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小さなアパートのエントランスには薔薇のアーチがあって、通りに面した敷地は赤茶けたレンガが積んであって背の低い花壇にされている。
大輪の赤、白、ピンク。薄い花びらの黄色、ピンクと赤の交じり合うやけにファニーな大群。大家が薔薇をとても好きなのだという。色とりどりの薔薇はいくつもの種類があるらしく、それぞれに太かったり細かったりする棘付きの腕を伸ばして水色のフェンスに絡み付いている。
大きな蜂が飛んでいたり、強い風に茶色くなった花びらが落とされて巻き散らかされたり、花に興味のないナツにはまったく魅力が分からない物件だったが、彼の妻になったばかりのモモは「いい匂いで綺麗で、もうここ以外に住みたくない」と微笑んだ。まだ部屋の中も見せてもらっていなかったのに。
住めればどこでもいい、とナツは思っていたので、その場で契約してくれと同行していた不動産屋の男に言った。モモがとろけそうな笑顔を見せた。
空梅雨である六月の蒸し暑いだけの空気の中、黒いシャツに黒いジャケットを羽織っている細身のナツと、まるで対照的な白いワンピースに長い髪をポニーテイルにしている、両の頬にそばかすの散ったモモのツーショットを不思議そうに見ていた男は、慌てて「それでも一応物件の確認を」と束になった鍵をじゃらりと鳴らして建物の中へと促した。
「いいよ、ここで」
「しかし、」
「住めば都って言うじゃん、いい、いい、ここで」
「いや、それでも、」
「モモが気に入ったんならここでいい。な?」
うん、とモモが頷く。
「アパートの壁、水色なのも素敵だと思うし、ここがいいな」
「水色好きだっけ」
「お天気がいい日の空の色みたいで、好き」
そうか、とナツが目を細める。彼は切れ長の細い目をしていて、しかも若干つり上がり気味なので初対面の人間には怖がられることが多いが、そういえばモモは最初からナツの顔を好きだと言った。
「な、部屋の中の壁紙も水色?」
「あ? は、はい? あ、それは私に質問ですか、ああ、はい、えっと、いや、普通に白だと思われます、というか、白です」
話を振られた不動産屋が慌てて答えた。
白だってよ、とナツが薄い唇でモモに告げる。
「外側が水色でも、お前見えねぇじゃん。住んじまえば」
「でも外出したら必ずここの水色を目指して戻ってくるのって、いいと思わない?」
分からん、とナツは言うけれど、心はここにしようともう決まっているのだった。モモが喜ぶなら。他に、どんな重要なことがあるというのだろう、なにもないに決まってる。世界で一番大切なのはモモの笑顔で、悪いけどそれ以外の笑顔は二流以下だ。意味がない。ナツにとっては。
「じゃ、契約頼むわ」
「え、あ、は、はい、それは私に、ですよね、はい、はいではさっそく、」
ナツとあまり変わらない年齢なのだろう不動産屋は、顔が幼いせいかスーツに着られているようで頼りない。
俺が老けて見られるだけか、とナツは苦笑する。
その唇の端の持ち上がりを見て、なに、とモモが目を細めて聞く。
キスなんて誰とするのも同じだと思っていた。
それにしても女っていうのはキスの好きな奴が多すぎる。セックスよりキスの方が大事だと思っているらしい、やった回数よりもキスした数を、やった日よりもキスした記念日を覚えているものらしい。
あんなの、ただの前戯のひとつでしかないというのに。
そもそも女というものがよく分からなかった。
よく分からないから興味があって知りたいと思って、でも手に負えなくて放り出してしまう。季節的に人恋しくなるときはすり寄ってみるが、他に楽しいことがあると面倒臭くなってしまう。
本当は女なんて特別好きじゃないのかもしれない。それでも本当に好きじゃないのかは、突き詰めてみなければ分からない。
手当たり次第に手を出している印象ばかりが独り歩きして、ナツは女遊びが激しい奴、と周囲に認定されていた。もしくは女を玩具だと思っている奴。そんなことないんだけどな、と本人は気にしていなかったけれど、知らないうちに恨みを買っていたこともあるのだろう。
「なに考えてるの?」
「うん?」
「ぼんやりした顔になってたけど」
「ちょっと疲れた」
ナツちゃんはすぐ疲れるよね、とモモが笑う。
引っ越しは業者を入れても基本パックで済んでしまうような小さな移動だった。元々の荷物も少ないし、大して必要なものがあるわけでもない。結婚式は挙げなかったので、結婚指輪以外に欲しいものがあるかと聞いたら、モモはパステルカラーの鍋とフライパンをねだった。
「部屋の中まで薔薇の香りがするね」
「花粉症の奴は大変だな」
「薔薇の花粉症ってあるの?」
「知らん。腹減った」
「せっかく引っ越してきたから、お蕎麦でも食べに行く?」
「モモの卵焼きがいい」
「ナツちゃん、子供みたい」
うん、とナツはもらった小さなソファに身を沈めて目を閉じる。落ち着いたクリーム色のそれは、結婚して子供と猫が増えた友人が泣く泣く手放したものだ。ふたりは座れない小さなものだったが、ぴんと張った皮がやわらかで手触りのいい、深くしずみ込めるように落ち着くソファだった。
「子供だし」
「おっきい子供」
「うん」
モモがナツの隣に身体を押し込む。狭いよ、とナツが笑う。身長はあるものの体重がなくて薄っぺらなナツと、同じく背は高めだが痩せても太ってもいないモモでも、小さなソファにふたりで収まるのは難しい。ナツは自分の膝にモモを乗せる。モモはぺたりとナツの胸に頬を寄せた。
「心臓の音」
「生きてるからな」
「好き」
落ち着く、とモモはやわらかな微笑みを浮かべて、目を閉じる。
「ナツちゃんの心臓の音」
「そんなに好きならくれてやろうか」
「心臓だけあったって困るわよ」
ナツは彼女の頭を撫でながら、ポニーテイルの紐をほどいた。長い髪が流れ
る。また悪戯して、と彼の胸から身体を離したモモを抱きしめて、ナツはその
顎に触れて上を向かせ、そっとくちづける。
キスなんて、誰とでもできると思っていた。
キスなんて、誰としても同じものなのだと。
けれどモモに出会って初めて知った、唇を触れ合わせることは想いを伝える
ことと同じなのだと。
彼女の下唇を唇ではさんで、甘く噛む。くすくすと漏れる息はどちらのもの
か分からなくなって混ざり、色付く。キスをしたくらいでやさしい気持ちになれるなんて、ナツは今まで知らなかった。
二十六歳で結婚することに決めたとき、だから周りは天と地をひっくり返したような大騒ぎになった。男友達はまさかナツが身を固めるなんて言い出すとは思わなかったと笑い出し、女友達はどんな女がナツを射止めたのかとキャンキャン吠える犬のように騒ぎ立てた。
和洋菓子店を営む両親と祖父母は、ふらふらしている一粒種のナツは結婚なんかしないのかもしれないと半分あきらめていたし、しても随分年を取ってからやっと落ち着くんだろうと決めつけていた。嫁にしたい女がいると、モモを連れて行ったときは「金髪碧眼、日本語も通じないようなのを連れてくるんじゃないかと思ってた」と祖母がモモの両手を握り締めながらにこにことずっと笑っていたのを覚えている。
確かに、モモはナツが今まで付き合ってきた女達とはまったく別の種類の女だった。今までのが猫なのならば、モモは犬だ。でも猫を好きな人間が、本当は犬との方が相性が良かった、ということだってないわけじゃない。
ひとつ年上のモモが二十七歳の誕生日を迎えた日に、一緒に婚姻届を提出しに役所へ行った。淡々と事務処理されながらも、黒いアームカバーをしたお姉さんとおばさんの中間ほどの受付をしてくれた女性が、「おめでとうございます」と微笑んでくれたのが妙に嬉しかった。
「――いい匂いがする」
「外の、薔薇の香り?」
「いや、モモの肌の匂い」
首筋に指を滑らせると彼女が笑う。ナツは耳の後ろに鼻を押し当てて、くんくんと匂いをかぐ。
「ちょっと、犬みたいなことしないでよ、」
語尾はもろく溶けた。
「いい匂い」
「くすぐったいよ、ナツちゃん、」
「桃みたいな匂いがする」
「……え?」
モモだから桃の匂いがするのか、とナツは笑ったけれど、モモは笑わなかった。微かに身を硬くして、気のせいじゃないの、と言う。
「シャンプーの匂い、とか」
「分かんないけど、いいじゃんか、いい匂いなら」
「桃の匂いなんてしない……はず……」
彼女はするりとナツの膝から降りると、玉子焼き作ろうか、と髪をくくり直した。
「どうしたんだよ、いきなり」
「なにが? あ、ナツちゃん、普通の玉子焼きがいい? それとも青海苔入れようか。そうだ、ニラを買ってあるから、ニラの玉子焼きでもいいよ、どうする?」
「なんか俺、変なこと言ったか?」
「言ってないよ、どうしたの、ナツちゃん? ね、玉子焼きの他に唐揚げも作ってあげようか。おにぎりにして、部屋の中だけどピクニックみたいにする?」
「モモ、」
「ミートボール、欲しい?」
「モモってば、」
「おにぎり、中身何がいい? 鮭? おかか? たくあん細かく刻んであげようか」
「……鮭」
「了解しました! 海苔にする? とろろコンブにする?」
海苔、とナツは答える。モモは明るく振舞うけれど、どうしてだろう、その背中は今すぐ抱きしめてやらないといけない衝動に駆られるほど、儚い。
「ちょっとしたら、わたしも仕事探して働くからね」
「いいよ、別に。しばらく奥様してたら?」
「似合わなくない?」
「似合わなくなくない、でもいいよ、モモの好きなようにして」
「わたしもナツちゃんのところで雇ってもらおうかな」
ナツは製菓の専門学校を一応は出たものの、卒業した後はガソリンスタンドや飲み屋で適当なバイトを繰り返していた。実家の菓子屋は継ぐ気も見せなかったが、モモと付き合うようになってから父親に頭を下げて焼き菓子の製作に携わらせてもらうようになっていた。もちろん、両親も祖父母も、モモのおかげだと小躍りして喜んでいた。
「やだよ、それは嫌だ、恥ずかしい」
「なんで、どうしてナツちゃんが恥ずかしがるの」
「白い作業着着てんだぜ? 頭に網みたいな帽子被んないといけないしさ、あんな格好見られんの嫌だ」
「いいじゃない、わたし、お洗濯してるから知ってるよ?」
「中身が入ってるのと入ってないのじゃまったく違うだろ」
耳が赤くなるのを感じる。ナツはそれが恥ずかしくて、ソファの上で頭を抱えた。
「ナツちゃんのマドレーヌ、好きよ?」
「うるせぇ」
「ナツちゃんのパウンドケーキも好きよ?」
「うるせぇ」
「ナツちゃんの試作の、スノーボウルも好きよ?」
「うるせぇ、あれは他に誰も食ってないっての」
「……お父さんも?」
「おう」
「……お母さんも」
「おう」
「……おじいちゃんも、おばあちゃんも、」
「モモしか食ってない」
「わたしだけ?」
女っていうのはどうして特別扱いが好きなんだろう、他の女とは全然違うと思っていたモモでさえそうだ。嬉しそうな顔をして、ふっくらと頬をゆるませて。
ナツはてのひらで唇を覆い隠すように頬杖をつく。
「嬉しい?」
「うん」
「なんで」
「だって、わたししか食べてないんでしょ?」
「モモにしかやってないからな」
「ナツちゃんのスノーボウル、食べたのわたしだけなんだ」
「もし商品化してもらえたら、お前だけじゃなくなるぞ」
でも一番最初がわたしなのは変わらないもの、とモモは微笑む。
可愛らしい顔で。
こいつが笑うと空気が和むよな、とナツは思う。知らず知らずのうちに、自分の目も細くなる。
「わたし、ほら、弟がいるじゃない? いつも『お姉ちゃんだから我慢してね』って言われて、わたしだけ特別に、っていうもの、ほとんどなかったから」
「そんな大げさなもんじゃないっていうのに」
「わたしには大げさだもん。大げさでいいんだもん、ナツちゃん、大好き」
「なんだよ、いきなり。話飛びすぎだっての、なにが大好きだよ」
「ナツちゃんは?」
「……なにが」
「わたしのこと」
「はいはい、好き好き」
「ちょっと! 心がこもってない!」
「……だよ」
「なに?」
「……好きだよ」
「本当?」
本当だよ、とナツは渋々、けれどすっかり微笑んでしまっている唇で告げる。
本当だよ。
結婚したいなんて思った女はお前だけだよ。
本当に好きだよ。
この世界から、他の女なんて全部消えても構わない。
好きだよ。
どうして素直な気持ちを言葉にするのは、照れくさくて恥ずかしくて仕方ないんだろう。
ああそうか、とナツはそれでやっと気付いた。
素直な気持ちを言葉にするのは恥ずかしすぎるから。
だから。
「――モモ、キスしようぜ」
「え、なに、ちょっと、どうしたのナツちゃんってば」
くちづけはあるんだよな、と、ナツは再確認したりする。
2
川沿いのアイリッシュパブはいつでも混んでいる。
七月も中頃に入り、梅雨時期には置かれていなかった背の高いテーブルが表にも出されていた。尻が見えてしまいそうなホットパンツから、すらりとした脚をこれでもかと見せつけている女達がビールグラスを片手に騒いでいる。スーツ姿の男達は仕事帰りというより、夜を楽しむために細身のそれをわざわざ着て出かけてきたようで、ノーネクタイで派手な開襟シャツを着ていたりする。
木曜の夜なのに、とナツは呟いた。
曜日も関係なく元気な奴は多い。社会人ではなく学生かもしれない。
三杯目のギネスビールも一パイントで注文していたので、液体だけで胃は満たされていた。
「やだー、ナツじゃーん、ご無沙汰! 珍しい、ひとり? 一緒してもいい?」
「久しぶり、ひとり、嫌だ」
「ちょっとおー、そんな簡潔にお返事くれちゃ、い・や・ん。ビールしか飲んでないの? やだちょっと待って、お酒だけ飲んでちゃ身体に悪いわよ、待ってて。いい? 待ってて。待ってなさいよ」
蛍光ピンクの髪を揺らして、真っ赤なピンヒールを履いた相手は、つけまつげとつけ爪と真紫の口紅をつけた、ひどく派手な顔をしている。元々182センチあると言っていた記憶があるが、あんな高いヒールでいると190を越えてしまっているのではないだろうか。
「ミリー」
ナツはそいつの名前を思い出して呼んだ。
はあい、と奴は大きなてのひらと長い指の手をひらひらさせる。
「陸男」
「……やめて。ちょっとナツ、あんた今ちゃんと『ミリー』って呼んでくれたじゃないの、陸男って呼ばないで。あたしのイメージじゃないから。やめてちょうだい、本当に」
「イメージじゃなくったって、お前陸男じゃん」
「違うの、あたしはミリー。ミ・リ・ー・ちゃ・ん!」
「三浦陸男だろ」
「ああんもう、本当にやめて。あんたの尻、本気で狙うわよ」
「やめろ」
知り合いのおかまだった。同い年だ。けれど厚化粧をしている相手は、性別さえもカオスにしているので、年齢不詳をそのまま人の形にしたような顔立ちだ。整形はしていないと言うけれど。
「やだ、一パイントグラスで飲んでるぅ! ナツのことだから、どうせこれ最初じゃないでしょ? 三杯目か四杯目でしょ?」
「三杯目」
「トイレ近くなっちゃうわよ、あたしが飲んであげよっか? あ、ちょっとウィンナの盛り合わせとフィッシュアンドチップス持ってきてくれない? あとヤングコーンのサラダね、おつりはあげるから」
通りかかった、グラスを片付ける従業員の胸ポケットに数枚の札をねじ込むと、ミリーはその店員の尻を掴むように撫でた。ぎゃっ、と叫んで、やめてくださいよ、と店員は情けない声を出す。
それでも泣きそうな笑顔を見せて、ミリーに「いつもありがとうございます」と言った。
「かわいそ」
「可哀想なのはあたしの手よ、ちっ、あんまりいい尻じゃなかったわ」
ネイルは派手な色彩で、爪ごとに市松模様で色が違っている。白と赤、赤とオレンジ、オレンジと黄色、黄色と黄緑、というように。十本の指すべてが違う色で、右手が暖色、左手が寒色で色分けされていた。
身体のラインをぴったりと強調する、黒いストレッチ素材のワンピースを着ている。ポケットだけレザー素材らしい、銀色のファスナーが斜めにいくつもついている。胸元にも、腰の位置にも、ウェストの位置にも。身長のせいなのか元々なのかは分からないけれど、スカート部分は随分短かった。
「痴漢もするのか、おかま」
「おかまって言わないでよ、ちょっとナツひどいわー。あたしはね、ポリシーがあんの、シリコンは入れないしちんこも取らないわよ、突っ込むのは大好きだもの。心は純粋に女で、可愛い格好も好きだけどね、女の子も抱けるわよ」
「ただの節操なしだ、それ」
「ナツも抱いてあげようか、あたしのテクでメロメロにしてあげるわ」
「遠慮しとく」
「そう、残念」
細いメンソールのタバコをスパンコールの散りばめられた華奢なバッグから出すと、そっとつまみ上げて唇に近づけた。
ん、とナツがジッポを取り出す。
ありがと、とミリーが軽く開いた唇にタバコを咥えて、顔を出す。先端に赤く火が灯ると、深く吸って細い息を吐いた。カウンターには背の高いスツールが置かれているが、フロアは丸いバーテーブルが設置されている。立ち飲みの風情になるが、ヒールの長い脚をくるぶしのところで引っ掛けるようにして組んで、ミリーはぽってりとした唇を小さく開いた。上目遣いになって、まばたきを繰り返す。視線の先で、ナツを捉えながら。
「なんだよ、誘ってんのか」
「誘ったら、乗る?」
「なんか食うか」
「さっきあたしが注文したじゃない。ナツ、なんか不景気な顔してるわね」
「宝くじも万馬券も当たんないからじゃない?」
「頬がまたこけてるけど、ちゃんと食べてる?」
「毎晩飲んでるよ」
「アルコールで栄養摂取はできないのよ、ダーリン」
お前のダーリンじゃないよ、と言ってやると、ミリーが薄く笑った。
「……何年になる?」
「四年」
「即答ね」
「そんなの、当たり前だろう」
ゆったりとしたジャズがかかっている。ゆったりとはしているものの、ピアノや金管楽器、ウッドベースの音がくっきりとしたゴージャスな音だ。曲名なんかは分からないけれど、耳に心地いい。
ウィンナの盛り合わせが届けられる。白い皿は金色のラインで縁取られ、ハーブの入った白っぽいものや赤いチョリソー、猫の尻尾を思わせるようなプレーンのものなど、七本ほどがサニーレタスを枕に並べられていた。たっぷりの粒マスタードと、ケチャップが容器のまま置かれる。
「……ごめん、思い出させて」
ミリーが小さな声で謝る途中で、ガラスのボウルに山とされたサラダが届けられた。葉物野菜と、コーンと紫オニオンのスライス、そしてたっぷりのヤングコーン。
「思い出してないさ」
ナツはグラスに口をつけた。
「忘れることがないからな」
クリーミーな泡が口に入る。クセのある黒い液体と。
「ナツ、」
「俺があいつを忘れる瞬間が、あると思うか?」
思わない、とミリーが答えた。
「でも、そんな淋しいことを言われたら、あたしはどんな顔をしていいか分からない」
そしてナツから大きなグラスを取り上げると、口をつけ、ごくごくと飲み干してしまった。
モモが死んだのは、四年前の秋だった。
病死。発病したのは亡くなる一年ほど前で、医者は余命が宣告できないと言った。ひどく稀な症状で、かかる人間が少ないので研究が進んでおらず、薬もこれという特効薬がない。
全身から桃のような香りがしはじめる。
肌が熟れた果実のようにやわらかくなり、次第に些細な刺激で痣ができるようになる。押し傷のように、汚い茶色は徐々に嫌な黒さを帯びてゆく。そして、それは一度ついてしまうと治ることがない。
腐敗桃化症、と医者は病名を告げた。
治ることはない病気。できるのは、ただ進行を遅らせることのみ。しかし、その進行を遅らせる術すら、詳しくは分かっていないのだという。
「ごめんね、ナツちゃん……」
かかりつけの町医者では分からず、市内の総合病院でも分からず、県で一番大きな大学病院で検査に検査を重ねてようやく病名が判明したときは、モモのやわらかな腕に顔をそむけたくなるような痣が、もういくつも消えることなくできてしまっていた。
だるい、微熱が引かない、体調がすぐれない、多少の風邪くらいならけして弱音を吐いたりしないモモが、少しずつ日常会話に紛れ込ませていた泣き事。
早く気付けば良かった、とナツは唇を噛み、けれど早く気付いたからといって打てる手があったのかといえばそうでない。
最初はふたりして、妊娠したのかもしれない、と喜んでいたのに。
試した検査薬は陽性をいつまで経っても示さなかった。
子宮外妊娠でも検査薬は陽性になるらしいのにね、と言っているうちに生理がきて、ならそれで体調がすぐれなかったんだ、と笑っていたのに。
桃の身体から流れる血は、少ししてから真っ赤になり、そして真っ黒になった。近くの産婦人科では手に負えないと言われ、病院を変えた。
桃の香りが、する。
こんなときに香水、とナツが軽く苛立ちながらも不思議に思って聞くと、
モモは目をうるませて謝りの言葉を口にした。
ごめんね。
ナツちゃん、ごめんね。
そこでナツは初めて、モモの母親が同じ病気で若くして亡くなっていること、その母親の姉もまた同じく、そして曾祖母も桃の香りをさせながら亡くなったことを聞いた。
「多分、血筋なんだと思う……隔世遺伝なんだと思ってたの、勝手に。おばあちゃんは出なかったから、わたしも平気なんだって……決めつけてた」
一族の女性にだけ出る病気。
親近結婚を繰り返していた昔は多かったけれど、時代が変わってそんな物騒な血を無理矢理残そうなんて言い張る人達はいなくなってきた。徐々に血のつながりは広がりはじめ、外の血が混じるようになり、病気になる者は滅多に現れなくなってきていたのに。
理由は分からない。
理由なんてどうでもいい。
実際の問題は、モモにその奇病が現れてしまったということ。
「ナツちゃんと幸せになりたかっただけなのに……」
桃の香りが充満する。
それは日々、少しずつ濃くなっていく。うっかり喚起を忘れれば、それこそむせかえりそうなほど甘く窒息させられる。
「赤ちゃんなんか、欲しいと思っちゃいけなかったのに……」
血を繋げることになってしまうから、とモモは哀しそうな顔で微笑んだ。その手を取って、ナツはそっと指先にくちづける。
望むだけで悪になることなんて、この世の中にそうあってたまるか。
熟れた桃をどうやったらできるだけ無傷のまま置いておけるのか。そればかりを必死でふたり、模索した。部屋の温度を冷蔵庫のように寒くしてみたり、モモにはできるだけ動かないでじっとしていてもらったり。
生きている意味がないじゃないの、とモモは泣いた。
それはナツに対する八つ当たりではなく、自分がナツと共に生きていけない悔しさからだった。なにもしてあげられない。どうしていいのか分からない。互いが互いにそんな無力感を抱え、それでも互いのことを思うと哀しい顔をしていられなかった。
いつ、最後になるかが分からなかったから。
先に逝く身で、焼きつく相手の顔はできるだけ笑顔であって欲しかった。
残される身で、繰り返し記憶から引っ張り出して眺める顔は笑っているものであって欲しかった。
強く抱きしめることもできない。
すべてを奪いつくすような、乱暴で甘いキスもできない。
ナツは仕事を辞めてずっと一緒にいたがった。
モモは普段通りに過ごして欲しがった。
普段と変わらないで淡々と生きていく方が、神様を騙せる気がして。
「わたしと結婚して、ハズレだったと思うでしょ」
「うん」
「……ううん、って言ってくれるかと思ったら。ナツちゃん正直すぎない?」
「ハズレだった、もうモモ以上に好きになる女なんて生涯出てこねーもん」
「……ナツちゃん」
「最初にでかい当たり引いちゃったからな、俺。生まれて初めて買った宝くじで、一等五億円当てた感じ?」
意味分かんないよ、とモモが笑う。
だってさ、宝くじなんて買えば当たるもんってもう思っちゃうわけじゃん、とナツがおどける。
「なあ、モモ。好きだよ。なんだよ、ちょっと桃みたいに熟れてくって病気なだけじゃん。まだ生きてるんだからさ。明日死ぬかもってびくびくするより、明日も生きてますようにってハッピーに生きてようぜ」
わざと明るく軽口を叩いたのに、視界がびしょ濡れになる。声が震える。格好悪りぃ、とナツは吐き捨てる。そうしないと、涙声に溺れてしまうから。
泣かないで、とモモが眉を寄せながらも必死で口元に笑みを作る。
どうして、なんで、自分ばかり、誰かのせいにして泣き喚きたかった気持ちがないといえば嘘になる。逃げることも本当は考えた。今モモと別れたら、死ぬところは見なくてすむ、永遠に会えないだけで同じ空の下、どこかで生きていると自分を誤魔化し続けることもできるのではないかと。そしてそんなことを考えてしまう自分を、ナツは責めた。
どこにも行けなかった。
どうしようもなかった。
モモが愛して望んだ薔薇の咲き乱れるアパートが、むしろふたりを閉じ込める棘の壁に思えた。出て行こうとすれば傷付く、傷付くのが怖くて閉じ籠る、そしてどこにも行けない。
ふたりで同じ毛布に包まった。
モモは体温を分かち合いたがったけれど、ナツはいつ自分の手が触れたところから彼女を傷つけてしまうのだろうと、そればかりが怖くて身を硬くしていた。
移る病気ではないの、という彼女の声が淋しく耳に残っている。
そんなんじゃない。
本当は抱きしめたかった。力の限り。でも壊してしまうからできなかった。ただ、それだけだった。
「スプラッシュってなに? ああ、アマレットオレンジなの、じゃあそれいただくわ。ちょっとナツ、ウィンナ一本くらい食べたら? あたしに全部食べさせるつもり? あたしを豚にするつもり?」
遠くでとろりとした記憶を掘り返していたので、目の前で紫色の唇をてらてらと光らせているミリーに焦点が合うまで、多少時間がかかった。
なんでこいつがいるんだっけ、とその唇を眺めながら思う。グロスなんて塗っていたっけ。それにしても真紫のルージュというのは、あまり趣味ではない。
「カウンターに注文しに行けよ」
「いいじゃない、店員が通りかかってんだからさ。ね、熱いうちに食べない? フィッシュアンドチップス」
「胃もたれするからいい」
「おっさんみたいなこと言わないでよ、まだ、ええっと、二十八歳」
「三十四だよ、お前同じ年だろ」
「あたし、永遠の二十八歳なの。だからナツも同じよ、勝手に年取らないでちょうだい」
なんだよそれ、と苦笑がこぼれた。
少し酔ったかもしれない。頭の中に、シャボン玉がいくつも浮いている気分だ。
二十八であったら。
モモはまだこの世界で、笑っているはずだ。
「タラって美味しいわよねぇ、うちだとお鍋にいれるくらいしかやんないけど。あ、はあい、お元気?」
見知った顔でもいたのか、唇と同じくてらてらとした指先でひらりと手を振っている。カチューシャ代わりのサングラスというのは、どれくらい昔のファッションなんだろう。ミリーにはよく似合っているので、からかう気にもならないが。
「あ、ごめん電話。出ていい?」
いいよ、の返事代わりに、ナツはテーブルに置かれていたミリーのタバコを手に取る。メタリックグリーンのボックス。スリムな一本を取り出して口にする。火はつけなかったのに、充分薄荷くさい。
「はあい、ミリーちゃんよ。ああ、着いた? 駅前? そう、ちょうど良かった、うんうん、つかまえてあるわよ。いやーん、ありがと、うふふ、任せて。そういうのは任せて。お店、分かるかしら。グローってとこ、アイリッシュパブよ、表で飲んでる人がいるから見つけやすいと思うけど――」
そう静かでもない店内で、ミリーはトーンをそう変えず電話の向こうにいる人物と話をしていた。最近の携帯は高性能なんだな、とナツはどこかずれたような感想を持つ。
トランペットとトロンボーンの音がピアノに絡む。
ピアノの音は神経に触ると、嫌っていたのは誰だったっけ。思い出せなくてナツは首を軽く振った。
モモともこの店には時々訪れた。アルコールの苦手な彼女は、ブラッディオレンジのジュースが好きでよく飲んでいた。ヤングコーンのサラダは、モモもよく注文していた。昔はそれに海草も混ざっていたように思うけれど、それは記憶違いだろうか。
「大丈夫よ、うん。まだ飲んでるから。そんなに急がなくても大丈夫よ、本当に。気をつけておいで、車にはねられたりしないように」
物騒なこと言ってんな、とナツが笑いかけたところで、通話を終えたミリーが彼の唇からメンソールのタバコを取り上げた。
「なんだよ」
「ダメよ、インポになるから」
「都市伝説」
「まあねぇ。あたし、結構ヘビースモーカーだと自負してるけど、勃ちまくりだもんねぇ」
「やめろよ」
「女の子が、はしたない?」
「誰が女だ」
「あ・た・し」
くふふ、と笑って、取り戻したメンソールを口にし、ミリーは火をつける。
「誰からの電話だったか、気にならない?」
「ならない」
「あらま、即答。まあねぇ、ナツは世の中に興味のないもんばっかだもんねぇ。あんた、昔はもっと器用に生きてなかった?」
「いつの昔よ」
「結婚する前」
「そんな前世みたいな昔、覚えてねーよ」
「前世ほど遠くないでしょ……ま、ちょっと待ってなさいよ」
「なにを」
「いいからいいから、なに飲む?」
ギネス、はミリーに飲まれてしまったのだった。ち、と舌打ちして、ナツは泡だけが残るグラスを持ち上げて振る。
「同じの」
「えー、またビール? 他のにしなさいよ、キスがビール臭くなるんだから」
「お前とはキスしねーから安心しろ」
誰ともしない。
多分、もうきっと。ずっと。
世界で一番キスしたかった人は、あんまり素敵過ぎて神様がさらってった。
だから、この世界でキスしたいと思う人間なんてどこを捜してもいないだろう、だったらしない、妥協してまでするものじゃない、どうせするんなら全身全霊を込めてするんじゃなきゃ意味がない。
「……俺、不器用になった?」
うん、とミリーが遠慮なく頷く。
つけまつげのバサバサと長く、そしてピンク色に塗られたマスカラが蝶のはばたきを思わせた。言うと付け上がりそうだったから、ナツは口を閉じていたけれど。
ちょっと続きます。よろしければお付き合いください。