてって本当はユキちゃん言ってた」

「なんで、」

「ナツがユキちゃんのこと、聞かないんだったら言わないでおこうと思ったの。でも口にしたから教えてあげる」

「なにを、」

「だから、ユキちゃんが具合悪いってこと」

「で?」

「で、ってなによ」

「あいつ、どこにいるんだ?」

「それは内緒」

「教えろ」

「ダメよ」

「言え」

「ダメよ、だって約束したんだから。教えられないわ」

「言えよ」

「嫌よ、まあキスでもしてくれるってんなら考えてあげても――」

いいけど、のミリーの言葉は喉に引っかかったまま出てくることはなかった。

テーブルを挟んで向こう側のミリーに手を伸ばし、胸倉を掴み上げる。そのま

ま引っ張る。引きずるようにして自分は顔を寄せた。胸にはほんの一瞬モモが

横切ったが、それはカウントしないでおいてあげる、と笑った気がしたのでそ

のまま無視した。

唇。

ためらえば動けなくなるから、衝動に任せた。

噛み付くつもりで口を開く。

狙う。

ぶつけて、舌でこじ開ける。

どこかで口笛が吹かれた。

唇は同性でも異性でも変わらない。舌先に感じるのはビールの苦み。目を閉じてしまえば何かに負けた気分になるから、しっかりと開けたままでいる。

 唇の端でにやりと笑う。

 こんなのは簡単なことだ。

 唇を放す瞬間に上唇を軽く舐めてやった、ミリーの身体からは面白いほどきれいに力が抜ける。

 誰とするのでも同じだと思っていたキス。

 モモが亡くなってからは、もう誰ともしないと思っていたそれ。

 まさかミリーとすることになるとは、とナツはこっそり苦笑する。その顔のまま、目を細めてミリーを見た。

「してやったぜ?」

「――ふ、不意打ちとは、」

「いちいち断ってからするもんじゃねーだろ」

 そんな、ダサいこと。

 はじめて彼女ができた童貞でもあるまいし。

「あーん、するならするって言ってよ! いやん、もう、もう一回! 驚いてるだけでちっとも楽しめなかったから、もう一回!」

「やだよ、なんでおかまと何度もキスしなきゃなんねーんだ」

「おーねーがーいー!」

「ユキはどこだ?」

「ちぇっ。……なんでそんなにユキちゃんが気になるのよぅ、モモちゃんの弟だから?」

「具合が悪いんだろう?」

 桃の香りが。

 桃の香りがした。

 あの日。ナツのアパートで、モモに線香をあげに来たユキの首筋から。それは間違いだと思っていた、だってモモは言っていたはずだから。女ばかりがかかる病気だから、ナツちゃんとの男の子を産めばきっと大丈夫、と。

 でも確かにユキの首筋から、あの熟れた果実の香りはしたのだ。

 気のせいだと思っていた、気のせいだと思いたかった、けれど。

 まさか。

 ユキまでが、あの病気に?

「ナツ? あんた、顔真っ青……」

 ミリーの声に心配の色が混ざる。あたしとキスしたせい? と恐る恐る聞くので、苦笑しながら頷いてやる。

「まさか、酔った?」

「まさ、か」

「そうよね、でもちょっと、顔が……」

「格好いい?」

「バカ。なんかどんどん、白くなってくけど、」

 血の気が引いて行くのが自分で分かる。貧血とはこういう状態のことなんだろうか。

 ユキが?

 腐敗桃化症?

 まさか。

 あの忌々しい、治療法のろくにない病気の名前がすぐに浮かぶ。

 ナツの頭で様々な映像がフラッシュバックする。醜くむくんだ白い肌、ぶよぶよと黒ずむ腕、脚。

 人間の皮を傷ひとつ付けずに一枚べろりとつなぎの服でも脱ぐように剥いで、そこに泥水をパンパンに詰め込んだような異様さ。世界で一番可愛くて大切だったものが、見たことのないおぞましいものに変化していく恐怖。

 指、肘、膝、すべての関節は曲がらなくなって膨れ上がって、それなのに香るのだ。恐ろしく瑞々しい、甘く誘うような果実の香りが。全身から。髪の一本一本、足の爪先まで、余すところなく。香る。

「ナツ!」

 膝の力が不意に抜けた。床に崩れ落ちそうになって、ナツは咄嗟にテーブルへ腕を乗せる。

「……ユキは、」

「連れてくから!」

「あいつ、どこに?」

 うちにいるわ、とミリーが悲鳴のように叫んだ、ナツは自分の顔がきっと幽霊のように真っ白なのだということを、鏡など見なくてもちゃんと分かっていた。


 ピンクと金色のひょう柄カーテン。

 金色のベッドカバーがかけられたその上には、どこのお姫さまのものかと思うような真っ白いレースの天蓋。淡いピンク色の壁紙。

 真っ白、真っ赤、もしくは真っピンクの家具達。

「……すげぇ」

 玄関に入った瞬間から目はチカチカしていた。蛍光ピンクの靴箱に、廊下は真っ赤な絨毯が敷かれていたからだ。毛足の長いふかふかとしたもので、ピンクと白のゼブラ柄のボアスリッパが用意されているのが少しだけもったいなく感じた。

「ラブホテルみてぇ……痛てっ!」

 後頭部をミリーからスパンッと叩かれる。

「あんた、失礼な!」

「だ、だって、すごくねぇ? 俺、目が痛いんだけど」

「可愛いじゃないの、素敵じゃないの、ハイセンスじゃないの!」

 クレヨンで煮込んだようなきつい色合いのテディベアが置かれている。ひとつやふたつではなく、それは大小様々な大きさで増殖でもしているかのようにごっそりといる。

「……ユキはどこだよ」

「客間」

「客間ぁ?」

 ミリーが先に立ってピンクの部屋を抜けた。どんな造りなんだ、とついて行きながら、ナツは転がっていたテディを何気なく拾った。

『千年ノ眠リカラ目覚メサセルノハ誰ダー!』

「うわっ、わわっ、なんだよこれ!」

 ぬいぐるみは低い声で唸るので、慌てて手を離す。ごとん、と鈍い音を立てて、それは絨毯の上に落ちた。

「ちょっと、もう、いろいろ触んないでよ!」

「……俺、この部屋でセックスしろって言われたら、勃たないと思う」

「あら、そんなことないわよー。あたしのテクニックを見くびってもらっちゃ困るわよ。って、ユキちゃん? いる? ごめん、約束破っちゃった」

 白い扉が現れる。ミリーは軽くノックすると、金色の華奢な取っ手を引いた。

 寒い。

「ユキちゃん?」

 冷たい空気が流れ込んでくる。

 ミリーの背後から覗き込んだその部屋は、暗かった。

「……ユキ?」

 そして、冷たい空気と共に流れ込んでくるのは、やはりあの果実の香りで。

「……ナツちゃん?」

 ナツの、自分の口から出たとは思えないほど干からびてか細い声に、暗闇の中でゆっくりと時間をかけてから応答する声が聞こえた。やわらかく、静かな声。けれど、あれはユキの声なのか。改めて問われると自信がなくなる。

「……どうして、」

「ユキ、お前……」

 いろいろと聞きたいことはあったはずなのに、頭の中は真っ白だった。言葉は宇宙の彼方にでも吹き飛んでしまったかのように、ナツの中に残っていない。

「うわぁ、なんなの、あんた達。ケンカでもしたっていうの? なんなのなんなの、この空気。あー、あたしこういう重たーいの本気でダメ、ちょっとふたりきりにしてあげるから、話とかケンカとかがあるんなら静かにふたりでやって、ね? ちょっと飲み直してくるから、はい、これ鍵」

 ミリーが嫌そうな口調で言うと、ナツの手にじゃらじゃらとキーホルダーのついた家鍵を握らせる。

 とん、と背中を押された。

 暗い部屋に、ナツはよろけるようにして踏み込む。

「……ユキ、」

「……こないで、くれよ」

 弱々しい声だった。

 いつものユキの声と違う気がする。具合が悪いからだろうか。同じ猫だったとしても、成猫と子猫の違い、というか。

「嫌だ」

 ナツは言いながら一歩近付く。本当は怖かったけれど、平気な振りをした。暗闇に慣れない目が、ユキの姿を捉えられない。

 嫌だ、って言うかな。ユキが低く笑う。呆れたような、面白がるような色で。

「……お前、あれだろう」

「あれって、なんだよ」

「……病気」

「ナツちゃん」

「……なんだ」

「モモちゃんは、本当は心筋梗塞でなんか死んだんじゃないんだろう」

 ナツは声を出さずに小さく頷いた。ユキに見えたかどうかは分からない。ただ、どうやらベッドの上にいるらしいユキが微かに動いた。

「電気、どこだよ」

「つけないでくれよ」

「……ユキ、お前モモと同じ病気か」

「……やっぱり、」

 腐敗桃化症。

 桃の香りを放ちながら、日々朽ちていく、あの忌々しい病。

「モモちゃん、発症してからどれぐらい持った?」

「……一年、」

「じゃあ長生きした方だ。女にしては」

「あの病気は女しかかからないんじゃなかったのか? モモはそう言ってた、どうしてお前がかかるんだよ、お前女だったのかよ」

「こんなでっけー女がいてたまるかよ」

 ユキが吹き出すように笑ったので、ナツはほんの少しだけ安心する。けれどすぐに、安心なんかしていられないことに気付いた。あの病なら、治療法がないのだ。そして、どうして男であるユキがかかるのか。

「なんでお前がそんな病気になってんだよ!」

「怒鳴るなよ、なりたくて病気になる奴なんていないだろ」

「……なんで、モモも同じだったって思ったんだ」

「ナツちゃんがナツちゃん以外の誰も呼ばないでモモちゃんを焼いたから。オレがモモちゃんなら、あのぶよぶよとした醜い姿をできるだけ誰にも見せたくないと思う」

 そうだ、腐敗桃化症で死んだのはモモだけではなく、彼女の母親もそうだった。他にもいたはずだ。ユキがその死体を見ていないわけがない。

「でも、お前は男だろ?」

「乳がんだって、かかるのはほとんどが女だけど男がかからないってものじゃない」

「お前……死ぬの……?」

 ナツの頭に、色とりどりの記憶が流れる。モモの笑った顔や怒った顔、ユキの酔わないつるりとした白い横顔、灰皿代わりにされたビール缶、まっすぐにのぼる線香の煙。セミの声、梅雨の時期に咲き乱れるエントランスの薔薇の花達、いつも家にあったナシやリンゴやグレープフルーツ。そういえば南国フルーツ嫌いとか言ってたけど、あいつパイナップルは好きで食ってたな、と思ったとき、頬に涙は伝って落ちた。

「……ユキも、死ぬの?」

「……ナツちゃん?」

「俺のこと、みんなして置いてくの……?」

 子供のような声だった。

 迷子になって途方に暮れた、心細くてたまらない声。

「ナツちゃん……?」

「嫌だ……」

 視界が潤む、鼻の奥がつんと熱くなる。ははは俺なに泣いてんだよおい、と笑っているナツが身の内に小さくいないわけではないが、それは子供みたいに哀しさで全身が浸されてしまったナツの耳には届いてもどうしようもなかった。

 ギシリとベッドが軋む。

 黒い闇が立ち上がり、近付いてくる。

「……泣いてんの?」

「ユキ……俺、お前まで失くすの……?」

「ナツちゃん、」

 空気が薄い。それは桃の香りに侵されて毒のようになっている。

 ナツは口を開いて喘ぐように呼吸する。

 涙はあとからあとからこぼれる。拭いもせず、ナツはただ心にぽっかりと穴を開け、それがじわじわと広がっていくのを感じていることしかできない。

「泣くなよ、」

 暗い部屋の中でユキが近付く。気配を感じる、姿ははっきりと見ることができなくても。

「泣いてなんかねーよ」

「嘘つくな」

「そんな病気になんかなってんじゃねーよ」

「……無茶言うなよ、ナツちゃん」

 噛み殺した声に笑いが含まれている。泣きながら、そういえばモモも最期まで笑っていた。思い出して、もう止まらない。

「お前までそんな病気になってんじゃねーよ!」

「無茶苦茶言うなって、」

「死んだりしたら死んでも許さねーぞ!」

「子供の脅し文句だよ、それじゃ」

 ナツちゃんってばさ、とユキの優しい声がする。

 パチリと音を立てて照明が点けられた。眩しさにナツは何度もまばたきをする。その度に涙が滴になって落ちる。眉間に縦じわが刻まれる。薄い唇の端を微かに持ち上げて、微かな苦笑を見せる。

 髪が随分伸びていた。

 顎のラインが丸みを帯びたように見える。

 それは太ったのではなく。

 身体のラインが、やわらかく角を落としたような。

「……ユキ?」

「ナツちゃん」

「……お前、ユキ?」

 目尻がやさしく下がっている。

 目の前にいるのはユキだ。けれど、ナツには目の前の人物をユキだと認識するのと同じだけの強さで、彼からモモを感じる。

「そうだよ」

 こいつの声はこんなにやわらかかっただろうか。

 もっと低くてゴリゴリしていた気がするのに。

 こんなにやさしい顔をしていただろうか。

 もっと男っぽいごつっとしたイメージがあったのに。

「泣くなよ」

「泣いてねーよ」

「強情だな、このおっさんは」

「おっさんって言うなよ!」

「大丈夫だよ」

「なにがだよ!」

「ああもう……オレ、ナツちゃんに会わないつもりだったのに、会うとしてももっともっと後だった予定なのにな……」

 腕が伸びる。

 静かに桃の香りが広がる。

 黒い長袖のTシャツを着て、黒はユキが比較的好んで着ている色のはずなのにどこか似合わなくて、似合わない、とナツが口を開きかけたときにユキの腕はナツをすっぽりとその中に包み込んだ。

「ナツちゃん……」

 ぎゅう、と抱きしめられて、それはかなり強い男の力でナツは息が詰まったけれど、下手に自分が動くとユキのことをモモのように押し傷だらけにしてしまうのではないかと思ってそのまま息を殺しているしかできなかった。

 はずなのに。

「ユキぃ――」

 体温が。 

 抱きしめられた腕から、密着させられた胸から、それは流れ込む。

 なんだよぅ、と口にしながら、ナツはまたしても鼻の奥が熱くなるのを感じる。

 なんだよ。

 なんでこんなに。

 なんでだよ。

 どうして泣けるんだよ。

 泣き方なんてもう、忘れたと思っていたのに。

「ナツちゃん、……好きだよ」

 言葉に魂が宿る。

 男同士で何言ってんだ、と笑ってしまいたい気持ちが少し。

 この男も妻と同じ病で失くすのかという恐怖がたくさん。

 そして、そこに、人の体温はどうしてこんなに落ち着くんだろうという想いが微かに。混ざる。


 泣き声がかすれている。

 喉に無数の小さな傷をつけられたようで、それがちりちりと痛む。

 深呼吸の仕方は忘れた。

 浅い呼吸が喘ぎの合間に挟まれて胸が痛む、肺が痛む。

 体内の水分を搾り出すように涙を流しすぎて、瞼は真っ赤に腫れ上がった。

 哀しみが手足を痺れさせる。昨日と今日、今日と明日の境目がもうどこにあるのか分からない、身体中が重たい、頭が重たい、そしてぼんやりとする。

 自分はなにを失くしたのか。

 どうして泣いているのか。

 遠い記憶を呼び起こそうとでもするように頭痛がやってくる。

 唇が乾いて喉が張り付く。

 誰の名前を呼んでいたのか。

 誰の名前を呼ぼうとしていたのか。

 この腕は誰の手を掴もうとしていたのか。

 この腕は誰に向かって伸ばされようとしていたのか。

「――ああ、」

 低くかすれる声は自分のものと認識できない、それでも痛む喉を震わせて他の人間の声がここから飛び出すはずもなく。

 飛ばなくちゃ。

 今が昼なのか夜なのか、それは分からないけれど。

 飛ばなくちゃ。

 飛ばなくちゃ、あの子が待ってる青い空へ。

 あの子は淋しがり屋だから、早く行ってやらないと。ああ違う、あの子のせいみたいに言っちゃいけない、本当は自分が淋しいから。早く会いに行かないと。行かないと。行かないと。

 ふらりとベッドから降りて、膝から下の力が抜けるのをそのままに前へつんのめるように窓へ向かう。

 飛ばなくちゃ。

 飛ばなくちゃ。

 早く行かなくちゃ。

 あの子に会いに、行かなくちゃ。

「なにしてんだよ!」

 不意に後ろからものすごい力で抱きとめられた。がんじがらめにするように。腕の下に腕は差し込まれ、相手の胸と自分の背中が密着する。

「ふざけんな!」

 誰だろう。

 なんでそんなに怒鳴るんだ。

 俺はあの子の声しか聞きたくない。

 そう言いたいけれど喉が動いてくれなくて、声が上手く出せない。

「やめてくれよ、そんなふざけた男じゃないはずだろ!」

 なんでそんなに怒ってるんだ。

 行かなくちゃ。

 行かなくちゃ、俺は。

 あの子が待ってる、行かなくちゃ。

 行かなくちゃ。

「ナツ!」

 叫ばれてぴくりとする、意識のどこかが引っかかる。いや、そんなことより。でも、身体が。

「放……せ……っ」

「放さない!」

 力強い声で願いは聞き入れられないことを告げられる。それでむしろどこかほっとして力を抜いてしまったのに、相手の拘束力は増すばかりだ。

 観念した振りをしていると思われているのかもしれない。

 隙を見て逃げ出そうとする猫のように。

 ああ、と声にならない言葉がこぼれる。

 疲れた。

 本当にもう、疲れた。

 眠れないんだ。

 目を閉じると醜く膨らんだ愛しいあの子が浮かぶ、助けて、苦しい、どうして、と訴えかける。助けたい、切ない、どうして、と自分は同調して苦しくなる。どっぷりと浸る。一緒に死んであげたいと思った、助けられないと知った日から。それなら自分の魂を差し出そうと思った。一緒に。一緒に。一緒に。

 だって、一緒に生きていたいと思ったのだから、一緒に死にたいと願うのもそう違わない気がしていた。

 疲れた。

 眠りたい。

 でも眠れない。

 あの子の夢ばかりを見るから。

 泥のようにただ真っ暗く深く、眠っていたい。目覚めていても眠っていても、あの子の叫び声から解放されない。

 なにより、あの子を助けられなかった自分が不甲斐なくて苦しい、胸を裂かれそうに。

「大丈夫だから。大丈夫。大丈夫、本当に。大丈夫」

 耳元で繰り返される呪文。それは薬のように徐々に溶けて効きはじめる。

 大丈夫じゃない。

 大丈夫。

 大丈夫じゃない。

 大丈夫。 

大丈夫じゃない。

 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。

 否定しても肯定が繰り返される、相手の体温がゆるりとこちらに移ってくる。穏やかに。静かに。なにも怖くないのだと、暗闇で寝付くまで手を繋いでいてくれる母親のように。

 やがてナツは眠りに落ちる。

 抱きしめられている圧迫感のせいか、安心がある。

 怖い夢は見ない。

 哀しい夢は見ない。

 だからこその罪悪感があるとしても、相手はやさしく背を撫でてくれる。

 それはもちろん、一日で終わるわけがなかった。

 朝や夜の区切りなく、ナツは吠えて怯えてモモを追いかけたいと泣いた。それは突然やってきた。眠れないと憔悴して、精神を削って。その度に引き戻された。大きな手で手首を掴まれた。背中から抱き潰すように抱きしめられて、それは暴れようが殴ろうが噛みつこうが引っかこうが、びくともせずナツを引き止めた。

 大丈夫、と幾度となく繰り返される安心の呪文。

 それは子守歌のように、ほんの少しずつナツの神経をなめらかにならしていく。

 時間の概念もない中で、傷を負う獣のように暴れるナツを昼も夜もなく抱きしめる。ナツが窓の向こうへ飛び出してしまわないように。うっかり手首を切ってしまったりしないように。車の前へ、電車の前へ、飛び出してしまわないように。

 

 思い出す。

 記憶は溶け出した水のように流れ込む。

 ミリーの部屋なのに、客室だけは淡いブルーでまとめられた静かな空間だった。ベッドがひとつと小さなサイドテーブルが置かれている。白いカーテンが窓の向こう側にある夜をそっと隠していた。

 明るい照明の下で、しゃくり上げながら年下の男に抱きしめられているという状態が徐々に恥ずかしくなってくる。体温に安心するだとか、人の肌の匂いをこんなに間近で嗅いだのなんてどれくらい振りだろう、なんて言っている場合ではなく。

 ナツはもそりと身体を動かす。

 ユキが軽く腕の力を緩める。

「……なに、」

「いや……なんで俺達、抱き合ってんの……?」

「ナツちゃんが、泣いてるから?」

「泣いてねーよ」

「泣いてんよ」

「な、泣いて……」

「子供みたいだなぁ」

 ユキが笑う。相変わらずひっそりとした笑い方だったけれど、それは暗闇の中でないせいか、さっきよりよほど温かみのあるものだった。

「……お前も、死ぬの?」

「うん」

「即答すんなよ」

「でもさ、ナツちゃんも何十年かすれば死ぬよ。ずっと生きているわけにはいかないんだし」

「そういう問題じゃねーよ」

 ナツが怖がるのは、ユキがモモの最期のようになることだ。膨らんで肌をどす黒く染めて熟れ過ぎた果実が中にガスを溜めて破裂する寸前のようになってしまうこと。

 あれが、恐ろしい。

 そうなった相手を、自分が直視できないことが。

 逃げ出したいと思ってしまうことが。

 ずっと一緒だからと口では言うものの、心の中は絶望の黒に塗りつぶされていることが。

「……男はかかんない病気だって、言ってたのに、」

「モモちゃんが?」

 ナツが頷く。ユキはそっと身体を離した。桃の香りが、する。

「じゃあモモちゃんが知らなかっただけだ。確かに男は女に比べてほぼゼロに近い罹患率らしいけど、まあかかるときはかかるさ」

 運が悪かったのか良かったのか、とユキが目を細める。

「腐敗桃化症、って言うんだ」

「……知ってる」

「うちの家系はこの病気になる人間が多い。でも全く出ないときもあるし、次々に出ることもあるらしい、奇病だし良く分かってないみたいなんだよね。しかもかかるのはほとんどが女だから、オレも病院行ったり検査したりいろいろ調べたりでさ、酒も飲んでない日々よ。健康になっちゃったかと錯覚するくらい」

「ユキ、」

 彼は両手を広げて肩をすくめて見せた。 

 背の高い男だと、今更ながら思う。

「桃って、女の象徴だと思わないか?」

「……?」

「尻とか胸とかを思わせてさ。色だってピンクだし」

「桃なんか食って美味いかどうかで、それ以外考えたことねーよ」

 ナツちゃんらしいな、とユキが笑う。

 意味が分からなくてナツは首を傾げるばかりだ。

 座る? と促されて、ナツはベッドに腰掛けた。すぐ隣にユキも腰を下ろす。

「お前、家は?」

「まだこの病気になったこと言ってないし、病院代かかるから住んでたとこ引き払って、来ていいって言うからミリーちゃんに甘えさせてもらってる。メジャーな病気じゃないからさ、保険効かない検査とか薬とかもあるんだよね。まあ大学病院移ったから、半分は研究目的で負担してくれるって言うけど」

 なんて言っていいのか分からず、自分から話を振ったくせにナツは口を閉ざす。

「桃ってさ、熟れるんだよ」

「いや、まあ、そうだろ。果物だし」

「この病気も同じなんだってさ」

「……うん?」

「熟れてく病気じゃん? だから女ばっかがかかるみたいなんだけどさ、そうすると、えっと、早く腐るというか、」

「腐る?」

「あー、うん。えっと、病院の先生が教えてくれたけど、男の患者で資料が残ってる人で比較的新しいのって、三十代で発病して七十くらいで死んだって」

 さんじゅう、ななじゅう、と頭の中でナツは数字を転がして、ぎしりとベッドを軋ませる。

「な! な? 長生き……?」

 指先が触れる。あ、と思った瞬間、ナツは上半身を倒されていた。ユキが押し倒して、二の腕を押さえつけている。にやりと笑われて、ナツはきょとんとまばたきを繰り返した。

「オレ、女になんの」

「……は?」

「この病気。オレは女になんの。身体のつくりが段々変わってくんだってさ、女性ホルモンが増えたりして、まあなんかよく分かんないけど。モモちゃんよりは多分、長生きする」

「……女? ユキが?」

「そう。キモい?」

「想像が、上手く、できない」

「でけー女だもんな」

「……ちんこは?」

「……ナツちゃん、それ聞く?」

 ぶふ、と吹き出して、ユキが泣いたような笑い顔になった。

 上から覗き込まれている。キスを待っている気分になってしまって、ナツはぎこちなく顔を逸らす。

「そのうち、退化するんじゃん? おたまじゃくしの尻尾みたいに」

「それは……退化じゃなくて、吸収されてんだろ」

「そうなの?」

「多分」

 よく分かんないけど、と言いながらナツは視線をユキに戻した。遠くを見るような目。でも優しいまなざし。放せよ、と言ってみる。嫌だよ、と微笑まれる。

「男抑え込んで、何が楽しいんだよ」

「男なんか抑え込んでも楽しくないけどさ、ほら、ナツちゃんだから」

「俺だからなんなんだよ」

「好きだよ、ナツちゃん」

 ユキの目尻はやさしく垂れ下がる。とろけそうになる。言葉は甘く揺らぐ。耳に心地良い、ぬるま湯のような音程。この男は随分と音符でも転がすように好きだと告げると妙な感心をした。

「好き、って」

「よく分かんないけど」

「いつからだよ。お前、そういう趣味か?」

「女、好きだよ」

「俺は女じゃねーよ」

「こんなに口が悪くて酒ばっか飲んでて、意地っ張りな女、オレだって嫌だよ」

「じゃあ好きとか言うなよ」

 どうして少しだけ傷付いた気持ちになるんだろう。好き、って言ったくせに、と。

「でも好きなんだから仕方ない」

「なんだよ、その好きってのは。訳分かんねーよ」

「オレだって訳分かんねーよ」

「いつから好きなんだよ」

 いつだろう、とユキが首を傾げる。

 分かんないけど、と続けられて、なんにも分かんねーじゃねーか、とナツが笑う。

「キスしたいとか思うのかよ」

「ナツちゃんは直接的すぎる」

「そんなもん、俺に『月が綺麗ですね』とかを期待すんな」

「夏目漱石」

「おう」

「意外、そういうの知ってるって言うのが」

「バカにしてんのか、モモが言ってた」

 なんでもモモだ。

 モモが言ってた、モモがそうしてた、モモがやっていた。人は死んでも、その人を覚えている人間が存在する限りはけして消えたりしないのだ。新しく歩んで行くことがないだけで、きちんとそれまでのことはすべて残っているのだ。

 だからと言って、哀しくないかといえばそれは別の問題になるけれど。

「オレの身体が女になるからじゃん?」

 ユキがナツを押さえつける手を緩める。

 けれどナツはその解放された腕を持ち上げて、ただ鼻の横をかいただけだった。

「なにが?」

「女になったらどうしよう、って思ったんだ」

 ユキの唇が微かにゆがむ。

 この口はタバコを吸うんだっけか、と、ナツはそんなことだけを思った。

「今更女になります、って言われてもさ。ミリーちゃんとかなら喜ぶかもしれないけど、オレは生まれてから一度も女になりたいなんて望んだことなんてないよ。思ったこともない。スカートは穿くもんじゃなくてめくるもんだろ? どうすんの、オレ女になりますとか言われて。大混乱さ。病気? 病気だったら女と男が入れ替わっても仕方ないですね、ってなんのか? なんないだろ、普通。医者からは言われた、男性ホルモンを注射したりして、いわゆる性同一障害の人にするような治療っての? なんかよく分かんないけど。そういう方法はあるけど、オレにはできないって。副作用とか怖いしどうなるか分かんないから、賭けではできないって。でもさ、オレよく分かんなくなったよ。さっきから分かんない分かんないばっか言ってるけどさ、だって分かんないじゃん。女になりますけどそんなにすぐには病気で死にません、って言われたってさ、診察帰りに車でばーんっと轢かれるかもしんないし。他のガンとかになるかもしんないし。大体、オレ女になってどうすんの? 女になったからって、はいそうですかって女の格好すんの? これから男に抱かれてーって思うの? 無理だろ。そこでリセットしてやり直すわけじゃないんだからさ。そりゃ、外見上は男の格好してりゃいいかもしんないけど、それはそれで腹立つじゃん。オレは元々男として生まれてきたのに、なんでこんなこそこそ男装みたいなことしなきゃなんないんだ? って」

 もう自殺しちゃおっかなー、って考えたときにさ、とユキが言うのでナツがぎょっとする。ぎょっとした勢いで手が出て、思わずベッドに上半身を倒したままユキの腕を握った。

「……ナツちゃん?」

「死ぬとか言うな」

「……ごめん」

「……いや、俺も……なんかお前がややこしいことになってんの、そういうのの気持ちって多分全然想像とか追いつかないだろうから、軽々しく俺が言うことじゃないんだろうけど、」

「うん。ははははは、うん。いや、あのさ。オレ、死んじゃおうかなって考えたときに、ふとナツちゃんの顔が思い浮かんでさ。オレ死んだらあの人また泣いて大変になって、窓から飛び出しちゃったりしそうになるだろうからやめとこ、って思った」

 何か言いたげな間が置かれて、ビールあるけど、とユキが言う。ビール、とナツは手を離してベッドから起き上る。

「飲む?」

「飲む」

「冷温庫、あるから」

「ミリーの?」

「いや、オレの」

 青いカーテンは揺れない。窓を開けたいと思った。閉じ込められているようだと感じて、ナツはそれを息苦しいと感じる。

 いや、本当は息苦しいのではなく、ユキの言葉を恐れているのかもしれない。

 好きだ好きだと臆面もなくユキは言う。

 惜しげもなくやさしい表情を見せて。

 でも好きだと言われて、それ以上はどうすればいいんだろう。

 言われてもいない言葉を先回りして怖がっているのは、愚の極みなのだろうけれど。

 くちづけたいと言われたら、どうすればいいんだろう。

 男のくせに、と笑えばいいのか。

 そういう趣味はないと突っぱねればいいのか。

「なに、百面相して」

 ビールの缶が目の前に現れて、ナツは可笑しいくらいに戸惑った。

「なに、そんな怯えて」

「怯えてなんか、」

「別にナツちゃん襲ったりしないって」

「おっ、襲っ!」

 渡されたビールはそこまで冷えていなかった。両手で包み込むように持って、ユキに笑われる。プルタブを引いて、口をつける。苦い泡ばかりが舌先に染みる。

 苦い、とつぶやいて缶を煽った。

 喉をすべる金色の液体が、ぎゅう、と不思議な音を立てる。

「ナツちゃん、」

 ユキが小さく声をかけた。

 なに、と視線を向けることで、ナツは返事に代える。

「もう会わない」

「……は?」 

 突然の言葉に空気を一緒に飲み込んでしまい、ナツはむせる。ごふ、と濁った音が喉から突き上げて吐き出された。

「なっ……?」

「オレ、もうナツちゃんに会わない。いや、死んだりしないけど。オレの身体が女になるからなのか、オレさ、ナツちゃん気になって仕方ないんだ。なんでだろうな、姉弟で趣味似てたんかな。でも困るだろう、ナツちゃんだって。オレに好きとか言われても。オレだって困る。ナツちゃん好きで、それでどうするんだ、恋愛でもしたいのか、恋愛するってなんだ、意味分かんないだろう?」

 妙に饒舌なのは、もう何度も伝えようとして繰り返してきた言葉だからなのか、それとも勢いに任せてなのか、ナツには判断できなかった。そんなことより、「モウ会ワナイ」と言われてしまったことに頭を殴られたようで、思考回路が上手く繋がらない。

「バイバイ、ナツちゃん」

「な、なに言ってんだよ、おい、ユキ!」

「もう会わない」

「お……い……、」

 ユキの唇が微笑みの形に持ち上がる。なのに、潤んだ瞳からはとうとう盛り上がった一滴が頬を伝った。

「もう、……会ってたら、オレがナツちゃんにどうしたいのか、どうされたいのか分かんない……苦しいから……離して……」

 掴んだ覚えはない。

 引き止めた覚えもない。

 だってユキはモモの弟で。

 ただずっと近くにいて、それは友達とかそういう次元とは違っていて、確かに説明は難しく感じられたけれど。

 解放してくれよ、とユキは涙をこぼす。

 解放してくれ。 

 自分がこれからどうなるのかも分からないのに、恋まで背負い込めるはずがない。そう言って。

 恋。

 ユキは確かにそう言った。

 ナツは半分ほど残っているビールをそっとテーブルの上に置く。

 どうすればいいのか、分からなかった。

 うちの家族、お前のこと好きだからさ。そんなどうしようもない言い訳が頭をよぎる。でもそうじゃない。言わなきゃいけないのはそれではないことくらい、ナツにも分かっている。

「……これから、どうすんのさ」

「まあ……しばらくはミリーちゃんに世話になるかもしれないけど、そのうちちゃんと話して実家に帰るさ」

「……親父さん、」

「家族みんな、同じ奇病で亡くすことになるからな、あの人が一番可哀想なのかも」

「お前は、死なないんだろう?」

「死なないよ……でもナツちゃんにはもう会わない」

「……男と女が別れるみたいだな」

 そんなんだったら良かったね、とユキが泣き声で言う。

 なにが良いんだかさっぱり分からないまま、ナツはぎこちなく頷いた。そして目を伏せる。

「……お前が会いたくないって言うんなら、」

「ナツちゃん、会いたくないって言ったのがモモちゃんだったら、引き止めてた?」

「……モモ?」

 モモだったら。

 モモが言ったんだったら。

「言わないだろ」

「うん?」

「会わないとか、言わないだろ」

「そうかな」

「そんな、人を試すようなこと。言わないって、」

 自分で言ってて、はっとする。

 人を試すようなこと。ああそうだ。ユキは試しているのかもしれない。もう会わないなんて言うなよ、とナツが言ってくれるかどうか。試して。

「ユキ、」

 ナツは彼の名前を呼ぶ。

 何を言いたいのかもまだまとまっていない頭で。

「――ユキ、」

 泣くなよ、とだけとりあえず口にする。手を伸ばす。人差し指と中指で、その頬に触れる。ユキが微かに動揺した顔で身体を後ろに引こうとする。

 涙の似合わない細い切れ長の目。

 女みたいに簡単に泣くんじゃねーよ、と言いたくなって、ああこいつは女になるのか、と思い直す。

 なんだよ。

 男が女になるってなんだよ、それも自分から望んでって話じゃなくて、病気でってなんだよ。そんなの知らねーよ、聞いたこともない、あったとしても自分とは関係のない世界の話だろう、そうでないと困る。

 困る。

「……さわんなよ」

「ユキ、」

「気安く名前呼ぶな」

「ユキ」

「……ナツちゃん、」

 小さく小さく震える声でユキが吐き出す。世界中の不安と心細さを全部集めてしまったような声で。眉間に縦のしわを刻み、苦しくてたまらないといった顔をして、ナツの躊躇いがちな指先を頬に残したまま。

 二度と会わない、と。

 たすけて、と。

もう少し続きます。

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