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第12章 午前4時のキャンバス

 アルカディア本社の35階。

 嵐のような停電騒ぎが嘘のように、フロアは再び死の静寂に包まれていた。


 蓮見から与えられたのは、プロジェクトの「特別室」と呼ばれる、遮音性の高い個室だ。

「……あと、4時間」

 美緒は真っ白なペンタブレットの画面を見つめ、掠れた声で呟いた。

 デスクの脇には、セキュリティを潜り抜けて翔太が手配した「偽装済み」のミネラルウォーターが置かれている。

 翔太とは今、あえて通信を切っていた。

 通信波を長時間出せば、蓮見の息の根がかかったエンジニアたちに逆探知される恐れがあるからだ。

 今は、一人だった。


 1. 「正しさ」という名の呪縛


 モニターには、蓮見が提示した『デジタル都市計画』の無機質なグリッド線が引かれている。

 アルカディアが目指すのは、全ての市民の行動、感情、消費を「最適化」する完璧な管理社会。

 そのためのロゴには、本来、ノイズや無駄があってはならない。


「……描けない」

 ペンを走らせるたび、美緒の脳裏には『いなほ』の店主の笑顔や、定食屋の壁に貼られた手書きのお品書きが浮かぶ。

 アルカディアが求める「完璧」を描こうとすればするほど、彼女の指先は鉛のように重くなった。それは、彼女自身の魂を殺す作業に他ならなかった。

「蓮見さんは言った。『体温を描け』って。……でも、この冷たい檻の中に、どうやって体温を閉じ込めればいいの?」

 焦燥感で視界が歪む。

 極度の緊張と疲労で、画面の白い光が目に刺さる。

 美緒は机に突っ伏し、震える手で自分の腕を抱きしめた。


 2. 暗闇からの囁き


 その時、机の隅に置いていた私物のノート(中身をスキャンされるのを恐れて翔太が特殊な電磁シールドを施したもの)が、パラリと開いた。

 そこには、九条の事務所にいた頃、仕事の合間に落書きした翔太の似顔絵があった。

 無愛想で、いつもモニターばかり見ている彼。

 でも、その瞳の奥には、ネットの海に沈む小さな声を拾い上げようとする、不器用な優しさがある。

(……そうだ。翔太君は、この『システム』を壊そうとしているんじゃない。守ろうとしているんだ。私たちの『日常』を)

 美緒の中で、何かが弾けた。

 彼女は再びペンを握り、これまで描いてきた「整った線」を、迷うことなくすべて削除した。


 3. 美しき「バグ」


「……蓮見さん。あなたが求めているのは、管理するための美しさじゃない。……支配されていることにさえ気づかせないほどの、『救い』のデザインでしょう?」

 美緒の指が、憑かれたように動き始めた。

 彼女が描いたのは、完璧な幾何学模様。

 しかし、その線の重なりをわずかに、0.01ミリ単位で「ゆらして」いく。

 それは自然界の揺らぎであり、人の鼓動の乱れだ。

 デジタルなグリッドの中に、意図的に「バグ」を、しかし最高に美しい「グラデーション」として溶け込ませていく。

 それは遠目に見れば、この世のものとは思えないほど神聖な紋章に見える。

 だが、近くで見れば、それは何千、何万という「個人の筆跡」が重なり合ってできているような、圧倒的な生命力の塊だった。

「……これなら。これなら、この冷たい都市に、血が通う」


 4. 提出のとき


 窓の外が白み始めた頃、美緒は最後の一線を書き終えた。

 意識は朦朧としていたが、画面に映るロゴは、彼女の命を削って生み出したかのように、不気味なほどに輝いていた。


 午前8時。定刻通りにドアが開いた。

 入ってきたのは、一睡もしていないはずなのに、寸分の乱れもないスーツ姿の蓮見だった。

 彼は一言も発さず、美緒のデスクへ歩み寄り、モニターを凝視した。

 一分。

 二分。

 時計の針の音だけが部屋に響く。


「……狂っているな」

 蓮見が低く、震える声で言った。

「褒め言葉と受け取っていいですか?」

 美緒は、充血した目で蓮見を見返した。

「ああ。これほどまでに美しい『毒』は見たことがない。……政府の連中は、これを見て狂喜乱舞するだろう。自分たちの支配が、こんなにも美しいと錯覚できるのだから」


 蓮見は美緒の肩に手を置いた。その手は、驚くほど冷たかった。

「美緒。君は今日から、このプロジェクトの『象徴』だ。……そして、アルカディアから一生逃げられない『共犯者』になったんだよ」


 蓮見が部屋を出た直後、美緒のポケットの中で、翔太から一度だけ、短くバイブレーションが届いた。

 それは『よくやった』という合図なのか、それとも『最悪の事態になった』という警告なのか。

 美緒はモニターに映る自分のデザインを見つめながら、ただ静かに、涙を流した。

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