Here comes the Sun
なぜ、よりによってこの時期に──。
こんなに「師走」という言葉が似合う場所があるだろうか。一年の約三分の一を売り上げるこの十二月は「商戦」と呼ばれ、人員フル稼働での営業となる。当時、大手カラオケチェーン「カラオケルーム歌小屋」でエリアマネージャーを務めていた小林健太は、管轄店舗の一斉立ち入り検査という名の、冷や汗ものの対応に追われていた。風営法の絡みで突然やってきたのは、警視庁の生活安全課の面々である。制服を着こなした甘いマスクの男が先頭に立っていた。それが、鈴木瀧との出会いだった。
「お忙しい時間に申し訳ありません。」
くっきりとした二重の奥に、遊び心のある光を宿した瞳。太く凛々しい眉が、その端正な顔立ちに不思議と引き締まった印象を与えていた。アイドル風の華やかさがありながら、どこか隙のない──まさに警察官らしい好青年だった。そこには、年齢に似合わぬ余裕さえ漂っていた。整った顔立ちの警官を前に、健太は内心ドキドキしながらも、得意の営業スマイルで対応したのを覚えている。けれど、健太の記憶に最後まで残ったのは、彼の太陽のような笑顔だった。
その日は業務上の淡々としたやり取りだけで、二人はすれ違った。──それだけのはずだった。なのに。
冬のピリついたものが、やがて柔らかな陽気へと溶けていく、ある春の日。日々の激務の息抜きに、健太は一緒に暮らす妹の康子を連れて、ふらりとそこに足を踏み入れていた。場所は、新宿二丁目の隠れ家的なミックスバー「ハヤブサ」。
「いらっしゃいませ。あら、健太くんと康子ちゃん。」
女将は五十代半ばくらいの美女で、大型バイクに乗るライダーでもある。彼女の愛車であるSUZUKI「隼」の名を冠したこのバーは、一見するとライダースカフェにしか見えない。店内にはバイクのパーツやヘルメットが飾られ、グローブやウェアなども販売している。だが、健太と康子を含め、客のほとんどはバイクに関心がない。兄妹で飲み歩くのは珍しいことではない。カウンターの端に陣取り、酒を煽りながら他愛のない雑談に興じていた。ほかに、カップルだろうか、やはり男性客二人組がテーブル席に座り、楽しそうに笑いながらジャーマンポテトをつまんでいる。康子は、カウンターの隅でスミノフアイスをぐっと煽った。
「康子ちゃん、お勉強は順調?」
「バカだから難しすぎる。」
「そんなことないでしょ。息抜きにいつでも手伝いに来て。」
女将は穏やかに微笑み、健太のほうに向き直る。
「健太くんはどう?」
「なんにも変わったことねーな。」
そんな風に軽口を叩きながらグラスを傾けていたときだった。
「女将さん、お会計お願い。」
その声につい振り返り、目が合う。健太は思わず、息をするのを忘れた。
──あの冬、店舗に乗り込んできた、あの警察官だ。制服ではなくラフな私服姿だったが、端正な顔立ちと、周囲のトーンを静かに整えるような物腰は変わらない。しかも、その隣には明らかにデート相手らしい男がぴったりと寄り添っていた。
瀧はわずかに眉を寄せた。
「あれ?どこかでお会いしましたっけ?」
「お巡りさんっすよね?俺、歌小屋新宿歌舞伎町通り店で…。」
「ああ!」
お互いの声が、店内のレゲエにふわりと溶け込む。
逃げ出したいような、妙に気まずく、おかしいような、奇妙な沈黙。女将がちらりと二人を見ると、そっとその硬い空気をほどいてみせる。
「瀧くんと宏くんは、もともと『GAY ONLY』の第三金曜日に来てくれてたんだよね。そうだ、健太くんは実は有名人なのよ。」
「や、女将やめてよ。」
健太が照れくさそうに肩をすくめると、康子がすかさず説明する。
「兄は人気ブロガーなんです。『俺の漢飯』っていう、料理の…。」
瀧の隣にいたその男が、急に目を輝かせて健太の前に歩み寄ってきた。
「え!『ケンタウロス』さんですか?いつもブログ見てます!TikTokもフォローしててガチでファンです!『やみつきネギ塩豚丼』、週イチは作ってます!」
店内の空気が、一瞬にして違う色に染まった。興奮する宏の後ろで、瀧は堪えきれずに吹き出す。
「あはは。宏、ミーハーだなあ。」
「瀧が食ってるメシ、ほとんどケンタウロスさん直伝だからね。」
健太はガタイのいい体を縮こまらせ、うつむき気味だった。けれど、瀧が笑っている。そのことが妙に嬉しくて、張り詰めていた糸が音もなくほどけた。
「…そうなんだ。」
乾いた笑い声が、自分でも驚くほど自然にこぼれた。
それから何度か顔を合わせるうち、なんとなく連絡先を交換し、ときどき四人で「ハヤブサ」に集まるようになった。
瀧は、よく笑った。宏がくだらないことを言えば肩を揺らして笑い、健太が料理の話をすれば興味深そうに耳を傾ける。健太は、彼の「太陽のような笑顔」を見られることが、いつの間にか楽しみになっていた。
「お邪魔します…うわ!マジでケンタウロスさんのキッチンだ!」
玄関を抜けるなり、宏が歓声を上げた。
「おい宏、声でけーよ。小林くん、すいません、こいつ騒がしくて。」
瀧が苦笑いしながら丁寧に靴を揃える。袖を捲り上げ、腰にエプロンをつけた健太が、ジュージューと音を立てるフライパンの前で振り返って笑った。
「いいって、気にしないで。康子、洗面所教えてあげて。」
「うん。あ、タッキーとヒロくん、ビールでいい?」
瀧と宏が手を洗っている間に、康子は手際よく缶ビールをテーブルに並べる。
「なんか、小林くんってお母さんみたいだよね。」
カウンター越しに康子からグラスを受け取りながら、瀧が柔らかく目を細める。その無防備な笑顔に、健太は思わずフライパンを振る手を止めた。
「作るの好きなんだよ。高校生のとき、康子の友達にもメシ食わせたし。」
健太は照れ隠しするように笑いながら、「やみつきネギ塩豚丼」と、大皿に山盛りにされた揚げたての唐揚げをテーブルの真ん中に置いた。
「すごい!本家本元の元祖の『やみつきネギ塩豚丼』!いただきます!」
宏が目を輝かせて箸を手に取り、待ちきれないといった様子でガツガツとかき込み始める。その食べっぷりの良さに、康子が「ヒロくん、落ち着いて」と呆れたように笑いながらも、小鉢の冷奴をそっと差し出した。賑やかな宏の様子を横目に、瀧はグラスのビールを一口飲んでから、ゆるやかに息をつく。
「小林くんって超いい人だよね。しかもおんなじゲイだしさ。いいの?こんなによくしてもらって。」
「いいから、遠慮しないで食ってよ。」
健太がそう言って、瀧の取り皿に大きめの唐揚げをぽんと乗せる。ふわりと香るニンニクと生姜の食欲をそそる匂いに、瀧は一瞬だけ長い睫毛を揺らして驚いたのち、どこか子供のようにはにかんだ。
「ありがとう。いただきまーす!」
一口食べた瀧の表情が、春の雪解けのようにほどけていく。
「うま!店の味じゃん。」
「お兄ちゃん、はやくカラオケ辞めてお店出しなよ。」
康子が嬉しそうにビールを傾ける。警察官という重い鎧をまとい、普段は張り詰めているはずの瀧が、ここでは驚くほどリラックスしていた。その横顔を、健太はビールを飲みながら、あえて見ないようにした。見ていると、どうにも落ち着かなかった。
「ごちそうさまでした。サンキュ。」
「またいつでも来てくれていいから。」
健太の声が穏やかに響いた。賑やかな笑い声と、美味しい料理の匂いが満ちるリビング。瀧が笑うと、健太まで嬉しくなっていた。
めぐる季節は再び冬を連れてきた。街が冷たい息を吐き出す。そんなある第三金曜日の夜。「ハヤブサ」は月に一度の「GAY ONLY DAY」だった。健太は一人、カウンターでジョッキを片手に物思いに耽っていた。このごろ、瀧と宏に会わない。なんとなく、連絡もしづらくなっていた。店内に流れるミディアムテンポのレゲエに身を委ねながら、健太は冷えたビールを喉に流し込む。楽しい食事会からしばらく経ち、四人のグループチャットは静けさを増していた。忙しいのだろう、と頭では分かっている。それでも、スマホを開いては、何も届いていない画面を見てしまう。健太は小さく息を吐き、画面を伏せた。
そのとき、店のドアがガタッと開き、ベルがチリンチリンと鋭く鳴る。
「いらっしゃいませ。」
女将の声に顔を上げると、そこにスーツ姿の男が立っていた。
──瀧だった。
だが、その佇まいはいつもと明らかに違っていた。ネクタイは緩み、ジャケットのボタンは不自然に外れている。何より、その端正な顔がどこか青白く、ひどく疲弊し切っていた。
「女将さん、コークハイ、濃いめで。」
どこか足元のおぼつかない瀧は、健太のすぐ隣の席にどさりと身を預けた。荒い息が聞こえる。
「お疲れ様。瀧くん、久しぶりだね。」
女将が心配の色を滲ませながらも、手際よくグラスにウイスキーをなみなみと注ぐ。瀧は「ありがとう。」とかすれた声を漏らし、グラスを一気に半分ほどあおった。隣から漂う微かなアルコールの匂いと、行き場のない焦燥感に、健太は胸の奥がざわめくのを感じた。
「鈴木くん、大丈夫?」
おそるおそる声をかけると、瀧はゆっくりとこちらを向いた。
「小林くん。」
その瞳の奥が赤く潤んでいることに気づき、健太は息をのんだ。
「宏にフラれた。」
「え。」
想定外すぎる言葉に、健太の思考が一時停止する。あんなに幸せそうに、健太のごはんをおいしそうに食べていた二人が。
「喧嘩した、ってわけじゃないんだけど…。」
瀧は自嘲するように唇を歪めると、残りのコークハイを一気に飲み込む。
「…そっか。大変だったな。」
気の利いた言葉なんて出てこなかった。ただ、目の前でガラス細工のように脆くなっているこの男を放っておけなくて、健太は自分の手元にあったグラスをそっと引き寄せ、代わりにお冷のグラスを差し出した。
「飲みすぎるなよ。」
「ガキ扱いすんなよ。」
小さくこぼされた声は、どこか甘えてみるような、幼い響きを含んでいた。その表情を見た瞬間、健太の胸が締めつけられる。いつもは、警察官らしい余裕を崩さない男だった。なのに今は、目の前で途方に暮れている。
「そんな飲み方されると不安になるだろ。」
健太が少し強めに、しかし温度を込めてそう言うと、瀧は驚いたようにわずかに目を見開いた。そして、潤んだ瞳を真っ直ぐに健太に向ける。店内の喧騒が、遠くの波音のように引いていく。瀧のまっすぐすぎる瞳から、健太は一瞬、目を逸らそうとした。だが、それより早く、瀧の大きな手が健太の袖をキュッと掴んだ。
「小林くん、俺…、帰りたくない。」
掠れた声が、カウンターの冷たい表面に吸い込まれていった。健太はジョッキを握る指先に、不意に力を込めた。
帰りたくない。
その言葉の裏に、宏の影があるのは分かっている。今、瀧が見ているのは、健太ではないのかもしれない。それでも。それでも、今この瞬間、自分を見つめてくる潤んだ瞳に、どうしようもなく胸が疼いた。
「…わかった。」
健太はそう言った。それ以上、何も聞かなかった。その手の上にそっと、震える自分の手を重ねる。瀧の強張っていた表情から、力が抜けた。ふっと、静かな安堵が広がる。健太は、その手を離さなかった。
その夜、健太は瀧を自宅へ連れて帰った。酔いと疲れで足元のおぼつかない瀧を支えて玄関を開けると、家の中は静まり返っていた。同居している康子は、すでに自分の部屋で眠っているらしい。
「ごめん。小林くん。」
「気にすんな。ほら、水飲め。」
コップを受け取った瀧は、しばらく黙って水を飲んでから、ぽつりと呟いた。
「宏、最初は、ほんとに優しかったんだ。『かっこいいから仕方ない』って笑ってくれてた。でも、だんだん『誰と話した』『男と飲みに行くな』って縛られるようになって…。俺が悪いのかなって思ってた。」
「や、悪くないだろ。」
「好きだから怖いんだって、宏が泣くんだよ。」
瀧はコップをぎゅっと握りしめた。
「だから我慢すればいいと思った。でも…最後は腕掴まれて、殴られた。」
自分の声じゃないみたいに、ぽつりと落とした。
健太の表情が固まる。瀧はうつむき「それでも、宏が嫌いになれなくて。」と苦しげに笑った。好きだから我慢する。健太には否定できなかった。
「今日はもう、何も考えなくていい。ここにいろ。」
「ここにいていいの?」
「おー。」
静かな部屋の中で、瀧の肩から少しずつ力が抜けていく。その夜、二人の距離は少しだけ変わった。
翌週の金曜日。「ハヤブサ」のカウンターで、健太は一人、ビールを飲んでいた。あの夜から、瀧からは「眠れた」「また会いたい」と短い連絡が続いていた。嬉しい反面、宏にフラれた寂しさを埋めるためだけに自分のところへ来たのではないかという不安が消えずにいた。
ドアのベルがチリンチリンと鳴った。
「いらっしゃいませ――。」
女将の声が途中で止まった。入ってきたのは、宏だった。
「女将さん…瀧、来てない?」
「宏くん、久しぶり。今日は来てないね。」
宏は店内を見回し、健太を見つけると、まっすぐ歩いていく。
「小林さん。俺、瀧と話したいんです。あいつがいなくなって初めて、俺がどれだけひどいことしてたかわかったんです。瀧を取り戻したい。」
その言葉に、健太は無意識にジョッキを握りしめた。
「小林さん。」
「なんだよ。」
「…瀧、知らない?」
「さあな。」
「知ってるんだろ。」
「…。」
健太は答えなかった。宏の顔から、さっと血の気が引いた。
「…やっぱり。」
「何が。」
「お前、瀧に手を出しただろ。」
店内の空気が凍った。
健太はゆっくりとジョッキを置いた。
「…それ以上言うな。」
「図星なんだ。」
「瀧が俺と別れて、一週間もしないうちにお前のところへ行った。優しくして、飯食わせて、泊めて…それで?」
宏の声が次第に大きくなる。
「俺から瀧を奪ったのかよ!」
その時。
「ふざけんな。」
低い声に、宏が息を呑む。
「俺は奪ってねえよ。傷ついてるときに、放っておけなかっただけだ。好きだからって、何してもいいわけじゃねえだろ。苦しめといて『好きだから』で済ませるなよ!」
初めての怒鳴り声に、宏がうつむく。そのときチリン、と静かにドアのベルが鳴った。
振り返ると、スーツ姿の瀧が立っていた。
「瀧!」
宏が駆け寄り、必死に復縁を懇願する。しかし、瀧は静かに首を振った。
「宏。嫌いになったわけじゃない。でも、もう戻れない。宏といると、自分がどんどん小さくなっていく感じがしたんだ。もう、誰かの不安を埋めるために生きるのはやめる。今まで、ありがとう。」
静かな声だったけれど、その言葉には揺るがない強さがあった。宏はしばらく瀧を見つめたあと、涙を拭うこともせず店を出ていった。ドアが閉まり、ベルがチリン、と鳴る。店内に静けさが戻った。
「お騒がせして、申し訳ありません。」
瀧は店内の客と女将に、丁寧に頭を下げた。ハイボールを頼むと、健太の隣に座る。
「小林くん。」
瀧がまっすぐに目を合わせた。
「宏の代わりが欲しかったわけじゃないよ。」
「え。」
「俺が帰りたくなかったのは、ここだったから。」
瀧が、笑った。あの冬と同じ、太陽のような眩しい笑顔だった。
瀧は自分でここへ来て、自分の意思で宏との恋を終わらせた。もう、自分を疑う必要はなかった。胸の奥にあった小さな不安が、ゆっくりとほどけていく。健太は照れくさそうに笑った。
「これ飲んだら、帰る?」
「うん。」
二人は並んで店を出た。新宿二丁目の賑やかな夜の中を歩きながら、瀧がふいに立ち止まった。
「小林くん。」
「ん?」
瀧は何か言いかけて、やめた。そして、健太の袖をほんの少しだけつまんだ。
「なんでもない。」
「なんだよ。」
健太が笑うと、瀧も笑う。それから二人は、並んで歩き出した。人通りの多い夜の街で、二人の肩がときどき触れる。健太には、それで十分だった。




