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 薔薇の咲く水色の小さなアパートには、小さな仏壇がある。

 モモのためのものだ。白くてコンパクトなそれは、タンスの上にちょこんと置かれている。

 親には毎日線香をあげろだの水を入れ替えろだの拝めだの言われているけれど、ナツはモモを仏様だと思いたくないので、線香はあげない。あんなのをもくもくと焚いたら煙臭くて仕方がないだろうと思っている。水を毎日取り替えるのはどうしてだかよく分からないので、自分が飲みたいものを仏壇に一度上げ、「お前も飲め」と言いながら適当なところでナツが下げて飲む。だからビールのときもあるし、水のときもあるし、飲むヨーグルトのときもある。

 滅茶苦茶なんだから、とモモは苦笑しているだろう。

 花はたまに飾る。

 実家から「モモちゃんに」ともらったとか、帰り道でタンポポを摘んでしまったとか。いい年の男がタンポポを指先でくるくる回しながら歩いているのは結構恥ずかしかったりするが、大抵は途中で捨てたりしないでちゃんとモモに持ち帰る。恥ずかしさより、モモの喜ぶ顔だ。それからアパートの前で薔薇の花びらを拾ったりすると、それを置いてやったりもする。

 八月はあっという間に過ぎる。

 暑い暑いと唸ったり目付きを悪くしている間に、気がつくと指先からするりと抜け出して逃げていく。そして夏の月は空の遠くにあってやけに青白い。

 ナツの家族は、時々、アパートは引き払って実家に帰ってくれば、と言う。モモちゃんの仏壇もこっちで一緒にすればいいし、と。だけどナツは今までの人生で仏壇なんて意識したことがなかった、ご先祖様ってなんだよそんなもんみんな死んでる奴じゃん、としか思っていなかったから、モモを自分の興味がないところに入れてしまうのに抵抗があった。

 ユキには一度だけ連絡した。

 お盆をどうするか、と聞いたけれど、風邪でも引いているのか普段とは若干違った声質でユキは、命日に行くよ。とだけ言った。

 九月十二日。

 モモの命日が近くなると、ナツは毎年同じような夢を繰り返して見る。

 長い手足、赤くひっそりと微笑む唇でナツに圧し掛かる女の夢。女に乗られる形でナツは仰向けに寝転んでいる。指を絡められて、手をつながれる。地面に縫い付けられるように。

 耳元に顔を寄せられて、なにか言われる。

 聞こえない。

 聞こえない。

 聞こえない。

 女の長い指はナツの胸をなぞる。シャツのボタンをひとつずつ外していく。切り揃えられた爪。

 女は薄い。あまり肉のない体型をしている。胸もそうない。

 舌が伸ばされる。

 骨格をなぞるように、鎖骨に唇が落ちる。

 舐められる。

 ナツは背筋に微弱の電流が走るのを自覚する。

 毎年、毎年。それは多分、同じ女。モモなのかもしれない、けれどモモにしてはやり方が違うと思うし、彼女はもっと胸もあったし二の腕も太かった、女らしい肉を纏っていた。それはけして、贅肉ではなく。女らしいライン。女としての必要な脂肪と肉。結局なんだかんだ言っても骨っぽい女は抱いていて痛い。どうせなら抱きしめたらふわふわしている、幸せを具体化したら女の形になりました、というくらいの飛び切り抱き心地がいい奴がいい。

「……俺がいなくて淋しくて、天国で拒食症にでもなってんじゃねーの?」

 ナツは嘆く。でも今すぐ天国へジャンプするわけにもいかないのが悩みどころだ。

「待ってろよ、どうしても淋しくなったら呼んでもいいけどさ」

 ナツは寝癖のぼさぼさ頭で、夢から目覚めたばかりで大抵白い仏壇に話しかける。

 呼んでもいいけど、痛い呼び方すんなよな。そう続ける。

「浮気すんなよ」

 天国はどんなところだろう。信じてはいないけれど、モモのためにならあったほうがいいと思う。薔薇の咲き乱れる、いい匂いで穏やかで幸せなところだといいと願う。

 浮気は許さないけれど。

「っていうかさ、」

 俺を呼ぶよりお前が帰ってきたほうがいいよ、とナツは呟く。天国まで跳ねるのは月の兎ほどの跳躍力がなければ無理そうだけど、天国から飛び降りるのなら勇気ひとつあれば何とかなりそうな気がするから。

「俺、お前くらいなら抱きとめるぜ?」

 ナツちゃんの腕が好き、ぎゅうって抱きしめられるとうんと幸せな気持ちになるの、この腕の中にわたし以外の女を入れないでね、絶対ね。そう笑うモモが、すぐ隣にいるような気になる。


 桃の香りがする。

 それは首筋から、ふと立ち上った気がしてナツは思わずユキの顔を凝視した。

「……なに?」

「いや、」

 こいつはこんなにつるりとした顔をしていただろうか。

 こんな、ひげも生やしたことのないような白い顔を。

 行けない、と言っていたのに、ユキはお盆に顔を出した。暑い、と言いながら、薔薇の花束と大きなスイカを持ってきた。スイカはモモの好物だった。スイカだけでなく、果物の類は南国のフルーツを除けばなんでも喜んだが。

 モモはバナナが苦手だった。グァバが、マンゴーが、アボガドが、とにかくこってりねっとりとした果物が嫌だと、リンゴやナシやスイカを愛した。

「でかいな」

「なにが」

「スイカ」

「ああ。……ごめん、実家にでも持ってって」

 渡されて持ったスイカはずしりと重くてよく冷えていた。ユキは傍の八百屋で冷えてるのがあると言われたから買った、と告げた。赤い網状のビニールひもにすっぽり入って、しかしそれはサッカーボールより大きかった。

「食うか」

「え、でも一応お供え」

「モモに見せたら、あいつ全部食うぞ」

 ユキはきょとんとした顔をして、一拍遅れて笑った。腹壊すって言ってるのにな、と続ける。

「腹壊すって言ってるのに、半分に切ったのをスプーンでほじくって食って、それで結局腹壊してたよな」

「しかも学習しねーんだよ。ひと夏に何回かやるんだよな。結婚前もそうだった?」

「そうだった、晩飯はスイカとかってふざけたこと言ってな」

 アパートはクーラーもあったが、窓を全開にして扇風機を回していた。セミが鳴いている。ジリジリジリジリと、アスファルトを溶かすようなうるささで。

「ビール飲むか」

「いや、」

「なんだよ、遠慮すんなよ」

「まあ、」

 暑いのは嫌いだが、ビールが美味いから仕方ないとナツは思っている。ビールを飲むために夏の暑さはあるのだと、そのためだけの暑さなのだと決めつけると、腹が立つのも半減する。

 今年の夏も猛暑日が続き、とテレビが言っていた気がする。内容なんてほとんど頭に入ってこない、画面は垂れ流されているだけだ。時計代わりに朝のうち流しているニュースで、天気予報が挟まれるのでなんとなくそこだけ耳に入る。

 昼過ぎだった。

 十三日。

 誰かの誕生日だった気がするけれど、誰だっただろう。

「飯、食った?」

「食欲、なくて」

「食っとけよ」

「ナツちゃんに言われたくない」

「俺はあれだ、ちゃんと酒飲んでる」

「モモちゃんが生きてたら泣いて怒りそうな発言してくれるなよ」

 ユキの持ってきた白い薔薇の花束が香る。さっきの桃の匂いは、もしかしたら薔薇の嗅ぎ間違いかもしれない。そういえば確か桃は薔薇科の植物ではなかったか。

「なんか食う?」

「いや、まあ、」

「あ、なんだから線香でもあげてけよ」

 最初からそのつもりだけどさ、とユキが笑う。


 お盆の最中は魂が家に帰ってきてるから、お墓にはお参りしに行かなくていいのよ。

 モモはそんなようなことを言っていた。

 夏の暑い時期なので、カンカン照りの日陰もろくにないような墓地に行きたくないだけだろう、とナツはよくからかった。

 きゅうりの馬、ナスの牛。

 モモが生きている頃はアパートに仏壇なんてなかった。けれど彼女は毎年それらを作って玄関に飾った。ババくさい、と言うと怒った。

 そうめんには氷。汁はガラスの器。

 デザートに色とりどりの寒天をさいの目切りにして缶詰のフルーツを混ぜたフルーツポンチ。ナツの祖父からあんこを分けてもらったし教わったし、と作ってくれる水羊羹。同じ材料を使っているのに、祖父の売り物とモモの手作りでは味が違った。

「お盆には、お母さんとかも帰ってきてるんだろうね」

「幽霊か」

「きちんと供養されて亡くなっている人は、幽霊って言わないんじゃないかな。魂、とか」

「魂だと人の形してなさそうだな」

「気持ちだけ帰って来てくれればいいんだよ」

「そうか? どうせなら顔見せて欲しいけどな、俺だったら」

 じゃあわたしが先に死んだら、お盆にはちゃんと人の形で帰ってきてあげるね。モモはそう言ったのに。お前よりどうせ俺が先に死ぬよ。ナツはそう軽口を叩いたのに。

 モモは一度も帰ってこない。

 天国から。

 あっちはそんなに住み心地がいいんだろうか。

「ナツちゃんは魂になったら、どっかふらふら行っちゃいそう」

「なんだよ、信用ない奴みたいに言うなよ」

「だって、魂だったら電車代も飛行機代もいらないんだし。どこでも行けちゃう」

「魂も地道に移動しないと目的地に辿りつかないんかな」

「どうだろう。望めばすぐかな。願った瞬間、行きたいところに辿りついてるかも」

「だったら俺は一番にモモんところ願うよ。帰ってくるよ」

 バカ、と小さい声で彼女が言った。

 見れば顔を真っ赤にして照れているのだった。

 バカなんだから、臆面もなくそういうこと言っちゃって、本当に素直すぎるんだからそんなところだけ、バカ。バカバカバカ。モモはそう言ってますます顔を赤くした。ナツはどうしてバカバカ言われているのかちっとも分からなくて、じゃあ死なないことにする、とだけ考えた後で口にした。

「死なないことにする。それで、ずっとモモの傍にいる」

「ナツちゃんなら、本当に死なないでいてくれそう」

「うん」

「やだ、子供みたいな返事」

「死なない」

「もう、ナツちゃんが死なないでいるんなら、わたしもおちおち死んでられないじゃない」

「死ななきゃいいじゃん」

 ナツちゃんが言うとすごく簡単なことに聞こえるね、とモモが微笑んだ。

 死ななきゃいいじゃん。

 死ななきゃよかったんじゃん。

 ずっと俺と生きてればよかったじゃん。

 ナツは今でも思う。そして白く小さな仏壇の脇に置かれる、結婚祝いにもらった華奢なシルバーのフレームに入ったモモの写真に話しかける。

 死ななきゃよかったのに。

 生きていればよかったのに。

 せめてもっと夢に出てくるとか幽霊でも魂でもいいから戻ってくるとかすればいいのに。

 でも夢に出てきたら自分は夢から覚めたくなくなってしまうかもしれない。確実に夢から覚めるのをやめるだろう。ずっとモモと夢の中で暮らせるなら、現実の世界に用はない。現実の世界に意味はない。

 意味は、ない。

 意味は、ない、だろうか。


「痩せた?」

「オレ? あんまり食欲、ないから」

「食欲ないってのは聞いた」

「だったら痩せるだろ」

「そうか? 食欲なくても食べてる奴とかいるじゃん」

「いるけどさ。そういう奴って、食欲ない、って言いながらもなんか食ってるってだけだろ」

「あー。女によくいる」

「どんな女と付き合ってたんだよ」

「分かんない。モモ以外はほとんど覚えてない。っていうか興味がない。モモ以外の女って地球上に存在してても、なんかあんまり。メス猫とかメス犬とかがいるじゃん、ああメスだなー、って思う程度」

「ひでぇ、ナツちゃんすげーひでぇ」

「そういうユキはどうなんだよ、お前女居んのかよ、見たことも聞いたこともねーぞ」

 オレも興味がないんだよ、とユキはひっそり笑った。彼が仏壇に線香をあげ、きゅうりの馬を作らないのかと聞いたので、ナツはモモのことを思い出していた。

 きゅうりの馬で早く帰っておいで。

 ナスの牛でゆっくり向こうへ行きな。

 そういう意味があるらしい、でもだったら俺ならナスの牛は足を全部折る。むしろナスは動く前に食う。そう言ってユキに呆れた笑顔を作らせてしまった。

「スイカ、本当に食う?」

「切ってくれよ」

「ナツちゃんがやれよ、ナツちゃんの家だろ」

「俺、包丁とか苦手」

 本当に菓子屋の倅なのかとため息をつかれたのだが、ナツは嫌味とも取らずに素直に頷く。

「冷蔵庫にビールある」

「スイカつまみに? すんの?」

「ユキがこの前買ってくれた米も味噌も全部残ってる」

「残ってるんじゃなくて、手をつけてないんだろ」

「うん」

「……この人は……モモちゃんもこんなの残して逝っちまうの、心配で仕方なかっただろうな」

「切ないことを言うな、泣くぞ」

「いいよ、もう泣かなくて」

 青い長袖のシャツは、袖の部分のボタンが外されていた。手首のところの骨が覗く。思っていたよりも白くて細かった。

「俺、ユキの前でなんか泣いたことねーよ」

「ああ? ああ、はいはい、そういうことにしといていいよ」

「なんだよ、お前、ほんとだっつの、いつ俺の泣いた顔なんて見たんだよ、俺は物心ついた頃から泣いたことなんかねーぞ。つーか、お前なんでこのくそ暑いのに長袖なんか着てんだよ」

「着たいもん着るよ、放っとけ」

「お前、可愛くねーな」

「客にスイカ切らせるわ花瓶探させてくるわ、線香はろうそくじゃなくてジッポから直接火をつけさせるわで、無茶苦茶なナツちゃんにそんなこと言われても、オレは少しも傷付かないね」

「花瓶なかったな」

「元々ないんじゃん?」

「いや、モモがどっかにしまってた気はすんだけど」

 結局見つからなかった花瓶は、風呂場の手桶で代用した。パステルグリーンの手桶に白い薔薇の花。シュールだとユキは笑い転げていた。

「……なんで来てくれた?」

「うん?」

「お盆、来れないとかっつってたじゃん」

「ああ。まあ、うん。オレが来ないとナツちゃん泣くかな、と思って」

「泣かねーよ!」

「あはははははは。うん、まあやっぱり来ようって思っただけさ」

 思ったよりも丁寧にスイカは切られて皿に乗せられてきた。四分の三は冷蔵庫に入れといたから、と言われる。ラップ買い換えた方がいいよ、とも言われたけど、なんのことだか分からなくて適当に返事をした。

 男ふたり。

 座卓の真ん中にスイカ。

 タンスの上には妻であり姉である女の仏壇。

「シュール!」

「なにがだよ、暑ちぃな、まったく」

「ナツちゃん」

「なんだよ」

「スイカ食えよ」

「あー。おう。ビール取ってきて」

「また! また客をパシリにするか!」

「客じゃなくて、お前ユキじゃん」

 言いながらナツはにやけて、そしてスイカを一切れ手に取った。三角形。口に運んで前歯で齧り取る。汁が飛んで、白いシャツの胸元を小さく汚した。

 ビールの缶はよく冷えていた。カン、と音を立てて、机に乗せられる。勝手知ったる人の家の冷蔵庫だな、とナツがユキに言ったが無視された。

「子供かよ」

 ユキが長い脚をもてあまし気味にしながら胡坐をかいた。

「んだよ」

「シャツ。汚して」

「いいんだよ」

「よくねーよ」

「なあ」

「なんだよ」

「天国って、どんなとこだ?」

 ユキの手がスイカに伸びかけて止まった。まばたきをしながら、ナツを見る。一度。二度。三度。

 天国は明るいのか。朝と昼と夜はあるのか。綺麗なのか、いい匂いなのか、あたたかいのか快適なのか、美味いものはたくさんあるのか。楽しいところか幸せなところか。

「……死んだ人が、行くところ?」

「天国って、退屈そうだと思わん?」

「思……う、かも」

 早く早く早く、脱いで脱いで脱いで! もう、食べるんだったらエプロンして食べてよ、果汁って落ちにくいのよ、分かる? ちょっと、もう脱いで、早く! シミになる前に漂白剤! ちょっと、なにがエッチなのよ、ナツ! 脱ぎなさーい! わたしが脱がすわよ、胸元押さえてないで、にやにやしない! ナツ! ナーツ! 

 そんなモモの声が、当たり前のように頭の中で響く。

 聞こえる。

 ナツはビールを手にしたものの、開けることもなくそのまま俯いた。センチメンタルな気分になる。少しだけ。それは、モモの魂が特別な期間で戻ってきているからなのか、それとも。

「早く、帰ってくればいいのにな」

「そういうわけにもいかないんだろ」

 青いシャツの腕が伸びる。

 ギターを弾かせたら様になりそうな長い指が、ためらいがちにナツの髪に触れる。

 くしゃりと。

 頭を撫でられて、ナツは一瞬だけぴくりと身体を動かす。

「……んだよ、」

「モモちゃんは、ナツちゃんに想われてて幸せだな」

「だったら帰って来いっつうんだよ」

「ナツちゃん」

「……なんだよ」

「オレ、ナツちゃん好きだよ」

 閉じていた目をぱちりと開けて、ナツは顔を上げた。

「……お前に好かれても」

「ははははは」

「……や、嘘だけど。……ありがとな」

 腕は伸ばされたままだった。

 髪はやわらかく撫でられたままだった。

 ナツは自分が飼い猫にでもなったかのような、どこか居心地の悪さを感じる。頭を撫でられるなんてことがほぼ経験のないことだったからかもしれない。

「……照れくさいな」

「あははははは。ナツちゃんも照れることなんかあんだな」

 あるよそりゃ、と言いかけてナツは唇を動かせなくなった。

 ユキの泣きそうな顔がそこにあって。

 腕は伸ばされたままだった。

 髪はやわらかく撫でられたままだった。

 遠くを見るような、ユキの顔があった。泣き出しそうな、怒り出しそうな、懐かしんでいるような、なんともいえない顔だった。

 誰を想っているんだろう。

 この男は。

 ナツは思って、けれど聞けなかった。

 ただ、髪を撫でられるままにしていることしかできなかった。

 ふと、指先から桃の香りがしたような気がした。

 そして、ユキはモモの命日には顔を出さなかった。


 6


 鰻の寝床のような細長いバーは、高校の同級生がやっている店だった。親のやっているラーメン屋と、親戚の経営するソフトクリーム屋の二階を横にぶち抜いた造り。間接照明で薄暗く、椅子の代わりにひとり掛けのソファをいちいち置いてあるので、そう座席数はない。照明が緑とオレンジで構成されている。秘密基地みたいな雰囲気だ。

「モスコミュール」

「おお、ナツにしては洒落たもん飲むじゃん」

「……ビールでいい」

「拗ねるなって、ちゃんと銅のマグカップあるぜ」

「なんだそりゃ」

「本式」

「ふうん」

 九月は気がつくとすり抜けている。八月のうだる暑さは永遠かと思われたが、そうでもなかった。あの季節も、結局さっさと振り返ることもなく通り過ぎる。

 残暑は昼間にまだまだ残る。太陽は黄色く、オレンジ色に時折燃えてアスファルトを舐める。溶かす。陽炎は昇る、幻を見せたくて仕方がないらしい。

「仕事?」

「今日は終わった」

「忙しい?」

「まあまあ」

 深く暗い紫のドレスシャツ、灰色のクロスタイ、黒のベスト。高校時代からそこそこのいい男だったけれど、夜の仕事をはじめて自分の店を持ってからますます格好良くなった奴だ、悔しいから言ってやらないけれど。

 黒の長袖シャツの胸元を開く。店内はクーラーが効いているけれど、昼間の暑さがどことなく残っていた。

「淋しい顔してんな」

「誰が」

「ナツ」

「そんなことないだろ」

 銅のマグカップは背が低くて大きく、無骨だった。ライムが縁に刺してある。

「はい、モスコミュール」

 ナツの他に客は一組しかいなかった。薄暗いのでよく分からないけれど、そう若くないカップルのようだった。

「どうしてた?」

「なにが」

「最近。ご無沙汰だったじゃん」

 ああ、とナツが口を開く前にバーテンダーが納得したような声を上げる。

「嫁さんの」

「おう」

「そうか、もしかして彼女の好物?」

「モスコミュール? いや、あいつは酒、ダメだったから」

 命日には花を買った。ユキの持ってきた薔薇はもう枯れていたけれど、捨てられずにずっと手桶に入れて水だけ気が向いたら注いでいた。おかげでアパートの風呂場には手桶がない。

 あの日、撫でられた髪が、切れない。

 なんて、女みたいなことを思うのはただの冗談だ、床屋が面倒臭いだけだ。

「最近遊んでる?」

「や、別に。仕事と、酒くらい」

「女は?」

「いない。あの、変な意味じゃなくて、たまに会ったりすんのミリーくらい」

 あああの迫力美人、と大森が言うので、迫力おかま、とナツは言い直す。

「相変わらず酒ばっか飲んでるのか」

「そんなことない」

「でもわざわざ会うんじゃないだろ、ミリーちゃん」

「うん、酒の場でたまたま会うって感じ」

 命日には実家でまた掘り返した文句を言われた。

 家族を呼ぶ前にモモを焼いたことを。

 ユキくんは、と母親に聞かれて、お盆に来たから今日は来ないと思う、と答えた。

「あらま、お盆に顔出してくれてたんだったら、うちに連れてくれば良かったのに」

「なんでだよ、モモに線香あげに来たっつのに」

「あんたねぇ、そう言う問題じゃないでしょ。どうせあんたのことだから、ろくなおもてなしもしてないでしょ。ビールでも飲ませただけなんじゃないの? うちでご馳走してあげたのに」

「スイカも出した」

「珍しいじゃないの、あんた買ったの?」

「ユキが持ってきた」

 お持たせじゃないのそれ、と母が苦笑した。お持たせの意味が分からなくて、ナツはぎこちなく笑ってみせた。

「ユキくんは、モモちゃんが亡くなったとき随分あんたのこと助けてくれたのに」

「ユキが?」

 そういえば、焼き場のことまでははっきりと覚えている。花で飾ったモモの美しくなくなってしまった顔を埋めるように飾った。焼き場の重たい扉が閉められるとき、ナツは泣かなかった。叫ばなかった。一時間半ほどお時間を頂きます、と静かな声で告げた焼き場の職員の声に、小さく頷いた。

 控室は用意されたけれど、ナツはその場を動かなかった。

 お棺になにも入れてあげられなかったことをずっと、考えていた。入れてあげるものもなにひとつとして思い浮かびはしなかったのだけど。俺を入れてやればよかったな、と一度だけ思って、そして淋しくなった。

 どれだけの高温で焼かれるのか。

 静かに、炎の音だけ聞きながら。

 モモの骨は白く太く、もろくはなかった。骨壷に係の人と納めながら、こっそりと小さな欠片を手にして反射的に口へ入れた。奥歯で噛んで飲み込んで。爪を噛んですりつぶしたときのような味がした。 

 自分が女だったら。

 モモを飲み込んで、新しい命として再び産んでやれるのに。

 男の自分では、モモを血と肉にして身体に溶け込ませるしかできない。

 そうだ。

 そこまでで記憶は途切れていた。

 葬式の日はよく晴れていた。晴れ女のモモらしく、こんな日まで綺麗な晴天だった。途切れ途切れの、記憶。

 喪主とは名ばかりで、葬儀屋と父親が坊さんだの戒名だのと走り回ってくれたらしい。

「あんた、モモちゃん亡くなってから荒れてたからねぇ」

「……記憶にない」

「あんだけお酒ばっかり飲んで毎日酔っ払って吐いてて他になんにもしてなかったら、そりゃ覚えてないでしょ。ユキくんがずっとアパートに泊まり込んでくれて、ずーっとあんたの面倒見ててくれたのよ。こっちに帰ってこいって言ったら、『モモを置いていけるかぁ!』ってまあ暴れて暴れて、手がつけられなかったもんだから」

「……マジで?」

「嘘ついてどうすんのよ」

「……そんな話、初めて聞いた」

「まさかあんたが覚えてなかったとは思わないじゃない、お母さんだって」

「……知らなかった」

「じゃああんた、ユキくんにちゃんとお礼も言ってないのね、まー、呆れた。我が息子ながら、まったく。二十歳そこそこの小僧って言うんじゃないんだから、あんた今更とか言ってないでちゃんとお礼しなさいな」

 お礼と言われても、なにをすればいいんだか。

 それより、あのアパートに自分達以外が寝泊まりしたことなんて、まったくないと思っていた。この前、ユキが泊まっていったのが初めてだと、本気で思っていた。


「初体験とかって言っちまった気がすんなぁ」

「なに、ナツなにしたんだよ」

「うん?」

「初体験って、いい響きじゃんか」

「そういう話じゃないさ」

 銅のマグカップから飲むモスコミュールは、なんだか不思議な味がした。本式なのより慣れてるものの方がいい。いつものグラスに注いで欲しい。

 飲み干してからビールを注文した、バーテンダーなんだから酒作らせてよ、と苦笑される。

「なあ、大村」

「ナツはいつになったら人の名前覚えるんだよ、お前どんだけ付き合い長いんだよ、おれは大森だっつの」

「そだっけ」

「うわっ、ひでぇ。なに?」

「うん?」

「人に話しかけといてなんだよその顔。話振ったのはそっちだぞ」

 そうだった。

 なんだったっけ、と思っているところでグラスのビールが出される。お上品な細長い、洒落たグラスだ。

「女にウケそう」

「おれが?」

「うん? まあ、女好きじゃなきゃバーテンなんてやってないだろ」

「ダー、までちゃんと言え。まあな」

「そうだ。思い出した。なあ、すっぽ抜けてる記憶ってどうやったら戻る?」

 店内はピアノだけで奏でるジャズの音楽が流れている。インストルメンタルというよりは、ピアノアレンジなのだろう。

 カップルの客は肩を寄せて頭を近くし、ひそひそと互いの空気の温度を上げている。世界はふたりのためだけにあるような、楽しそうな時期に見える。

「記憶喪失?」

「あー、っていうんじゃないんだろうけど」

「人の話?」

「いや、俺の話」

「なんだよ、酒飲んで失くしてる記憶はそのままほっぽっといた方がいいんじゃん?」

 酒飲んでた、のとは違う気もするけど飲んで吐いての繰り返しだったら酒か、とナツは困る。どう説明したものだろう。そして諦めた。別に本気で相談したいわけじゃない、なんならユキにどんな迷惑をかけたのか直接聞けばいい。

 カラン、とドアに取りつけてある重たいカウベルが鳴った。

 いらっしゃいませ、と大森がよそいきの声を出す。

「あ、ナツ!」

「うわ、また出た」

 なによ人を化け物みたいに、とねっとりとした甘い声で文句を言う、ミリーがいた。

「やだ、会いたかったのよ」

「俺は別に会いたくねぇ」

「そう言わないの。良かったわねぇ、六花ちゃん。ほら、お目当ていたわよぅ」

 誰に話してんだとナツが言おうとしたとき、ミリーの後ろからひょこりと顔が出た。ぱっちりの大きな瞳、つるりとした卵のような輪郭、アヒル口のぽてっとした唇。

 見覚えはなかったが、女の目はぎゅっと細められた。

「わあ! 本物!」

「俺の偽物は居ねぇ」

 戸惑いながらナツは言い返す。チャイナドレスのミリーが怪しく笑った。今日の奴は真っ赤な髪を両サイドでシニヨンにしている。後ろの女はシャギーの入ったロングヘアで、短いスカートにパフスリーブのブラウスを着ている。

「覚えてる? 覚えてないでしょ、ナツ」

 ミリーがにやにやしながら言った。当たり前のようにナツの隣のソファに腰を下ろす。連れの女もその隣に座った。

「ジンライムちょうだい。六花は?」

「スクリュードライバーを」

 大森がにっこりと微笑んでオーダーを受けた。ナツに片目をつぶって見せる。

「噂をしたらなんとやら、だな」

「やだ、あたしの噂してたの?」

「してたっけか……?」

「ナツー。照れなくていいのよー、あたしとあんたの仲じゃないの」

「どんな仲だよ。で?」

 そっち、誰? と聞くと、連れの女はカウンターに肘をついて身を乗り出し、ナツに顔を向けた。

「六花って言います、前にほら、撮影で会って」

「撮影? それ人違いだろ、俺そういう仕事じゃないから。なんだ、ミリーの仕事の仲間か」

「ナツと会ったじゃない、忘れちゃった? フラワーガーデンって式場であたし達撮影してて、ナツが仕事で来てて偶然会ったじゃないの」

 フラワーガーデンと聞いて、記憶が微かに繋がる。そういえば会った気がする。ミリーには。

「あの、身長別のドレスがどうとかの、」

「そうそう、覚えてるじゃないの、それよぅ。あの時の150センチモデルちゃん。ナツがすごく格好良かったから気になってたって」

「……そりゃどうも」

「なによその他人行儀な言葉」

「他人だもん」

「そうだけどさ、あんたって子は愛想ないっていうかなんというか」

 愛想がないと言われても。六花という女は随分キラキラした視線をナツに送っている。そうやって男は落としてきたんだろう。背は低いが、確かにモデルをやっているだけあって顔はそこそこ可愛らしい。けれどそれだけだ。ナツにはそれ以上の感想を抱けない。

 居心地が悪くなって、ナツはビールを飲み干す。

 まあ後はそれじゃ、などと言葉を濁して席を立とうとすると、ミリーから腕を引っ張られた。

「うわっ」

 力は男のままなので、ナツは簡単に引き戻される。

「おいこらおかま」

「おかまおかま言わないでくれる? ほら、あっちのお客さんがびっくりしてるじゃないの、ごめんなさいねー、はあーい、ミリーちゃんよ」

 ミリーが向こうのカップルにひらひらと手を振った。男性の方がぎこちなく手を振り返し、女性の方もつられる。

 なんだか可愛い。

「なんだよ、帰らせろよ」

「あんた、せっかく会いたかったって言ってくれる娘がいるのに、帰るの?」

「顔見たんだからいいだろ、なんだよ」

「まあまあ。一杯奢ったげるから」

「いらねぇ、ミリーの奢りは怖えぇ」

「んまあ失礼しちゃう。そんなこと言うと、後は若いおふたりで、って先に失礼しちゃうわよ」

「ごめんなさい。って、俺が帰りたいんだよ」

「そんな急いで帰ることないでしょうが、待ってる人がいるわけでもないのに」

 にやりとしてミリーが言う。

 わざと言っているのだと分かったから、ナツは怒りを覚えなかった。けれど深く傷ついた。ミリーはモモのことを知っているのに。ああけれど、とナツは思う。俺がモモをどれだけ好きだったかは知らないかもしれない。

 ナツは力を抜いてソファに座り直した。

 唇は一文字に結ばれていて、そうすると横顔の鋭い冷たさが際立った。

「ブランデー」

「なんにする?」

「銘柄はなんでも」

「分かった、任せろ」

 ピアノの音が跳ねる。キンキンとした余韻を残す。存在を見せつけてなんぼ、というような。耳が拾う。意識をそちらに飛ばしているせいだ。

「ナツさん、って呼んでいいですか?」

「うん、まあ……」

 嫌ですとも言えずナツは承諾せざるを得ない。二十歳そこそこといったところだろう。若さがまぶしい。でもだからといってそのまぶしさを自分がどうこうしたいとは思わない。

「ナツさんって、ナツ、だけなんです?」

「いや、名前の上だけ」

 ナツヒロ、という名前を口にしたくなくて誤魔化した。

 帰りたい。

 帰りたい、帰ってモモとビールを飲みたい。

 慣れている仲の人間には口が悪いので誤解されがちだが、ナツは基本的に人見知りなのだ。

 帰りたい。

 帰りたい。

 薔薇の棘に守られたあの水色のアパートへ。モモとの小さなお城へ。

「ナツさんって、彼女さんいるんです?」

「います」

「嘘つきなさいよ、あんた今フリーでしょ」

「俺の妻はモモだけだ、他の女には興味がねぇ」

「モモちゃんは確かにいい女だったけど、でもさ、ナツ。生きてる人間に恋しないと、あんたも死んでるのと同じよ?」

「なら俺は生きてなくていいさ」

 過去を引きずってどうなる。前を向かなければ、進めなくなる。足元はいつだって硬い大地とは限らない、気がつけば底なしの泥沼に変わっていることだってある。死んだ人間をいつまでも想っていたって意味がない。それはもう戻らないのだから。

 誰にだって言われる、周囲はそう言う、失恋と何が違うのかとまで言う、想いの届かない相手を追いかけるのは愚なことなのだと、想っているのはいい、それでも忘れることも大事だと、過去は過去で綺麗な箱にしまっておいて、手元に置いておくのもいいけれど眺めるのは時々にしないか、と。

 みんな、簡単に言う。

 ナツは不思議だ、周りの人間はみんな恋なんて簡単なのだという。相手は運命の人ではなく、たまたま傍にいた人を運命と信じて、もしくは勘違いしてくっつくだけの話だと。だから替えはいくらでも利く。女なんて、もしくは男なんて、星の数ほどいる。あれがダメならこれでもいい、本当のところそんなに違いはないのだから、適当なところで手を打つのも間違いではない。だから恋なんて簡単だ、人恋しいふたりが出会えばお手軽にそれは生まれる、運命だの永遠だのとありもしない言葉で綺麗にラッピングして、酔いが覚めるまで世界を縮小してどっぷりと溺れていればそれが恋なのだと。

 それのなにが恋なのか、さっぱり分からないナツはみんなから苦笑される。

 変なところ純粋だね。

 妙なところで子供だ。

 結婚なんてしてごらん。

 子供なんてできてごらん。

 恋なんてただの幻、捕まえたつもりでも手の中をすり抜けていく煙。

 一度見失ったらそれはもう指先すら掠らず逃げてゆく淡い夢。

 そんなものが唯一無二なら人は狂う。だから替えが利く。そういうふうにできている。恋なんて簡単だ、恋なんて誰とでもできる、恋なんて。恋なんて。恋なんて。

「俺の魂は半分をモモが天国へ持って行った、今の俺はただの抜け殻とそう変わりはない。生きてる人間を好きにならなきゃ死んでるのと同じだ? じゃあ今すぐ死んだって俺は構わない、俺はモモしか好きじゃない、それが頑なだとか依怙地だとか嘘だとか言うんならそれでいいさ、でも俺は他の誰も好きにならない。俺は恋が唯一無二だと信じてる、モモへの想いだけがこの世の真実だ、他の女はいらない、欲しくない、女千人殺してモモが生き返るんなら俺は躊躇いなく見ず知らずの女だって自分の親だって殺す」

 胸にためていた言葉を一度に吐き出し切ると、ナツはくらりと眩暈を覚えた。こんなに長く喋ったことは多分なかった。

 カウンターに出されていたブランデーを一気に煽った。

 喉が焼ける。心臓が跳ねる。ミリーが微笑む。

「ね、六花。こういう男なのよ」

 目の大きな若いミリーの連れは、ただ圧倒されたようにまばたきも忘れてナツを見つめているだけだった。

「昔は女なら誰でもいい適当な奴だったのよ。でも運命の女神様に出会っちゃってね。聞いた? こいつ、自分の女神のためなら罪もない女を千人殺しても平気なのよ。ね、あたしが積極的に会わせなかった理由、分かるでしょ?」

「……なんだよ」

「ごめんね、あたしもモモちゃん大好きなのよ」

 六花という女がナツに恋してるのを、諦めさせようとしてわざと焚きつけた、と考えればいいのか。面倒臭いことすんなよ、とナツは思うけれどもう何も言わない。喋りすぎた。頭がくらくらする。

「帰る……」

「ごめんって、悪かったわよ」

「違う、酔った」

「あら、珍し」

「俺は酔うんだよ、ザルなのはユキだ。あいつはいくら飲ませても酔わねぇ」

 ユキちゃん元気? と聞かれて、知らないと首を横に振る。 

 知らない。元気だと思う。よく分からない。会っていない。そういえば今、あいつはどこにいるんだろう。

「ミリーのが会ってんじゃないのか?」

「メールするくらいよ」

「そうなん?」

「だって、ユキちゃんってナツのことばっか好きじゃない」

 なんだそりゃ、とナツが眉間にしわを寄せた。

「違う?」

「男に好かれるとか嫌われるとか……よく分かんねぇ。気が合えば一緒にいるってだけの話だろ、男の場合」

「ナツは鈍いから」

「なんだよ陸男」

「ちょっと、その名前で呼ばないでよ!」

「お前も俺のこと、好きなんじゃねーの?」

 んまあ! とミリーが目を剥く。うぬぼれもいい加減にしなさいよ! と怒られる。ナツは悪戯小僧の顔で笑う。

「今度また飲もうぜ」

 ミリーに言って立ち上がる。

「ごめんな」

 その連れにほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をする。

「大村、勘定して」

「大森だっつの、まったく」

 文句を言いながらも端数をまけてくれた。また来るよ、と手をひらひらさせてナツは店を出る。

「運命の女神様と出会っちゃう、ってのも、実際のところ良し悪しだわよねぇ」

 呟いたミリーの言葉は、ナツにもちろん届かなかった。


 酔った。

 酔った、これは酔った。

 でも酒にではなく、ただ単に脳へ酸素が行っていないだけなのかもしれない。

 帰り道で公園の便所に寄って、長い用を足した。

 足元も頭もふらふらするので、仕方なくベンチに座る。背の高い、そしてそう明るくはない電灯がひとつ。砂場とすべり台しかない。自販機、と周りを見回したけれど、視界には入ってこなかった。なんだよ、と悪態を吐く。時間を見ようと携帯を取り出した。

 画面を眺めて、なんとなく電話帳を呼び出す。

 なんとなく。

 なんとなく。

 ユキの携帯番号が、画面に現れる。

 酔った。

 本当に、酔った。

 白っぽく光る画面がにじむ。揺れる。

 モモの番号も入ったままだ。一年ほどは契約したままだったが、携帯の本体だけを手元に残して解約した。モモの死を知らない人から電話がかかってきたときに、伝えなくてはならない言葉を口にするのが辛すぎたからだった。

 もう今は使われていない番号。

 それはナツの携帯電話の中で眠り続けている。呼び出すことはない。呼び出せば、どうして繋がらないのかと叫んでしまいそうになるから。

 指先が勝手に動いた。

 コールボタンを押す、コール音が小さな沈黙を置いてから響く。

 長い長い時間が流れた。それはほんの一瞬でもあり、永遠の一歩手前でもあった。秋の月は一番美しいのだという、空が澄んでいて綺麗に見えるのだと。モモから聞いた、月は秋の季語なのだと。他の季節にも月はあるじゃないかとナツが言うと、「確かね、春は朧月とかでしょ、夏は夏の月で、冬は寒月とか

凍月とかいう言葉があったはず。でも純粋に『月』なだけなのは、秋なのよ」とモモは答えた。

 秋の月。

 夏の月はもっと遠くにあった気がする。九月も半ばを過ぎようとする秋の月は、随分近くにあって親しみが感じられた。もっとも、月の方では勝手に親しみを持つなと言いそうだけれど。

『――ナツちゃん?』

 ぼんやりと眺めていた携帯が繋がった。ナツはゆっくりと耳元に運ぶ。

『――ナツちゃん?』

「……おう」

『どうした?』

 どこにいるんだろう。空間は繋がっても、相手がどこにいるのかは分からない。不思議なものだ。声だけが届く。

「どうもしない」

 ユキのひっそりした雰囲気が耳に染みる。薄く笑っているのだと、顔も見えないのに分かった。

『ナツちゃん』

「なんだよ」

 今何時なんだろう。飲みはじめたのもそんなに早くなかった。九時を過ぎていたと思う。ミリーとその連れと話して。ほんの少し前のことなのに、昨日のように遠い過去みたいだ。

『飲んでるんだろう』

「うん」

『素直すぎるな』

「嘘ついても仕方ないだろ」

 深い水の底で話しているような、静かな声だ。小さな違和感があった。ユキ? と思わず名を呼ぶ。

『……なに?』

「なんか、変だな?」

『ナツちゃん』

 透き通った青い水の底。ダムだとか湖だとか、ああいう深くたくさんの水を湛えているところの、その底から吐き出されるような声。

 元気がない、というか、覇気がない、というか。

 静かに、病んでいるような。

 ――病んでいる?

 ナツは鼻の奥で桃の香りが広がる錯覚に陥った。桃の香り。熟れてゆく、薄桃色の果実。

「ユキ、お前具合悪いのか?」

 繋がっているはずの空間なのに、返事は届かない。

 酔いが急激に覚めるのを、感じる。

「ユキ?」

 夜の風が吹く。今何時だろう。ナツはまたそんなことを思う。昼間の熱をすっかり払い落した深夜の風に吹かれて、体温をさらわれそうになる。

「ユキ!」

『――ナツちゃん、』

 ごめん、と小さく言われて、電話は切られた。

 通話終了の虚しい音が残る。

 ナツの胸が騒ぐ。嫌な感じに。でもどうして。夜中に電話をかけたって、迷惑なら出なければいいだけの話だ、そういう身勝手なことを思う、そうじゃない、今どうして電話は切られたのか。ごめん、の意味が分からなくて混乱する、それとも俺は酔ってユキに電話をかけた気になっていただけなのか、本当は脳はもう寝ているのか。

 ナツは再び携帯のコールボタンを押したが、それはユキとの空間を繋げてくれなかった。電波の届かないところにいるか、電源が切られているため、とやわらかな女の声が流れるだけだ。

「――ユキ?」

 どこにいるんだろう。

 なにをしているんだろう。

 繋がらない電話のひとつで、どうしてこうも不安になるんだろう。

「ユキ――、」

 夜中の公園でベンチに座って頭を落とす、うなだれて携帯を両手に握り締めて首を折る。そして薄く笑う。

 失恋した男と言うのでもあるまいに。

 でも淋しい。

 淋しい。

「……淋しい、」

 淋しい、なんて。

 口にしたのはどれぐらい振りだろう。自分以外で一番モモと深く結びついている男。ユキに拒否されると、モモからも切り捨てられたように感じる。それはただの被害妄想だろうか。

「酔ってんな、俺……」

 帰ろう、とナツはつぶやく。カラスは鳴いてないけど、帰ろう。帰ろう。

「帰ろ……」

 淋しいのは、人恋しいのは、夏が終わろうとしているからだ。

 難儀なものだ。人は気温の変化や季節の移ろいですぐに気が弱くなったりする。哀しくなったりする。

 面倒臭い。

 生きていることも、季節が変わっていくことも。

 同じことの繰り返しのはずなのに日々は少しずつきちんと進む。いつの間にか、気がつけば振り返らないといけなくなっている。時間を止めてしまった者を、忘れてはいないはずなのに置いてきてしまっている。過去という場所へ。一緒に、進もうと約束したはずなのに。手を、引いているつもりだったのに。離した覚えは、ないはずなのに。

 振り返る。

 過去でモモはやさしく微笑んで手を振っていてくれる。

 必ずそこにいる。

 安心する、でも。

 前を向くと、彼女の顔は見えなくなる。歩いて行かなければならないのに。進まないといけないのに。そして、後ろばかりを振り返っているわけにはいかないのに。

 どうすればいいんだろう。ナツは頭を抱える。

 誰か助けて。

 でも、誰かって、誰。

 モモは過去でやさしく手を振っている。ナツのことを確実に見つめていてくれて、もう誰のものにもならない。どこにも行かない。ナツはこれ以上モモを失くすことがない。それは、どこにも行かず、動くことがない。失くさないでいられるけれど、同じ立ち位置で抱きしめることももう、できない。

 淋しい。

 それが、ひどく淋しい。

 とても。

 とても。

 とても。

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