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01

 父の言うことには無理がある、と、アルブレヒトは常々思っていた。

 旅の踊り子に一目惚れして駆け落ちした兄の身代わりになれと、そんな馬鹿げたことを言われたのは十五歳の誕生日を迎えた春、つまり今からちょうど一年前のことだ。

 跡継ぎがいなければ家が潰れてしまうのだ、頼む頼むからあの馬鹿息子を見つけ出して引っ捕え、馬車の荷台に放り込んで連れ戻すまでのことだ、これはお前のためでもあるんだ、非の打ち所のない伯爵令嬢としてできるだけ立派な家柄に嫁にやって、どうにか幸せになって欲しいのだよと丸三日も部屋の前で騒がれて、ようするに泣き落としに根負けしたのだ。

 幼い頃から長く伸ばしていた黒栗毛をすっぱりと切り落とし、華奢な体に男物の細身の衣服を纏って、まあ、普段から化粧気がないのは問題として、百歩譲って、あまり凹凸がないことも認めよう、それでも一年間、誰にも気づかれずに過ぎたというのはあまりにも納得がいかない。

 ひきこもり気味で滅多に人に会わなかった兄の、確かに女に見えなくもない丸っこい平和な童顔を脳裏に描くたび、何か暴力的な衝動が喉の奥までこみ上げてくる。ああ、思い出すだけで殴りたくなる。馬鹿兄め。本当だったら今頃、私は鮮やかな衣装を着て、夜会で踊っていたはずなのに……いや、夜会には何度か出ている。兄として、だが。やはり納得いかない。

 アルブレヒトは(実際、彼女はアルブレヒトなんて名前ではないのだが)、はあああと思い切り深いため息をついて、目を開いた。

 正午を迎える前の、高い高い、蒼い空。頭上に広がる梢は琥珀に輝き、さわさわと風に揺らいでいる。

 合間に、白いたおやかな布が揺れている。

「……王子様、地面はそんなに寝心地がいいのですか?」

 呆れたような声と共に、視界に逆さまに現れたのは、よくよく見慣れた少年だった。注ぐ日差しを浴びた金髪に、よく整った顔立ち、成長途中の長身には逞しさと繊細さが同居している。アルブレヒトは目を細めて彼を眺めた。

 ここのところ親しくしている兵卒だ。父は身分の低い者との付き合いは云々とうるさいが、知ったことか。だいたい、自分と似たような年頃で、まともに会話が通じる相手は少ないというのに、数少ない話し相手にまでけちをつけられてはたまらない。

「ランツェ、お前も隣に寝てみるか?」

「遠慮しておきます。さっきまでさんざん地面に叩きつけられてたんですから」

 少年はため息をついて、アルブレヒトの側面へ移動した。

 伸ばされた手を掴む。どちらも日々の稽古で掌の皮は固い。一気に引き寄せて立たされながら、アルブレヒトはくすくすと笑った。

「急に呼びつけたご用は、昼寝の誘いですか?」

「違う、違う」アルブレヒトは彼の手を放し、風に揺れる黒栗毛を押さえた。そして頭上を仰ぎ見る。少年が倣って見上げるのを視界の隅に確認して、言った。「ラウラ嬢の肩掛けが、あそこに引っかかってしまったのだ。あれを取ってくれと頼まれたのだが」

「それで、木登りに失敗して転がってたと」

「うるさいな。だいたい、私はお前を呼んでなどいないぞ。ヤンがまた何か聞き間違えたんだろう」

「その間違い、何度目ですか……」

「何でもいい!」アルブレヒトは少年の言葉を遮って、びしと指をつきつけた。「来たからには、もちろん手伝ってくれるのだろう?」

「ええ、いつものことですから。今日はそんなに難題ではありませんし」少年は慣れた様子で苦笑いした。砦の侍女の猫を探しに、森の中を連れ回したことを言っているのだろうか? それとも、食堂から食物をくすねる大冒険のことか。心当たりが多すぎる。

「それにしても高いですね。何か、棒のようなものが必要です。武器庫から槍を借りてきましょう」

「……任せた」

「行ってきます」

 アルブレヒトは、身軽に駆け去る後ろ姿を眺めながら、私は今回はヤンにはじめからそれを言いつけたのだけどなあと内心に呟き、それから、まあいいかと思った。

 その従者も、どこで油を売っているものか、戻ってこない。しばらくはここで空を眺めているしかないだろう。



 アルブレヒトがいるのは鋼鉄砦と呼ばれる城砦だ。昔は北東から頻繁に侵入してきた異種族に対抗するためにつくられたが、ここ五十年は平和が続いていて、ほとんど使われていない。付近の領主たちが今でも騎士や兵士を順番にそこに駐屯させるのは、実際の警戒のためというよりも、半ばは形骸化した伝統のためだ。

 未だに普段から完全な防衛体制を敷いているのは、東国境沿いの錐の城くらいのものだ。血と鋼のにおいが染み付いた、森深い野蛮な土地であるというが、アルブレヒトはもちろん、そんな場所に足を踏み入れたことはない。

 この砦にだって、兄がくるはずだったのに。アルブレヒトは再びため息をついた。

 とにかく砦に詰めている日々というのは変動がなく退屈で、その間に、兄の代理を務めるために必要な兵法だの剣術だのといった、本当なら伯爵令嬢とは縁のないはずの分野さえ板についてきてしまった。そろそろ兄に勝てるような気がする。

 だけど、そういったことが得意すぎるのも問題だ。どこの立派な貴公子が、戦にあれこれと口を出す花嫁を欲しがるだろう? いや、知らないふりをして黙っていればいいのだろうけど、それができない自分の性格はよくよくわかっている。第一、見事に割れてしまった腹筋は輿入れまで隠せても、剣胼胝だらけの手はどうだろう。絹の手袋は隠し事をするには少しばかり薄い。

「あの、アルブレヒト様」

 少女の声が呼んできた。アルブレヒトは振り返り、城代の妹に微笑んだ。

「ああ、ラウラ嬢。時間がかかっていてすまないな。さすがに登るには高すぎた。今、引っ掛ける棒を取りに人をやっているんだ」

「いいえ、お待ちしますわ。急かしているのではありません」ラウラは口元に手をやった。刺繍の入った手袋ごしにも、その指の繊細さがわかった。「お時間を取らせてしまって……あとで、何かお礼をさせてくださいませ」

「構わないよ。どうせ暇をしていたんだから、気にすることはない」

「まあ」ラウラは、はにかむように笑った。「アルブレヒト様……」

「気にしないでくれよ」アルブレヒトは苦笑した。まったく、勘弁して欲しい。

 ランツェが帰ってきた。彼は儀礼用の歩兵槍を担いでいた。

 少年は二人の元へやってくると、まずはラウラに一礼した。ラウラは育ちの良い娘が常にそうであるように、兵卒の存在をそよ風か何かのように受け流した。

「ランツェ、よくそんなものを借りられたな」

「王子様のお名前は偉大ですね」少年はさらと答えた。「貸出証はあとでいいそうです」

「……わかった。さて、ラウラ嬢。念のために少し離れていてもらえるか? 万が一にでもお怪我をさせてしまったら一大事だ」

「ええ」ラウラはおっとりと頷いて、木陰から遠ざかった。中庭に設えられた長椅子に腰掛けて、彼女はアルブレヒトに優雅に手を振った。アルブレヒトは手を振り替えし、こっそりため息をついた。

「まったく……」

「王子様は女性に大人気で羨ましいですね」ランツェが投げやりに言った。アルブレヒトは彼を睨んだ。「嫌味か? お前だって、洗濯女や下女に持て囃されてるじゃないか。遠目にひそひそと噂されているのを知らないわけじゃないだろう」

「喧嘩をご所望ですか」

「喧嘩!? なんでそうなるんだ」

 ありのままを告げただけなのに。年上の女たちからは、十代半ばの新兵たちはみんな可愛く見えるらしいが、ランツェは容貌故か、特に気に入られている。話してみればこんなに無愛想で嫌味な奴なのに!

 アルブレヒトは更に三言を言い争った後で不毛さに気づいた。「いいから、早く、肩掛けを取れ! ラウラ嬢が見てるじゃないか」

「……」ランツェは、吹っ掛けてきたのは王子様ですけどねと言わんばかりの冷たい視線でアルブレヒトを眺めて口をつぐみ、はあと吐息して儀槍の石突で枝を探り始めた。先端には傷よけの革の覆いがつけられているから、槍自体で肩掛けを破いてしまうようなことはなさそうだ。

「枝に気をつけろよ。ああいう布はほつれやすいんだ」

「わかってます」

 ランツェは素っ気なく答えた。背伸びして槍で頭上を探る彼の周りに、ぱさぱさと、振り落とされた葉が舞い降りてくる。

 アルブレヒトは腰に手を当ててその様子を見上げながら、彼は何が不満なのだろうと思った。洗濯女や下女では不満だというのか、それとも評価の方か。

 アルブレヒトは父の頼みを無茶だと思ってはいても、やるからには完璧な演技をしたかった。万が一にでも、男装して砦で剣の稽古などしていることが世間に知れたら、本当に嫁の貰い手がなくなる。兄への当て付けに、本人より遥かにうまくやってやる、という意地もあるが。

 男らしい考え方や振る舞いというものを、何とか理解しなければならない。

「あ」

 ランツェが声を上げた。

 アルブレヒトは彼の視線を追って頭上を仰いだ。ふわ、と、白い影が降りてくる。それが少女の肩掛けだと気づいて、アルブレヒトは慌てて駆け寄った。皮膚の厚い指先に、ふわりとした羊毛の織り布の感触があった。

「よし」アルブレヒトは肩掛けから葉を払い、他に汚れがないことを確かめてから、ラウラの元へ向かった。少女は椅子に腰掛けたまま肩掛けを受け取って、「ありがとう」と笑った。「これ、妹からの贈り物なのよ。アルブレヒト様」

「あなたには白が似合いますからね。目の利く妹君だ」

 ラウラは口元を手で隠した。アルブレヒトは何か失言をしてしまったかと思ったが、少女は鈴の音が転がるような声で笑うばかりだった。「ええ。いつかご紹介したいですわ。妹も、母も、父も」

「そ、そう……光栄だな」

 アルブレヒトの返事に、ラウラは「是非」と応え、軽やかに立ち上がると身を翻して去っていった。アルブレヒトはぽかんとしてその細い後姿を見送った。

 我に返って振り返ると、ランツェが槍を背負って帰ろうとしていた。

「ランツェ!」

「何ですか? 俺、用事があるんですけど」

「用事?」

「飯と、ケヴィン先輩が巡回に連れて行ってくれるって」

 一瞬、ランツェは嬉しそうに笑った。アルブレヒトが滅多に見ない表情だった。

「そうか」アルブレヒトは言葉に詰まった。「いや、ありがとう。助かった」

「いえ。また何かあれば」ランツェは一礼して、今度こそ立ち去った。アルブレヒトは眉間に皺を寄せて頭を掻いた。暇な午後を一緒に潰せる仲間が見つかったと思ったのに。

 巡回任務の何がおもしろいのだろう? ゆっくり進む騎馬と一緒に、砦の周りの森や集落に異常がないか見て回るだけじゃないか。とりたてて華やかな景色などないし、他の楽しみがあるわけでもない。

 そんなに軍務や訓練が好きなんだったら、私が剣の基礎くらい教えてやってもいいのに。騎士流の剣術を兵卒が習う機会なんてそうそうあるものじゃないんだぞ。アルブレヒトは内心で呟きながら、何かもやもやしたものを感じて吐息した。

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