03
「で、お前はどうしてここにいるんだ?」
アルブレヒトは月光に目を凝らしながら訊ねた。
「どうせ呼ばれるだろうと思って、準備をして待っていました」
ランツェは普段とまったく変わらない様子でしれっと答えた。アルブレヒトは言葉に詰まった。実際、自分の部屋を抜け出して、これから、兵舎にあるランツェの部屋の窓に小石でもぶつけるつもりだったのだから。
アルブレヒトは物陰に立つ彼の頭から爪先までをじろじろと眺めた。厚手の、頭巾付きの上衣。平服であることが不安だったが、鎧を持ち出して来いというのは無茶だろう。それよりも、すっかり目立たない色で揃えて、彼が隠れての行動に慣れていることに感心した。
それだけの回数、何かに付きあわせているということだが。全部が全部、自分が原因ではないはずだ……。
「じゃあ、行きましょう」
ランツェはすたすたと歩き始めた。アルブレヒトは彼を追った。
裏門の門番は、卓上灯の光が揺らめく室内で寝入っていた。二人は極めて慎重に通用扉を開けて外に出た。
夜の風が吹きつけた。見上げれば満天の星空だった。
アルブレヒトは一瞬、その美しさに目眩いを覚えた。城壁を数歩出ただけなのに、胸の奥に開放感が広がった。家にいた頃、兄が、夜の散歩はいい、それもお忍びだと尚いいと言っていたが、この瞬間だけは心から同意できた。
「王子様」ランツェが囁いた。「どこへ行きますか」
「東へ」アルブレヒトは答えた。夕方、アルブレヒトは理由をつけて城門の外へ出て、突風の痕跡が東へ向かっていることを見ていた。そしてあの見えざる獣の低い声には不吉な響きがあった。ああいうのは、きっと、人に害を為す。
今度はアルブレヒトが先を歩いた。ランツェはしばらくは無言で従っていたが、茂みや木々に砦の影が隠れ始めると、「ちょっと待ってください」と言って、上衣の下から発光石を取り出した。打ち金で割ると、断面から穏やかな光が溢れる。ランツェはそれを網に入れて手首に巻き、先を照らした。
「準備がいいな」
「……まさか何も持ってこなかったなんて言いませんね、王子様?」
「馬鹿にしているのか? 剣を持ってきた。獣を倒すのにこれ以上に必要なものはないだろう」
ランツェは無言だったが、何故か、少し呆れたような雰囲気だった。アルブレヒトはその理由を考えたものの、特に思い当たらなかった。細々した用意をランツェが担当するのはいつものことだし、だいたい、そんなのは貴公子がやることでも、もちろん令嬢がやることでもない。
そして、この剣は役に立つと思う。家から持ち出した古いもので、ごく僅かに魔力を帯びている。普通の剣では斬れない胡散臭い類のものだって、結構すぱすぱ斬れる。夜光精だとか、闇虫だとか。きっと、魔獣やら悪魔やらだって斬れるだろう。試したことはないが。
「お前こそ丸腰か?」
「短剣を借りてきました」
「不足だな」アルブレヒトは言った。
「……明日、捜索隊が出ます」ランツェは話題を変えた。「城代に心当たりがあったそうです」
「何?」アルブレヒトは尋ね返した。
ランツェは「あの獣のことです」と答えた。「詳しくは聞いていませんが、何でも、数十年前の城代が異国から魔物が封じ込められた壷を買って、飽きてどこかに仕舞い込んだのだとか」
ああ、それで目録にもなかったのか。道楽で個人が買ったものならば。
「王子様にも心当たりがあるんじゃないですか」ランツェが言った。
「……何のことだ」アルブレヒトは警戒して訊ねた。
少年は苦笑した。「あなたは嘘が下手ですから」
アルブレヒトは答えなかった。確かに嘘をついたが、それは正体を隠すためだ。確かに悪かったと思う。だから、こうして、自分で討ち取りに来たんじゃないか。私は少なくとも責任は取れるつもりだ。
二人は無言のまま歩いた。
途中でランツェは元は杖か何かだったらしい表面が朽ちかけた木の棒を拾っていた。アルブレヒトはそれも魔獣に通用するかは疑問だと思ったが、きっと短剣一本よりはいいだろう。
春先の夜風はますます強まり、平原は嵐のように唸っていた。不毛の景色に終わりがないように思え、アルブレヒトは拳を握り締めた。
知らず知らずの内に歩調が落ちていたのか、ランツェに追い抜かれた。アルブレヒトは顔を上げて、背の高い少年を見上げた。月光の下、彼の金髪は羨ましいほど儚く輝いている。アルブレヒトは己の黒栗毛に指を通して払い、早足で彼を追い抜いた。
前を睨み、そして、立ち止まった。
行く手に黒い獣がいた。
◆
獣の口元から、ぴちゃ、と、黒い液体が滴った。
アルブレヒトは数秒の間、思わずその様子を凝視してしまった。低い含み笑いを聞いて、慌てて剣を抜く。鉄の重みを両腕に感じた。背後でランツェが動いたのか、光が揺れた。
「……見つけた」アルブレヒトは呟いてみた。どう声をかけるべきか、或いは何も言わないでおくべきなのかはよくわからなかった。ただ、一瞬で気持ちが呑まれそうになったから、踏みとどまるために声を発しただけだった。
――人間の気配に、見に来てみれば……
獣の声は昼より流暢だった。アルブレヒトは顔をしかめた。
風が強く吹き抜けると、獣の姿は半ばが掻き消え、そしてまた輪郭を取り戻した。
――ちょうど良い。運は我に味方したのか。
「どういうことだ?」アルブレヒトは訊ねた。
獣は嗤った。我が戒めは器を破壊しただけでは完全には解けなかった、と。
――他に何が必要か、わかるか?
「え」アルブレヒトは反射的に問いの答えに思考を巡らせた。「そんなこと訊かれても」
「王子様!」ほとんど同時に腕を掴んで強引に引き寄せられた。「わあ」と思わず声が出た。
その眼前を、爪の残像が通り過ぎた。アルブレヒトは慌てて体を反転させた。「え、今のずるいだろ!?」
「何まともに会話してるんですか、王子様!」ランツェが声を荒らげた。アルブレヒトはうるさいと怒鳴り返しかけ、辛うじて我慢した。確かに間抜けだったが、言い争いっている場合ではない。
「わ、きゃあ!」
アルブレヒトは今度こそ獣の動きに集中して二度目の突進を躱した。爪に掠った剣が悲鳴を上げる。剣の切先で相手を牽制しようとしたが、相手が怯んだ様子は感じられない。
「きゃあって……」ランツェが胡乱げな声で呟いた。
「な、何でもない。いいから前見てろ」
低い威嚇の唸り声を聞きながら、アルブレヒトは、早速、しまったなと思った。これひょっとして勝てないんじゃないか? そういえば剣は対人の訓練しかやったことがないし。勢いで行動するとこういうことになるから困る。
「王子様」ランツェが杖を振るったが、獣はひらりと身を翻して避けた。
アルブレヒトはその隙に剣身を切り返す。刃が毛皮の表面を削る感触があった。獣はすぐに飛びすさった。傷というほどの傷にはならなかったが、月光に照らされた剣には、ごくわずかにだが血がこびりついていた。
アルブレヒトは思わず僅かに笑った。
獣は体を低くして唸った。アルブレヒトはその姿を注視していたが、不意に、黒い影が掻き消えた。
地を蹴る音が耳に響いた。
「――王子様っ」
声。
衝撃。
割り込んだ少年の体が吹き飛ばされて、アルブレヒトにぶつかってきた。
アルブレヒトはその勢いに体勢を崩して尻餅をついた。頭上を、何か、素早い突風のようなものが通過した。
「ランツェ!?」
「痛ってえ!」ランツェは珍しく汚い口調で叫んで跳ね起きた。
アルブレヒトは一瞬驚いたが、普通、悲鳴まで丁寧語ではないだろうと納得した。ああ、気が散ってしまった。そして周囲を見渡したが、獣の姿はなくなっていた。
「な、なんだ……去ったのか?」
「…………そうだといいですけど。今ので肩を痛めました」ランツェは右肩をさすりながら言った。彼は顔をしかめて、杖を投げ捨てた。振り回せる状態ではないと判断したのだろう。
アルブレヒトはその少年と視線を合わせた。互いに小さく頷いた。そして随分と長い間、周囲を睨んで無言でいた。
雲が出てきたのか地に落ちる月光は斑を帯びていた。アルブレヒトはしかし空は見上げず、目を伏せた。風が強く吹いている。草がざわめいている。どこか近くで、虫が鳴いている。
アルブレヒトは、慎重に、帰路を振り向いた。遅れて、ランツェも倣った。
「逃げられたか」
「そうみたいですね」
「帰るか」
「……ええ」
風。草。虫の声。
紛れて、ほんのかすかな。
――跳躍の足音が。
アルブレヒトは身を翻しざまに、渾身の力で剣を薙いだ。月光を映した剣閃は風を裂き、ランツェに襲いかかった黒い獣に食い込んだ。苦痛の怒号が、押し倒された少年の声と重なる。
続く絶叫は獣のもので、一瞬のあとでそれも途絶えた。獣の喉元に短剣が突き立ち、滴る血が少年の左手を汚していた。
やがて巨躯は力を失い、夜に溶けるように崩れて消えた。
二人はしばらく、そのままじっとしていた。
獣が姿を隠したなら、きっと、手傷を負ったランツェを襲うだろうとは予想がついていた。それは不意を狙って背後からだろうとも。ああ、予想は当たった。見事に勝ったじゃないか。
アルブレヒトはランツェに向けて手を差し伸べた。
「よくわかったな」
「当たり前じゃないですか」彼は呆れたように言って、アルブレヒトの手を取った。「地面の寝心地は最悪ですね」
「場所が悪かったな」
アルブレヒトはにやりと笑った。そして頭上を振り仰いだ。
ああ、いい夜だ。
◆
帰還したときにはまだ夜は明けていなかったが、砦には灯りがついていた。
二人は門番に掴まって城代のところまで連れて行かれ、直々に長い説教を受けた。黙って抜け出すとは何事だと怒鳴られて目的を話せば、獣相手に夜に喧嘩を吹っ掛けるとは馬鹿かと怒鳴られた。
ランツェに至っては、持ち出した短剣は何やら武器庫で厳重に管理されていた対魔物用の魔法の品の一つだったらしく、謹慎だの懲罰だの雑用だのを命じられて、他の兵士に引きずられていってしまった。神妙にうつむいていると思いきや、アルブレヒトを一瞥した目元はかすかに笑いを堪えているようにも見えた。
アルブレヒトは悪いことをしたかなと思いながら見送ったが、何も、砦のものを持ち出さなくてもよかっただろうと思った。だって、アルブレヒトは、ランツェがただの新兵だということを忘れていたわけではなくて、だから戦力だなんて考えていなくて、連れて行くからには彼のことはちゃんと守るつもりでいたのだから。
アルブレヒトの方は、その余所見を見咎められて更に怒られた。
すみませんすみませんと謝っているうちに城代は幾らか落ち着いてきて、今日はもう休むようにと言い渡されて解放された。
部屋を出るとき、城代が不意に尋ねてきた。
「聞くのを忘れていた。……戦果は?」
アルブレヒトは振り返り、彼を見据えて、言った。
「もちろん、討ち取りました。私とランツェで、確かに」
城代は、そうかと笑った。そして笑ったまま言った。「大戦果だ、アルブレヒト子爵。だけどな、次は壷を割った時点で教えてくれ!」
「な……っ!」
アルブレヒトは絶句して、再びすみませんと項垂れた。
[終]