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第10章 硝子の城への招待状

 港区、芝浦。

 海を見下ろすようにそびえ立つ、全面強化ガラス張りの超高層ビル。

 それが、アルカディア・グループの本社ビルだった。

 

 かつての『いなほ』での日常とは正反対の、無機質で、酸素さえも濾過されているような静寂。

 美緒は、一条響が用意した高級感のある紺のセットアップに身を包み、ロビーの白砂利のようなタイルをヒールの音で鳴らしながら歩いていた。


 1. 耳元に潜む「影」


「……美緒さん、聞こえますか? 心拍数が上がっていますよ。深呼吸を」

 耳の穴に深く差し込まれた、米粒ほどの極小ワイヤレスイヤホン。

 そこから届く翔太の声は、いつものように冷静で、どこか安心させる温度を持っていた。

「わかってる……。でも、ここ、ビル全体が威圧感の塊みたい。受付の人までサイボーグに見えるよ」

 美緒は小さく口を動かし、独り言のように答える。

 彼女の胸元にあるシルバーのブローチには、翔太が改造した超高層広角カメラが仕込まれていた。

 ビルから数キロ離れた潜伏先のビジネスホテルで、翔太は複数のモニターを前に、美緒が見ている世界を共有している。


「大丈夫です。あなたの経歴は一条さんの手によって、完璧な『海外帰りの新進気鋭デザイナー』として書き換えられています。あなたは今、この国で最も注目される才能だ。そう振る舞ってください」

「……やってみる。生姜焼きのことだけ考えて、緊張を逃がすから」

「いい心がけです。ゲートを通過してください。IDカードは、僕が既にバックドアから承認済みです」


 美緒が受付機にカードをかざすと、未来的な電子音と共にゲートが開いた。

 それは、二度と引き返せない「敵地」への入り口だった。


 2. 35階、クリエイティブの「処刑場」


 エレベーターが音もなく上昇し、35階に到着する。

 扉が開いた瞬間、美緒を待っていたのは、何百台ものモニターが整然と並ぶ、広大なクリエイティブ・フロアだった。

「……ここが、アルカディアの心臓部」

 そこには、九条健太の事務所のような「ごっこ遊び」の空気は一切なかった。

 数百人のスタッフが、一言も発さずにキーボードを叩いている。

 聞こえるのは、サーバーの冷却ファンが回る微かな唸り音だけ。


「ようこそ、アルカディアへ。一条さんから聞いていた通り、ずいぶんと可愛らしい『天才』が来たもんだ」

 フロアの中央、ひときわ巨大な円形デスクに座っていた男が、ゆっくりと椅子を回転させた。

 アルカディア・グループ、クリエイティブ・チーフ。

 蓮見はすみ れん

 鋭いナイフのような眼差しと、整いすぎた顔立ち。

 彼は九条健太が憧れ、そして足元にも及ばなかった「本物の独裁者」だった。


「初めまして、蓮見さん。今日からチームに加わります、美緒です」

 美緒は一条に教え込まれた通りの、少し不遜で自信に満ちた笑みを浮かべた。

「挨拶はいい。君の『嘘』はデザインで見せてもらう」


 蓮見は立ち上がり、美緒の目の前にある巨大なモニターを指差した。

「今、我々が政府と進めている『デジタル都市計画』のロゴだ。12人のトップデザイナーが案を出したが、どれもゴミだった。君なら、この『空虚な都市』にどんな色を塗る?」


 3. 剥き出しの試練


「美緒さん、落ち着いて」 イヤホン越しに翔太の声が飛ぶ。

「今、蓮見の端末のスペックと、彼が過去に好んできたデザインの傾向を解析しています。……でも、ここは僕のデータじゃなく、あなたの直感が必要です」


 美緒は息を呑み、モニターの前に立った。

 蓮見が提示したのは、冷徹で機能的な、しかし「血の通っていない」都市の構想図だった。

 アルカディアは、この計画を通じて国民の行動をデータ化し、支配しようとしている。


「……この図面、すごく綺麗ですね」 美緒が静かに言った。

「綺麗? それだけか?」 蓮見が鼻で笑う。

「はい。綺麗すぎて、誰も住みたがらない。……蓮見さん、あなたはここに住む『人』の体温を無視している。だからデザインが死んでいるんです」


 フロアの空気が、一瞬で凍りついた。

 作業をしていたスタッフたちが、一斉に手を止めて美緒を見る。

 蓮見の眉がぴくりと動いた。

「……面白い。なら、描いてみろ。その『体温』とやらを」


 4. 潜入の第一歩


 美緒は、差し出されたデジタルペンの感触を確かめる。

 手は震えていたが、画面にペン先を置いた瞬間、彼女の脳裏に『いなほ』の湯気や、下町の雑踏、そして隣でキーボードを叩く翔太の横顔が浮かんだ。

(……本物のデザインは、誰かを支配するための道具じゃない。誰かの明日を、少しだけ明るくするためのものだ)

 美緒が鮮やかな色彩を引き、画面上で線が躍り始める。

 その様子を後ろから見つめていた蓮見の目が、次第に細められていく。


「……美緒さん、蓮見の心拍数が上がっています」 翔太の声が、少しだけ弾んだ。

「彼は、あなたの『毒』に当てられたようだ」


 一時間後。

 美緒が描き上げたのは、幾何学的な冷たさを内側から壊すような、有機的でエネルギッシュなロゴの試作案だった。


 蓮見は長い沈黙の後、小さく、しかし確かな声で言った。

「……気に入った。君を、このプロジェクトのメイン・ディレクターに据える」

「ありがとうございます」

 美緒は平然と答えたが、内心では足の震えが止まらなかった。


「ただし、美緒君。うちで働く以上、プライバシーは捨ててもらう。君のデバイス、持ち物はすべて我々のセキュリティチームがスキャンする。……いいな?」

 その言葉に、美緒の心臓が跳ねた。

 今、彼女の耳には翔太との通信機が、胸元には隠しカメラがある。


「美緒さん、まずいです。セキュリティ班がこちらに向かっています」

 翔太の声に、これまでにない緊張が走った。

「……強硬手段に出ます。指示に従ってください」


 華やかなクリエイティブの現場が、一瞬にして「摘発」の場へと変わろうとしていた。

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