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やわらかな記憶の海に漂う。濃度が高いのかもしれない、身体が浮く。
どうせなら沈みたい。どっぷりと。
ゼリーのように粘度の高い記憶を肺の中にまで浸して、窒息したい。思い出すのはあの娘の笑顔。そればかり。シーンを変えて、引っ張り出す。すべて、すべてが君の、笑顔。息を止めたい。呼吸を忘れて、気がついたら死んでいたい。やさしい記憶に侵食されて、絡め取られて動けなくさせられて、沈んで行きたい。再び浮上などせずに。
飲み込まれたい。
沈みたい。
溺れたい。
窒息したい。
記憶の中だけで呼吸をする彼女にくちづけたい。くちづけたらそのまま戻ってきたくない。神様をぶっ殺したら、あの娘は戻ってくるんだろうか、でも神様って誰。どこにいるの。
そんなことをつらつらと思いながらまどろみの中にいる。
目が覚めないでくれと、今までに何度願ったことだろう。
いい匂いがする。
味噌汁の匂いだ。
モモは朝に弱いナツのために、小さなおにぎりと味噌汁、そして細かく刻んだ野菜がどっさりと入れられた玉子焼きなんかをよく作ってくれた。もしくは同じく野菜をこれでもかと入れた厚焼き玉子を挟み込んだサンドイッチ。ケチャップとマヨネーズとがかけられていて、二日酔いの朝には正直ちょっときつかったやつ。
懐かしい、という自分の呟きで覚醒する。
味噌汁の匂いは夢でなかった。
ぼやけた視界が気持ち悪い。首を横に振って頭の中の靄を振り払おうとする。
深い青色をした手触りのいいカーテン。セミダブルのベッドには同じ色のカバーがつけられたロングピロー。
「俺ん家じゃん……」
シャワーは浴びたらしい、昨日着ていた黒いシャツは足元に脱ぎ捨てられている。飲みすぎたはずはないのに頭が重い。ミリーがギネスに変なもんでも入れたんじゃないかと、人聞きの悪いことを想像する。
六月には咲き乱れ、自己主張しすぎる女達のように我も我もとだらしなく花びらを全開にしていた薔薇達も、最近の暑さで少しずつ大人しくなっているらしい。香りは一時期よりも漂わない。それでも秋になればまた復活するのだと確か大家が言っていた。薔薇は種類と季節があるのだと。
「ナツちゃん、そろそろ起きろよ。今日仕事だろ? 金曜だけど、休みってことある?」
「うるせーな、もう目は覚めてる、って、……え?」
ミリーと同じくらいの長身なのに、薄い胸板とTシャツからひょろりと伸びた白い腕のせいでもっと背が高く見える男。ぎこちない笑顔しか作れなさそうな唇、細くやさしげな目。
「……ユキ?」
まったく似ていない気もするのに、彼女をどことなく思い出させるのは、雰囲気が似ているからなのか。
「昨日も疑問系だった、ナツちゃん」
モモの、弟。
「随分飲んでたけど、いつも?」
「お前、いつこっち来たんだよ」
「だから、昨日グローで会ったじゃん。ミリーちゃんとさ」
「ミリー?」
「……ミリーちゃんと飲んだのは、覚えてる?」
覚えてる。というか、一人で飲んでいたらあいつも来ていて、勝手に寄ってきて。そういえば電話がかかってきていた、それで誰か来るとか言ってて、それを待つんで酒を飲めと言われていて、ビールにするって言ったのにミリーがラム酒を持ってきた気がする。
「なんで、居んの?」
「昨日広島から出てきた」
「広島? お前、広島にいたの?」
いたよ、とユキが笑う。ナツちゃんは相変わらず人のことには興味がないね、と。
「なにしてたんだ?」
「就職してたに決まってるじゃん、遊びに行ってたんじゃないんだからさ」
「マジでか。お前、仕事してたのか」
「いつまでも学生じゃないよ」
「そうか……モモと結婚した時、お前まだ学生だったよな……」
月日の経つのは早いものだ。そう言ったら、ジジイみたいだとまた笑われた。
笑うとユキはモモの顔によく似る。それでナツは、少しだけ胸が痛くなる。
「味噌汁、飲む?」
「おう」
「二日酔いだろうなと思って、シジミのにしといた」
「気が利くな。つーか、うちの冷蔵庫何にも入ってなかったろ」
「入ってないなんてもんじゃないよ、ナツちゃん。ビールしかなかったって。普通、せめてケチャップとかマヨネーズとか、調味料の類は賞味期限切れでも入ってるもんなのに」
ユキは近くの二十四時間スーパーでいろいろと買い物をしたらしかった。味噌も醤油もなんにもないんだから、と呆れた顔で言われる。金使わせたな、とナツは謝った。
「そういうことじゃないって」
ユキの声は長身の割にそう低くなく、高すぎるわけではないがやわらかい。
使いかけの味噌、醤油、ごま油。酢も砂糖も塩も。
ナツメグだのシナモンだの、可愛らしいポップな容器に入った香辛料。
棚にしまわれた切干大根やら高野豆腐やらの乾物。
ツナやあずき、キドニービーンズ、カニにコーンにトマト、白桃黄桃の缶詰。
マカロニやパスタ、うどんにそうめんなどの乾麺。
小さな戸棚に、それらは行儀よくきちんと詰め込まれていた。モモが死んだあとも。使われることを信じて疑わず、黙ってそこに置かれていた。
気配は色濃く残っているのに、どうしても覆せない彼女の不在。
部屋はずっとそのままだった。どう手をつけていいのか分からなかった。彼女の日常の寄せ集めを崩してしまったら、取り返しがつかないことになりそうだった。
思い立ったのは、一年後。
すべてすべてなぎ払うようにゴミ袋へ詰め込んだ。分別なんて頭はなかった、中身もすべて入ったまま、気付けば頬が濡れていた。
わたしのものを勝手に捨てて、と。
モモが怒って化けて出てくればいいと思った、幽霊でも会いたかった。
幽霊になって出てきたら、いそいで靴を履かせてしまって、地上に縛りつけたかったから、彼女の靴は今でも捨てられずに靴箱へ並べられている。ローヒールの黒いパンプスと、フリンジのついた茶色いブーツと、子供の玩具みたいなオレンジ色をしたサンダルの三足しか彼女は持っていなかったけれど。
「ナツちゃん、米すらないし」
「お前、米も買ったのか」
「あ、レトルトのにすれば良かったか、二キロの買っちゃったよ」
「俺、米なんかわざわざ炊かないぞ」
「そっか、あー、失敗した」
全部炊いておにぎりにして冷凍しとこうか、と言われたけれど、冷凍庫が米で埋め尽くされても困るので遠慮しておく。
「なんだよユキ、随分所帯染みてんな」
「貧乏人なんだよ」
「金ないのか」
「いや、そこまでは困ってない。ナツちゃん飯食って仕事行かないといけなくない?」
あ、と声が出る。
何時だ、と聞きながら壁時計を見る。
七時半過ぎ。
「飯食ったら出る」
「歯も磨きなよ」
「……モモみたいだな」
そうか? とユキが微妙な顔をした。
暇ならついてくるか、と、ナツは何も考えないまま口にしていた。
ひと抱えはある銀色のボウルに、三十個の卵を割っていく。
よくある町の和洋菓子店で、工場とは名ばかりの作業台とオープンが置かれている厨房で働くのは、ナツと父と祖父だ。
祖父が大きな木べらで鍋のあんこをかき混ぜている。
暑くなってきたので、水羊羹が良く売れる。
割った卵を泡だて器で混ぜ、一斗缶から蜂蜜を汲んで入れる。とかしたバターを入れて、再び混ぜはじめる。
できれば手作業で、という祖父の意思で、機械はあまり入れていない。だから、菓子作りと言っても結構な重労働だ。
白い作業着の胸元には、葉山製菓と紺色の糸で刺しゅうがしてある。足元は白い長靴。頭には、髪をすっぽりと覆う格好の良くない白い帽子で、てっぺんがメッシュになっている。口元にはマスク。
全身真っ白だ。
飲み過ぎの頭で甘い香りに包まれるのは辛い。辛いけれど二日酔いなんて言ったら祖父に殴られる。ナツの家は、父より祖父の方が強い。
「マドレーヌ二百四十だからなー、間違えんなよー」
でも父も体育会系で、ナツに似た温和とは言い難い目付きをしている。学生時代はずっと柔道をやっていたというが、同じくずっと剣道をやっていた祖父とどちらの武術が強いのかで言い争いになり、結局ナツはどちらもしないまま育った。
「なんでそんなに」
「結婚式の引き出物に使うんだと」
シュークリームの生地を鉄板に絞り出しながら、父はナツの方を向きもせずに答えた。
厚くて指の短い父の手から、ショートケーキの生クリームが絞られ、チョコレートケーキを飾るチョコが削られる。バニラビーンズと生クリームのたっぷり混ぜられた淡い黄色のカスタードクリームが作られる。魔法みたいだ、と、三十を過ぎた今でもナツは思う。
「ユキヒコくん、いつまでいるんだって?」
「あ、聞いてない」
「今夜もいるんなら、うちで飯食ってったらどうだって誘え」
「親父が誘えよ」
「母ちゃんに刺身買いに行かせるか」
「人の話聞いてんのかよ」
仕事中は私語厳禁なわけでもないので、なにかあれば言葉くらい交わす。けれど男親となどそうぺちゃくちゃと話すこともないので、一日口を聞かないこともある。
「なんだ、ユキちゃん飯食ってくのか」
祖父が嬉しそうな声で混ざった。
父も祖父も、モモのことが大好きだったので、その弟であるユキのことも好きらしい。モモが亡くなってからはそう顔を出すことがなくなったが、付き合っている時や結婚した後はちょこちょことやってきて、和菓子だの洋菓子だのをつまみに酒を飲んで行った。
そういえばあいつは変なもん食いながら飲む奴だったよな、とナツは思い出す。
昨日はなにを飲んでいたんだろう。
酒は飲んでも飲んでもちっとも酔わないので、水を飲むのと変わらないという奴だ。つるんとした顔をして、顔色ひとつ変えないで。
「ユキちゃん呼んでやれよ」
祖父がブルドックみたいな顔で精一杯にこにこしながら言うので、ナツは作業の手を止めて店舗へと続くすりガラスの引き戸を開けた。
「ユキ」
ショーケースのこちら側にいる母が振り向く。
「おばあちゃんとお茶飲んでるよ」
「酒じゃなくて」
「どうして昼間からお酒飲まなきゃなんないの、あんたじゃあるまいし」
あいつは俺より酒強いよ、という反論は意味がなさそうなので、「俺だって昼間からなんか酒飲まねーよ」と言い返す。
「裏?」
「裏」
母屋のことをナツ達は裏と呼んだ。
どうするかな、と一瞬考えたが、呼びに行く。
「どうしたの」
「じいちゃんがユキ呼べって」
「なんでまた」
「知らん。好きだからじゃね?」
ああ、と母が納得の色しかない相槌を打った。
「お母さんも好きよ、ユキくん」
「うちの家族はみんな、俺よりユキが好きだもんな」
自嘲的に言ったのに、当たり前じゃない、と言われてしまってナツは閉口する。
ユキの笑った顔が、モモに似ているからなのだろう。
そして、ナツでさえ触れられることのない過去のモモと繋がっていて、その話を聞けるからなのだろう。ユキは確かに実の息子より可愛がられている気がする。
なにより、モモがこの家族に愛されていた。
結婚してから、結局モモはナツの実家で働くことはなく、駅前の服屋に勤めていた。母親が早く亡くなったからと、彼女はナツの母親から料理の作り方を教わったり、祖母から縫物を教わったりしていた。女親に好かれれば、男親なんてちょろいもんだ。娘ができた孫娘ができたと父も祖父も浮かれていて、せっかく所帯を別にしたというのによく晩飯に呼ばれた。
モモは賑やかなのも好きだと、一度も断ることがなかった。
仕事帰りに買ったから、と、トマトだの南瓜だのストールだのとプレゼントを携えて。そしてナツの家族は、「うちの馬鹿息子より気が利く」と喜んだのだった。
ナツの母親が作る、トマトの中身をくりぬいてポテトサラダを詰めた料理が、モモは好きだと言った。
「ユキ、じいちゃんが顔見たいって」
母屋の居間でユキは祖母とお茶を飲んでいた。売れ残りのマドレーヌがお茶請けとして出されていた。
「なんだい、じいさんなんか放っとけ」
販売用のユニフォーム的扱いの、胸元にやはり「葉山製菓」と刺繍の入った白いかっぽう着姿の祖母が文句を言う。
「ばあちゃんこそ仕事しろよ」
「政子さんがいるだろ」
「母ちゃんはいるけどさ、客も来てなくて暇だけどさ」
「あんたこそ仕事は」
「だから、じいちゃんにユキを呼んで来いって言われたんだよ」
「じいさんなんか放っとけ」
さっきと同じことを繰り返す。それを見ながら、ユキがげらげらと笑った。座卓の丸テーブルを前に、薄青い座布団の上で長い脚を持て余すように正座で折りたたんでいる。
「足崩せば、痺れるから」
「ばあちゃんも言ってんだけどな、ユキちゃん礼儀正しくて。胡坐でもなんでもかけばいいって言ってんだけどな」
「変なとこで遠慮してんなよ、で、じいちゃんが顔見たいってさ」
「じいさんなんか放っとけ!」
「ばあちゃん……」
モモが亡くなってから、ナツでさえユキと顔を合わせたのは二度ほどだった。葬儀のときと、一周忌のときと。ユキはずっと白い顔をして目を合わせなかった。そんなことを、ふと思い出した。
「そういや、お前三回忌に来なかったな」
「……うん。仕事の都合で、ちょっと」
「おい、別に責めてるんじゃないんだからさ、そんな顔すんなよ」
急に叱られた子供のようにしょげかえったユキに、ナツは慌てる。
「ああ、親父がさ。飯食ってくかって。ユキが食ってくなら酒盛りするつもりらしいぞ、お前どうする?」
空気を変えたくて慌てて話を振った。
「ナツちゃんは?」
「俺? 俺は、別に」
「ナツは最近ちっともうちで飯食わんのよ」
祖母が口を挟んだ。
ナツちゃんも食べて行こうよ、とユキが誘う。
「飯……飯な、」
「ナツちゃんのお母さんのご飯、美味いじゃん」
「あー、まあ、でもさ、あんまし酒飲むと怒られんだよね」
「飲み過ぎなければいいんだろ?」
「ザルなお前と一緒にすんなよ、こっちは飲めば酔うけど酒は好きなんだ」
「なにそれ、飲み過ぎます宣言?」
どっちが誘っているのか分からなくなった。祖母がクリーム色の急須で緑茶を注ぐ。
「おばあちゃん、オレちょっとおじいちゃんとこ顔出してくるね」
「じいさんなんて放っときゃいいのに」
「ご飯食べてくよ、遠慮なくお邪魔してく」
「そうか、じゃあ酒用意しとくでな。ビールか。日本酒か」
「なんでも飲むよ」
ユキの穏やかな声と、祖母の嬉しそうな声を聞きながら、こいつが息子だったらうちの家族は嬉しいんだろうな、とナツはそんなことを思う。
「そいで、ナツは食ってくんかい」
「おいおい、ばあちゃんひどいよ……」
ユキがまた爆笑しながら立ち上がった。背の高い彼がいきなり立つと、影が伸びたように暗くなる。
「っていうか、ナツちゃん仕事着似合わないよね」
「なんだよ、うるせー」
「働いてる人みたい」
「働いてる人なんだよ、バカにしてんのか」
「ナツちゃん」
「なんだよ」
「今日、泊まってってもいい?」
好きにしろよ、と答えながら、ユキはここではなくあの水色の薔薇に囲まれたアパートのことを言っているんだろうな、と思った。
そういえば、モモが死んでから、いや、生きているときでさえも、誰かを泊めたことなんてなかったことを思い出す。
「お前、昨日初体験だぜ」
「は? なに? は、初体験?」
ユキが妙に焦った声を出したので、なんだお前、と今度はナツが笑ってやった。
飲んだ。
食った。
とっておき、という日本酒の一升瓶を父と祖父が喜んで出してきて、ユキが全部空にした。
母と祖母は楽しそうに鍋いっぱいの煮物を作り、茄子や鶏肉の揚げびたしを作り、唐揚げを山のように揚げて、魚を焼いて刺身も買ってきた。それこそ盆と正月が一度に来たような騒ぎになった。
飲んだ。
食った。
「嘘じゃん」
「んあ?」
「ナツちゃん飲んでばっかでちっとも食ってなかったよ」
そおか? と自分の声が妙に間延びした。夏の夜すべてが熱帯夜になるわけではない。風が吹けば剥き出しの腕が涼しさを感じるくらいの日だってある。
実家からぽつぽつ歩きながら、水色のアパートまでナツとユキでふらふらと歩いていた。
十二時を回っていた。二十四時なんだよ、とナツは誰に言うとでもなく口にした。
「シンデレラって、最後幸せになったんだっけか? なあ」
「ガラスの靴履けて王子と結婚したんじゃなかった?」
「ガラスの靴って、歩けんの? 足痛くならねーの? 電柱蹴ったら砕けんじゃねーの?」
「シンデレラは電柱蹴らないよ、多分」
「お嬢さまだからか」
「そうだな、お嬢さまだ」
「お姫さまじゃないのか」
「王子様と結婚したから、お姫さまにはなったんじゃない?」
「お姫さまって何飲むんだ? やっぱワインか?」
知らない、とユキが笑い出した。右手に、ナツの父親が無理矢理持たせた緑色の一升瓶を下げている。
「酔っ払ってるよ」
「ユキがか? 嘘つくなよ」
「オレは酔わないよ、ナツちゃんが酔ってんだよ」
「酒瓶下げてるお前のがアル中みたいだぜ」
「ナツちゃん、ふらふらだよ」
「大丈夫だ! ちっとも酔ってねぇ!」
小さな公園の前を通りかかって、すべり台とブランコがあるのを見ると、ナツは嬉々として中へ入った。
すべり台乗ろうぜー! と、ブランコに腰を下ろす。
「それ、ブランコって言うんだけど」
「俺、ブランコって言ったぜ?」
ため息を吐くユキには構わず、ナツは地面を力いっぱい蹴ってブランコを漕ぎはじめる。
「ははは、すげー、おおっ、意外と怖いかも、ひゃはっ、おー、すげー!」
「ナツちゃんは完全な酔っ払いだ」
ブランコの周りをぐるりと囲んでいる鉄の太い柵に腰を下ろし、ユキが呆れた顔をした。
「な、シンデレラとさ、白雪姫とさ、あとなんだろ、パンツ見せてくれるっつったらどれがいい? あ、人魚姫? 人魚姫ってパンツ穿いてたか?」
「どのパンツも興味ない。ナツちゃん、欲求不満なんじゃないの?」
ブランコは想像していたよりもスピードが出た。下を向いていると、地面が近付いて来て離れてまた近付いて、そして頭がくらくらする。
「バカ言え、欲求なんて俺はもう超越したよ」
スピードを上げたままのブランコで、ナツは立ち上がった。鎖を握る手に力を入れる。小さな木製の座る部分に立つと、ブランコを支える鉄パイプに頭がつきそうになった。
本人は簡単に体勢を変えたつもりだったが、傍から見ていたら随分危なっかしかったらしく、ユキがはらはらした様子で腰を浮かせていた。
「なんだよ、超越って」
「モモしか抱きたい女はいないんだからさ、欲情もしないってことさ」
びゅんびゅんと耳元で風が切れて悲鳴を上げる。
負けずにとナツは大きな声を出す。
月は歪な形で空に浮かんでいた。満月に近いせいか、夜空は群青色に染まっている。
「――ナツちゃん、モモちゃんのこと好きだった?」
「おいー、野暮なこと聞くなよ」
そして過去形にするなよ。
ナツは軽く膝を曲げて、ブランコのスピードを上げていく。
「神様ぶん殴ってでも、今からだって取り戻したいぜ」
夜の空気がナツの周りでだけ風になる。
ぐんぐんとこのままスピードを上げて、空まで届くくらい漕いでそしてジャンプしたら、彼女の居る場所に行けるのだろうか。
まさか届くとは思ってもいなかったけれど、飛んでみるのはいい思い付きの気がして、ナツは曲げた膝に力を込めた。いち、にの、と声には出さずタイミングを計る。
蹴った。
がしゃん、と音をさせて、手放された鎖が大きくしなる。
「ナツちゃん!」
ユキも地面を蹴る。一升瓶が転がった。
着地はしたものの、よろけてナツは土に手をつく。動きが止まったわけではない無人のブランコが、その頭を目掛けて突っ込んでくる。
影が目の前に走った。
なんだ、とナツが顔を上げる。
ユキが手を伸ばし、ひどく大きな音をさせてブランコの鎖を掴んで勢いを殺していた。
「――危ないって、」
「わはははは、悪い悪い。ぶつかってたら頭割れてたかな」
「笑い事じゃないっての、まったく……」
ユキはブランコから手を放すと、ナツの腕を取る。肘の少し上を掴んで、ぐんにゃりとしているナツを起こした。
「うおー、酔いが回った」
「バカだろ、ナツちゃん。なにしてんだよ」
「なんだよ、怒んなよ、やさしくしろよ」
「やさしくしたくないわ、バカ!」
「なんだよ、仮にも俺はお前の義理の兄貴だぜ?」
「バカ!」
「なんだよ、バカバカバカバカって、俺はそんなにバカかよ」
くくく、と喉を鳴らしてナツが笑う。そして再び力を抜いた。ユキを引っ張る形で地面に倒れ込み、ごろりと転がる。
背中に硬い感触。
ユキは呆れたように鼻を鳴らして、仕方なくその隣に膝をつく。
ブランコの鉄っぽい匂いがする。自分の手からだと気付き、ナツが指先を鼻に近づけた。
「飛べるかと思ったんだよ」
「どこへ」
「モモんところ」
ユキが言葉を失くしたのが分かった。だから先に謝った。ごめん、と。
「別に、死にたいわけじゃないぜ?」
「……何年経ったと思ってんだよ」
「何年経ったら忘れられんだ?」
「それは、」
「失恋したら相手と付き合ってたのと同じ期間は苦しいっていうらしいけどな、俺はあいつに俺の一生を捧げるって約束しちまったんだ。だから、一生苦しくてあいつに会いたいままだ、他の女なんか抱けねぇ」
人差し指、中指、薬指。
鉄の匂いがする。
それは血の匂いに似ている。
心が流す、血の匂いだ。
「モモが俺の『好き』って感情、みんなもってっちまったからな」
「……再婚しろとか、言わない? 家の人か」
「言わねぇよ、モモのこと親父もお袋もじいちゃんばあちゃんも大好きだったからな」
「でも、羽山和洋菓子店は……」
「お前、人ん家の後継者問題まで心配してくれんなよ。さすがモモの弟だな。いい奴だな、お前。でもま、いいんだ、そういうんなら俺しか作んなかった親父とお袋にも責任はあんだからさ」
月が明るい。
けれど歪だ。
ナツは自分が泣くんじゃないかと思ったけれど、鼻の奥が痛くなっただけで涙は出てこなかった。モモが死んだとき、目が溶けるくらい泣いたのだ。もう残ってないよな、と自嘲的な笑みが唇の端に浮かぶ。
群青の空。
星は出ていない。月が明るすぎるのだろう。
「……ナツちゃん」
「なんだよ」
「オレがモモちゃんになったら、嬉しい?」
「気持ち悪い。そんなでけーモモは要らねー」
180センチ越えのモモなんかがいてたまるか、とナツが吐き捨てる。あははは、とユキが乾いた笑い声を上げた。
「大体お前がモモになってどうすんだよ、女装趣味とかでもあんのかよ、俺に見せんなよ」
「女装趣味なんてないよ、さ、帰ろう」
「あー、酔った」
「さっきから酔ってるって、ナツちゃん帰ろう」
「おんぶ」
「冗談、立ってよ」
「あー」
「本当に飯食わないで酒ばっか飲んでんだもんな、ナツちゃんどうやって生きてんだよ」
「えー、酒飲んで」
「飯も食え」
「酒美味い」
あ、とナツが子共のような声を出した。なに、とユキがナツの腕を取りながら聞く。
「そういや、ユキの味噌汁は美味かった」
「は? ああ、今朝の」
「モモんのと同じ味がした」
「また作ってやるよ、そしたら食う?」
うん、と再び子供のように素直な声でナツは返事をする。思い出だけ食っていけたらあとは干からびて死んでもいいや、と思っていることは、ユキに言わないでおく。
「帰ろう」
「おんぶ」
「ふざけんなよ、ミリーちゃん呼ぶぞ」
「……ちゃんと歩いて帰る」
あのおかまなんか呼ばれたら、それこそ尻を狙われる。慌てて立ち上がるとくらりと眩暈がした。そして笑う。
「なに」
「酔ってる」
「知ってる」
「帰ったらモモの夢を見る」
「断言」
「決定事項だからな」
ユキが転がっていた一升瓶を拾う。鉄くさい指先のまま、ナツは夜をかき分ける。
4
祖父のそのまたじいさんの代から、和菓子店はあったらしい。父親の代から洋菓子もやるようになった。赤飯や紅白まんじゅうなども作るので、地元の結婚式場とは今でも繋がりがあり、結構な頻度で注文が入る。最近では引き出物としてマドレーヌやバウンドケーキなども頼まれるようになっていた。
葬式まんじゅうも作るので、もちろん葬祭センターとも付き合いがあったりする。
「げー、ミリー……」
「あっ! あっ! あーっ、ナツ!」
引き出物用の赤飯を納品しに、郊外から少し離れたところにある結婚総合プロデュースの建物に来ていた。昼からの式なので、朝の八時までには搬入して欲しいと言われ、七時少し前に車を入れたらミリーがいた。
真っ赤なドレスを着ている。花嫁がお色直しで着るようなカラードレス姿だ。ワンショルダーで、右の肩は肌を露出し、左の肩には赤いレースで大輪の薔薇が作られている。そしてそれとは反対に、スカートの方は右側の中ほどにレースの薔薇が作られていて、スカート全体を覆っているベールをたくしあげてそこで留めている。
頭には飾りのような小さい帽子型の髪留めが乗っていた。そこから顔の半分ほどまでを隠す、ベールが跳ねるように何枚も重ねられている。それもドレスと同じ真紅だった。肘までを隠す手袋だけが、白い。
「なにしてんだよ」
「見れば分かるでしょ」
言われて気付いた。他にもふたりのドレス姿の女がいて、カメラマンとメイクの人間なのか、大きなポーチを持った女性などが数人いた。
「……すんません、」
邪魔しました、とナツは小声になる。
もう撮影終わりだからいいのよ、とミリーが勝手に言う。
「ブーケの写真、まだ撮る?」
「ああ、撮っとくか。使うかどうかは分からないけど」
「撮ったんなら使ってくんなきゃ」
ミリーが笑って、手を伸ばした。アシスタントらしきメガネの女性が、大輪の百合のブーケを手渡す。
「なんでお洒落してんの?」
今日のミリーは蛍光ピンクの髪ではなかった。肩甲骨ほどまでの茶色い髪は、大きなウェイブがかかっている。全体的に、ふんわりしたイメージで、あの長身がなければそこそこの女に見える。胸のふくらみはどうやって作っているのだろうと、ナツはどうでもいいことを思った。
「お洒落?」
「誰かの結婚式にきたの?」
「引き出物の搬入しに来ただけだ」
「スーツ着て?」
黒い細身のスーツに、黒いシャツ。ネクタイは細く、白い色をしている。特に疑問にも思わず、ナツは頷いた。結婚式場には、自分は仕事で行ったとしてもその日その場で基本的には生涯でただ一回の、結婚式をしている人達がいる。だから、いくら裏口に回るからと言って、作業着だったり小汚い格好をして行ってはダメだと、母親に口をすっぱくして言われていた。だから、ナツは大抵スーツを着てくる。一番無難な格好の気がするからだ。
今日だって裏口からの搬入だったのに、その近くで撮影していたミリーに会ってしまった。ガーデンパーティができる売りの庭に続く道が、そこにあるせいだ。
「そういう格好してると、いい男っぷりが増すわよ」
ミリーがウィンクして見せた。おかまに褒められても嬉しくねーよ、と憎まれ口を叩くと、黄色いウェデングドレスと白いウェディングドレスの女達が笑った。
「雑誌の撮影。なんか、身長差別ウェディングドレスの選び方って」
「お前おかまじゃん」
「でもそこらの女より綺麗だもん」
そりゃそうだけど、とナツが肯定すると、ミリーが嬉しそうな顔をした。
ミリーはモデルの仕事をしている。芸能人になるほどではないのよ、と言うので、チラシや雑誌レベルなんだろう。
「140センチ、150センチ、160センチ、170センチ、180センチ別、ウェディングドレス」
「180の女なんて居んのか」
「あたし」
「おかまって結婚できんのか?」
「ひどいわねぇ、女の子と結婚して、ふたりでドレス着たっていいじゃないの」
「……花嫁、ふたり?」
随分と混乱する式になりそうだ。呼ばれたくない。
仏滅なので今日は結婚式の予約が少なかったらしい。それで、結婚情報紙が撮影のために午後五時から会場を借りていたらしいのだが、時間が延びたのでナツと顔を合わせることになったのだとミリーは言った。
先ほど撮影を終えて、ミリーはTシャツに花柄のスキニーパンツという格好になっていた。けれど顔と髪型は花嫁仕様なので異様だ。
式場内に併設されている喫茶店でコーヒーを誘われた。仕事……と思いながらも、まあどうにかなるだろうと飲んで行くことにした。式場が混んでたとか事故があって渋滞だったとか、適当な嘘をつけばいい。
そう考えて、ナツはひっそりと笑う。
「なによ?」
三十四にもなって、仕事に遅れるのに嘘をつく自分がおかしかった。しかも、職場の人間は身内なのに。
「モモちゃん?」
「モモ?」
「結婚式、してあげればよかった、とかって考えてたんじゃなくて?」
「ああ。あー。結婚式」
ふかふかとしすぎていて尻の座りが悪いソファと、ガラスに彫刻が施されて縁が金色をしているゴージャスなテーブル。一杯千円するコーヒーが深緑のカップに注がれて運ばれてくる。金色のミルクポットとシュガーポット。
「着せてあげたかった?」
「ウェディングドレス?」
「似合っただろうね」
「どうだろう、あいつ丸顔だったから」
「バカねぇ。一番好きな女が一番幸せな格好したんだったら、世界で一番似合うに決まってんじゃないの」
「宇宙一だろ」
「……宇宙人ってウェディングドレス着るの?」
「金星人は美人ばっかなんだろ?」
「火星人はタコみたいなんでしょ?」
知らねーよ、とナツはタバコを取り出そうと胸ポケットを探り、やめていたことを思い出す。
何でやめたんだっけ。
いや、吸うことは吸うけど、買うのはやめたんだ。
タバコ代が上がったらではなく、そうやって徐々にやめることにしたんだ。
身体がどうのとかじゃなくて、焼き場の煙突から煙が上がるのを見て、俺のタバコの煙みたいだ、と思ったら、胸に穴が開いたみたいに途方に暮れたからだ。
でも実際の焼き場の煙を見たわけじゃない。第一、モモを焼いている最中はずっと閉ざされた扉の前でまばたきもほとんど忘れて永遠に近い時間をただ立ち尽くしていた。
あれはどこで見た煙なんだろう。
映画だったか。
テレビドラマだったか。
そもそもきっと今はもう焼き場に煙突なんてないのかもしれない。
でも焼き場には煙突からの煙のイメージがあった。あの煙を集めて身体に戻すことができたら、死んだ人は生き返るんじゃないかと思った。その煙が昇る時には、もうその身体がないことなのだと気付いてひどく虚しい気持ちになったけれど。
「貧困なイメージだな」
「お互い様。また飲まない?」
「コーヒー飲んでる」
「バカねぇ。こんな朝っぱらからコーヒーなんかで色っぽい話になるわけないでしょ」
「お前と色っぽいことになんかなりたくねーよ」
「やっちまうわよ」
「やめて」
「あ、ユキちゃんどうした?」
「ユキ?」
ユキならこの前泊まってってそれきりだけど、とナツが答える。この前実家で飲んで、アパートに泊って行って、次の朝飯を作ってくれて、土曜で仕事がなかったからちょっと街をふらっとして、昼飯を食ってから別れた。
「自分ち帰っただろ」
「やだー、また来るって?」
「なんでだよ」
「話した?」
「なにをだよ」
「なんか話があるって言ってたけど。モモちゃん、病気だったって?」
「ああ?」
モモの病気。
腐敗桃化症。
ユキには伝えなかった。モモがナツ以外の人間にはけして教えないでくれと言った。日々桃のように熟れていく自分の身体を、本当はナツにだって見せたくないと言って。
熟れるということは、その先があるのだ。
腐敗。
甘く甘く香り出す身体中の細胞が、成長を止めることができなくなり熟れる、熟れ過ぎる、そして腐る。
モモの肌は火傷の火ぶくれのようになってあちこちがずるりと剥けた。その下には真っ赤な血と肉をどうにか流れ出させてしまわないようにと、透明な新しい皮膚がうっすらと再生して踏ん張っていた。モモの原型を、崩してしまわないようにと。
ナツはコーヒーカップから目を背ける。
卑怯かもしれないけれど、思い出すモモは綺麗なままの彼女ばかりでありたかった。
「……心筋梗塞だったからな」
ナツはモモが亡くなった当時も繰り返した同じ嘘を口にする。
「病気は病気さ、間に合わなかったんだ。心臓の血管が詰まった、運が悪かった、動脈の方が詰まったって聞いたからな」
モモの最後の願いだった。
本当の病名を言わないで。
腐敗桃化症で亡くなったと知れば、調べた人には醜く腐り果てて死んだことが分かってしまう。少なくとも、ユキや、モモの父には。だって、それは自分の母であり妻である人の死因と同じなのだから。
知らせないで、とモモは言った。
突然死んだことにしておいて、絶対に病気のことは言わないで、お見舞いになんて来させないで、元気なときのわたしだけを記憶しておいてもらって。母親が亡くなったとき、とても大変だったのだろうと、それはナツにでさえ想像がついた。それでナツは頷くしかできなかった。
ナツちゃん、ごめんね。
モモの哀しそうなやわらかい声が、耳の奥でまだ眠っている。
本当は、ナツちゃんにこそ元気なときのわたしだけを覚えていて欲しいのに。
ナツちゃん。
ナツちゃん。
死にたくないよ。
ナツちゃん。
ナツちゃんの子も、産んでないのに。
男の子だったらきっとこの病気にはかからないから、ナツちゃんそっくりの男の子を産んで、ナツちゃんそっくりに育てたい、とモモは言った。それは叶わないお伽噺だった。今となっては。それでもナツは合わせてやることしかできなかった、当たり前だ、お前はろくな治療法もなくこのまま死んでいくんだから子供なんて産めるわけがない、とどうして好いた女に言うことができるのか。
俺そっくりのクソガキなんて持て余すぞ、とだけどうにか言った。モモは微笑んで、そのクソガキが大好きなのよ、と言った。
白い病室はむせかえる桃の香りで充満していた。
そこにあるのが、瑞々しい、丸く淡いピンクの本物の桃の山だったらどんなに良かっただろう。でも白いベッドの白いシーツの上にいるのは、浮腫んで押し傷だらけの汚い茶灰色になっている、モモなのだった。
「……だから、ユキには連絡が間に合わなかったんだよ。顔も、見せてやれなかった」
医師と葬儀屋と相談し、故人の意思を尊重して葬式より先にお骨にした。秋口とはいえ、残暑の厳しい時期だったし火葬場が混んでいるという嘘で、ナツの家族すら呼ばなかった。あとで、父親と祖父からぶん殴られたが。
モモの死に関しては嘘と沈黙が多過ぎる。
ナツは穴を掘りたいと切実に思う。深くて深くて地球の裏側にまで届くようなやつ。王様の耳はロバの耳、と叫んだ床屋のように、本当のことを叫びたい。喉が枯れるまで、血がにじむまで、叫びたい。でもきっと、実際に穴を掘ったらただモモの名前を呼び続けるだけになってしまいそうな気もする。
死にました、火葬場の都合でもう骨にしときました、葬式の日時はこれこれこうなんでできたら来て下さい、という報告の仕方だった。ユキには。ユキの父には。
あいつはいつでも穏やかに笑っているけれど、もしかしたら俺のことを恨んでるのかもしれない。姉の最期の顔も見せなかった、義理の兄に。腹を立てているのかもしれない。ナツはそう思い当たる。自分なら怒るだろう。立場が逆なら、ふざけるなと言うだろう。
でも。
仕方ないんだ。
故人の遺言だったんだから。
そしてナツは「故人」の言葉に今更ながら深く傷付く。
「そういや、なんでお前ってユキ知ってんだ?」
「お友達だから」
「違う意味に聞こえんな、おい」
「どんな意味に聞こえんのよ。元々モモちゃんの繋がりで知ってんのよ」
「モモ?」
「服屋だったじゃない」
「雇われて働いてただけだぞ」
服の提供をよく受けてたのよ、と言われる。よく分からないまま、ナツはふうんと頷く。
「そうなんだ」
「そうよ、ナツの嫁って知る前から知り合いよ」
「それはモモじゃん」
「だから、ユキちゃんはモモちゃんの弟でしょ」
「うん。まあなんかよく分かんないけど知り合いだったってのは分かった。おう。おしまい」
「なにがおしまいよ、興味ないとほんとにどうでもいいんだから」
「ミリー、今日のドレス似合ってたな」
「……なによ」
「おかまって赤いの似合うのか?」
「あんた、さり気なくないほどに失礼よ、まったく」
「そう?」
「自覚ないの?」
ない、とナツは言ってコーヒーに口をつける。アイスコーヒーにするべきだった、それよりあれだ、仕事に戻らないと。
「俺、仕事」
「ああ、じゃあ払っとくから」
「や、いいよ」
「それくらい大丈夫よ、雑誌の人達につけちゃうから」
「悪い奴だな」
「なによ」
「嫌いじゃないな、って話」
「本気にするわよ」
「やめて」
「あ、火、持ってたら点けてって」
メンソールの細いタバコが真っ赤なネイルの指先で口に運ばれる。同じく真っ赤な口紅。キスをしたいとは思わないけれど、ほどよく猥雑だと思う。下品で淫らなのは褒め言葉以外のなんだって言うんだろう。
スーツのポケットからジッポを出して点けてやる。
「インポになる?」
「ああ、メンソール。ううん、ビンビン」
「いいね、エロくて」
「見せてあげよっか」
「遠慮しときます」
これから帰って甘い香りにくらくらしながら、幸せの象徴みたいな焼き菓子を大量に生産する奴の会話かよ、とナツはひとりで笑う。
また飲むからね、とミリーが女より女らしいしなやかな指先をひらひらさせる。