第8章 歪んだ日常のバックライト
ハッキングから数日。
詐欺アプリは一夜にして消滅し、SNSには「謎のハッカーによる義賊行為」として一時的な熱狂が巻き起こった。
しかし、定食屋『いなほ』の片隅に座る翔太と美緒に、勝利の余韻は微塵もなかった。
1. 視線の「実体化」
「……ねえ、翔太君。あそこ、また止まってる」
美緒が、割り箸を割る手を止めて窓の外を顎で示した。
通りの向かい側。
古びたコインパーキングの端に、黒塗りの大型SUVが停まっている。
エンジンはかかっておらず、スモークガラス越しに中の様子を窺い知ることはできない。
「昨日から、これで三度目ですね。ナンバープレートを照合しましたが、レンタカー会社を経由した『飛ばし』の車両です。追跡はそこで途絶えています」
翔太は生姜焼きを口に運ぶが、その味を感じているようには見えなかった。
彼の視線は、手元のタブレットに表示された『いなほ』周辺の防犯カメラ映像に向けられている。
「ネットの向こう側にいた連中が、こっち側の『住所』を持った。……それは、ゲームのルールが変わったことを意味します」
2. 侵食される聖域
「おーい、二人とも。今日はいいカツが入ったから、サービスしといたよ!」
店主が威勢よく運んできたトンカツの皿。
いつもなら歓声を上げる美緒だったが、今はその温かい湯気さえ、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「……おじさん。最近、変な人が店に来たりしなかった?」
美緒が努めて明るく尋ねる。
「変な人? ああ、そういえば昨日の夕方、スーツを着た二人組が来たなあ。『この辺で、優秀な若手のクリエイターが働いていると聞いたんですが』なんて聞き回ってたよ。九条さんの知り合いかって聞いたら、ニコニコ笑うだけでさ」
美緒の背中に冷たい汗が流れた。
彼らは、隠そうともしていない。
自分たちがここにいることを知っていると、あえて周囲に誇示しているのだ。
3. デジタルからの「返信」
その時、翔太のスマホが短く震えた。
表示されたのは、差出人不明のメール。
件名には、美緒が昨日書き上げたばかりの未公開のロゴデザインのタイトルが記されていた。
添付されていたのは、一枚の写真。
それは、今まさに『いなほ』の窓際で、スマホを見つめている二人の後ろ姿だった。
「……撮られてる」
翔太が低く呟くと同時に、通りの向かい側のSUVのライトが、パッとハイビームで点灯した。
強烈な光が店内に差し込み、二人の影を壁に長く、歪に映し出す。
まるで、逃げ場のない檻の中に閉じ込められたような感覚。
「一条さんの言っていた通りです。アルカディア・グループにとって、僕たちは『正義の味方』などではない。自分たちの集金システムを破壊した、ただの『バグ』に過ぎないんです」
4. 壊れた境界線
SUVは、数秒間ハイビームを照射し続けた後、ゆっくりと、しかし確実に動き出した。
店の前を通り過ぎる際、後部座席の窓がわずかに開く。
そこから投げ捨てられたのは、美緒が以前、九条の事務所で愛用していたマグカップの破片だった。
「……私の、お気に入りだったやつ……」
美緒の声が震える。
それは、彼らが二人のプライバシーを、過去を、そして安全を、いつでも踏みにじることができるという宣戦布告だった。
「美緒さん、もうここは安全ではありません」
翔太がタブレットを閉じ、鋭い眼差しで彼女を見た。
「日常を人質に取られるのが、一番効率的な脅迫です。……彼らが僕たちを『排除』しに来る前に、こちらから仕掛けるしかありません。……今度は、ネットの中だけじゃなく、リアルの世界で」
店内に流れる古い歌謡曲のメロディが、今はひどく不気味な不協和音に聞こえていた。




