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02

 午後は、城壁の上で、砦内の図書館から借り出した歴史書(この図書館で言う歴史とは、軍事史のことだ)を復習して過ごした。

 途中でラウラ嬢の侍女がやってきて、お茶の集まりに同席してくれないかと誘われたが、断った。きらきらしい格好の少女たちに囲まれて、自分だけかっちりした男服の茶会など、気が滅入るだけだ。ランツェや彼の周りの兵卒は何故かアルブレヒトのことを「王子様」と呼ぶが、女からもそんな視線で見られるとした心外だ。そうでなくとも恋の話か他人の悪口ばかりの女の集まりには興味がない。

 アルブレヒトはそのことを思い出して嘆息した。その時、城壁の階段を登ってくる足音が聞こえたので、本を閉じて視線をやった。

「ヤン。どこへ行っていたんだ?」

「倉庫番に請われて掃除の手伝いをしておりました」

「どうせ酒にでも釣られたんだな?」アルブレヒトが尋ねると、ヤンは激しく首を横に振った。残念なことに、視線が誤魔化しに泳いでいる。いつものことだ。アルブレヒトは追求をやめて、訊ねた。

「で、用事は済んだのか? 手ぶらじゃないか。手伝うと言ったのなら、最後まで付き合って、ちゃんと報酬を受け取って来い」

「それが、倉庫で変なものを見つけまして……」ヤンは言った。アルブレヒトは眉間に皺を寄せて彼を眺めた。三十路を過ぎた、ひょろ長い男。ランツェと似たような身長だが、横幅の方は、成長途中の若者と比べても貧弱だ。アルブレヒトが物心ついた頃から屋敷にいたものの、関わるようになったのは、兄の真似をし始めてからだ。父も、従者をつけるなら、もう少し歳の近い人間を選んでくれればよかったものを。

 ヤンが言うには、奥から獣の声が聞こえるという。だが、幾ら探しても獣の姿はなく、見つかったのは、ただ、紙で口を封じられた古い壷だけだったと。

「魔獣でも封印されているんじゃないか? 確か、そういう伝説があっただろう」

 倉庫までついて行き、実際にその実物を眺めながら、ランツェは言った。ヤンは喉の奥で掠れたような悲鳴を上げて、アルブレヒトの背後に隠れた。アルブレヒトはあからさまにため息をついて、倉庫番に訊ねた。「で? これは?」

「はぁ……それが、目録にはないんですよ。いつの間にか紛れ込んでいたようです」

「ふうん」どうせ、適当にものを放り込んだせいだろう。目録なんて、歴代の管理人に一人でもずぼらな人間が混ざっていれば、何の信用もないものになる。

 アルブレヒトは剣を抜いて、切先で壷を軽く叩いた。きん、と、焼き物に鉄が当たるそのものの音がした。その響きで判断する。「中身は空か、入っていたとしても、小さなものがほんの少し……」


 ――ッ、……ァァァァッ!!


 突如、咆哮が轟いた。アルブレヒトも驚いて、思わず後ずさった。

 鳴き声は一度だけだった。アルブレヒトは壷を見下ろして、確かにこの中から聞こえたようだ、と認めた。視線を巡らせると、倉庫番は大きな木箱を背に青ざめている。ああ、確かに、背後の守りを固めるのは、奇襲に対処する際には悪くないことだ。で、ヤンは……と、眺めたが、見当たらない。物音に振り返ると、倉庫の入り口の扉に隠れて、外からこちらを窺っていた。

 アルブレヒトは目眩いを覚えた。まったく、男のくせに情けない。

「これ、本当に目録にはないんだな?」

「はい」

「なら開けても問題はないな」

「はい……え!?」倉庫番は目を剥いた。

 アルブレヒトは言った。「しまい直してもいいが、今後ここに入るたびに怯えるのは嫌だろう? どこかに移そうにも、目録にないものを他の倉庫に運び込むわけにはいかない」

「それはそうですが……」

「ほら、持って行くぞ。明るい場所で開けよう」アルブレヒトは壷を拾い上げた。壷は吼えたが、それだけだった。別に何かが飛び出してくるわけでも、中で何かが暴れるわけでもない。外に持ち出して眺めたところ、焼き物の表面はつややかな緑色で、封の紙には、褪せた墨で模様が描かれていた形跡があった。

 アルブレヒトは周囲を見渡して、倉庫の傍にあった切り株に壷を乗せた。腰に手を当てて、まじまじと眺めてみる。やはり、古い壷だ。それ以上でも以下でもない。

「お……坊ちゃん、どうなさるおつもりですか?」

「開けるに決まってるだろう」アルブレヒトは言ったが、ヤンのあからさまに不安そうな表情に、思わず決意が揺らいだ。倉庫番は既に姿を消していた。片づけの続きに戻る、という名目で逃げたのだろう。

「おやめください。処分に困るならどこかに埋めればよいではないですか」

「うーん……じゃあ、ヤン、埋めて来い」

「ひっ!?」

 ヤンは飛び上がった。アルブレヒトは、予想通りの反応にがっかりした。本当、どうしてこういう時にランツェがいないんだ。彼がいれば、「わかりましたよ、危ないからどいていてください、王子様」とでも言ってくれるだろうに。嫌そうに、だが。

「まったく……」アルブレヒトはため息をついた。「ただの壷じゃないか。何も恐いことはないぞ」

 不意に、強い風が吹き抜けた。梢がざわめき、砂が舞った。アルブレヒトは思わず顔を伏せて手で庇った。踊らされた黒栗毛が額と頬に当たる。翻った外套が風を受け、よろめいた。

 あちこちで、何かが転がる音と人の罵声、厩の方角からは馬の嘶きが響いた。


 ――、カ。……ソウカ……!


 あざ笑うような声が低くこだました。

 アルブレヒトはその源を探ろうとしたが、吹きつける砂埃から目を庇うのに精一杯で、見つけられなかった。風が収まった後に残ったのは、砂だらけで髪を乱した自分と、地に突っ伏してがたがた震えているヤンだけだった。

「……聞こえたか?」

「…………はい」

 二人は顔を見合わせた。アルブレヒトは壷に視線を向けて、予想通り、それが割れて散らばっているのを見て、目を瞑った。やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。いや、でも、あんな古い壷、そのうち事故か何かで割れていたはず。そうでなくても年月で紙が朽ちたはず。ちょっと早くなっただけだ。むしろ、この場に他の誰もいなくてよかったじゃないか――いや、よくない!

「坊ちゃん、落ち着いてくださいませ」ヤンは今までになく素早く一礼して、壷の破片を集めて懐から出した布に包み、それを抱えた。周辺には既に欠片の一つとして落ちていなかった。「捨ててきます」

「……あ、ああ……」アルブレヒトは思わず安堵し、そのことに罪悪感を覚えた。

「ご心配は不要です」ヤンは、父の配下の中で、最も“あと片づけ”がうまい。だから父は彼をアルブレヒトに同行させたのだ。不本意ながら、彼の手際にはたびたび助けられてきた。今回は……今回は、いいのだろうか? やはり、城代に報告するべきでは?

「坊ちゃん、伯爵は、坊ちゃんがつつがなく任期を終えて帰還することをお望みです」

 それなら最初から倉庫になんか連れて来るなと思ったが、それを言うと、先は言い訳にしかならない。

「ああ……」アルブレヒトは頷くしかなかった。そうだ、変な騒ぎを起こして、万が一にも正体がばれるようなことがあったら――ああ、それは、まずい。

 では、と、ヤンは踵を返した。頼りない背中が、頼りない足取りで遠ざかって行く。アルブレヒトは胸の内にわだかまってきた感情を乱暴に吐き出した。言い訳はやめよう。私が悪い。

 害は及ぼされなかった。去ったのだろうか……

 無理やりいい方に考えようとしていたが、正門の方から叫び声が聞こえてきたので、アルブレヒトは唇を噛んで走った。



 正門では、何人かの兵士たちが倒れて目を回していた。何事かと集まった人々を掻き分けて前に出たアルブレヒトは思わず声を上げた。

「うわ、ランツェ! 大丈夫か!?」

 慌てて駆け寄る。

「……うう、お…うじ様……?」焦点のぼやけた青い眸がアルブレヒトを見上げた。アルブレヒトは問い返した。「どうしたんだ?」

 ランツェは地に手をついて、起き上がろうとしながら言った。「巡回から戻ってきて、門をくぐろうとしたら、急に何かに吹き飛ばされたんです」

「……そ、そうか。災難だな」アルブレヒトは思わず目を逸らした。ランツェは僅かに目を細めた。その表情は普段の仏頂面に戻っただけとも、隠し事を見破ったとも、どちらにも見えた。とにかく彼は身を起こし、気分が悪そうに顔をしかめた。周囲は他の巡回隊も各々に我に返り、きょろきょろと周囲を見渡したり、取り落とした装備を拾ったりしていた。

「獣の影が見えたぞ」近くにいた巡回隊の兵が言った。「一瞬だけ。何もないところから、急に……」

 アルブレヒトはその兵士を横目にした。「獣?」

 巡回隊が状況を把握し始めると、辺りは一気に騒がしくなった。

「黒い獣だった。何だあれは。狼か?」「見てないぞそんなの」「おい、でけえ足跡があるぞ!」

 彼らが混乱しながらも何が起こったのかを確かめようとする様に、アルブレヒトは思わず感心した。

 ランツェが服の埃を払いながら言った。「……王子様」

「な、なんだ?」

「顔がひきつってますよ」

「なっ……だ、だって」アルブレヒトは慌てて言い訳を探した。「何もいないところから、急に獣が現れたんだろう? 驚かない方がおかしい」

「…………」

 アルブレヒトは彼から視線を巡らせた。やっぱり、いけない気がする。疑わしげなランツェの視線が痛い。というより、私は普段から、そんなすぐ疑われるような言動をしていただろうか?

「なあ、魔獣の類ではないか?」アルブレヒトは巡回隊の纏め役を見つけて訊ねた。ケヴィンという名の二十代半ばの兵士は、一瞬きょとんとして答えた。「まさか、騎士様。もう数十年は、このあたりで魔獣の目撃報告はありませんよ」

「だって、普通の獣じゃないだろう。足跡が残っているなら突風でもない」

「……ですが」

 アルブレヒトはケヴィンから視線を外し、正門の向こうに続く道を見た。空堀、平原。一見には何の変哲もないようだった。しかしよくよく目を凝らせば、道端の木の葉が吹き散らされて落ちていたり、道の表面の砂が舞い上げられて色の濃い土が見えていたりと、痕跡らしきものは幾らか見つけられた。

「魔獣じゃなくて、誰も姿を見ていないだけでただの獣だったとしても、こんなところに、そんな猛獣が出たなら大変だろう。あっちには」アルブレヒトは道の先を指さした。「集落があるんだから」

 言いながら吐き気がしてきた。何とかしないといけない。妙に饒舌に回る舌は、失態を補うためのものか。

 ケヴィンは顎鬚を撫でて目を細めた。「わかりました。まず城代に報告しましょう。ご希望に沿う対応になるかはお約束できかねますが、少なくとも、集落に夜間の外出を注意する伝令くらいは出せるよう計らいます」

「…………」アルブレヒトは沈黙して、ケヴィンを見上げた。

 ケヴィンは真面目な表情でアルブレヒトを見ていた。

「わかった」アルブレヒトはため息をついて、折れた。これといった被害が出ていない、事件とも確定しない件に対して、それ以上の対応は望めないだろう。

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