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第9章 怪物のチェスボード

『いなほ』の店主には「しばらく旅行に出る」とだけ告げ、二人は裏口から店を出た。

 翔太はあらかじめ手配していた複数のタクシーをダミーとして走らせ、自身らは格安のシェアサイクルで街を縫うように移動した。

 黒塗りのSUVを振り切るためではなく、彼らの「監視網」にノイズを混ぜるためだ。


 1. 聖域への再訪


 二人が辿り着いたのは、港区にある超高層ビルの最上階。

 一条響が支配する『電報社』のエグゼクティブ・フロアだった。

「……またここに来ることになるなんてね」

 美緒が、場違いな自分たちの格好(デニムにスニーカー、そしてノートPCの入ったリュック)を自嘲するように呟く。

 重厚な自動ドアが開くと、そこには前回と同じく、冷徹な美しさを湛えた一条響が待っていた。

 彼は夜景を背に、琥珀色の液体が入ったグラスを傾けていた。

「お帰り。思っていたより早かったな。……『いなほ』の生姜焼きは、命を懸けるほどのものではなかったか?」

「……皮肉は結構です」

 翔太が一歩前へ出る。

「一条さん、あなたが言っていた『怪物』の正体を教えてもらいに来ました。アルカディア・グループ……彼らは単なる広告代理店じゃない」


 2. 「掃除屋」の実体


 一条は椅子に深く腰掛け、不敵な笑みを浮かべた。

「ようやくスタートラインに立ったか。アルカディアはな、ネット上の『世論』を株価や政治に変換するための洗浄機だ。彼らにとって、九条健太はただの使い捨ての『広告塔』に過ぎなかった。だが、君たちがその広告塔を物理的に破壊し、さらには資金源のサーバーまで焼いた」

「彼らは今、怒っている……ということですか?」

 美緒が尋ねる。

「怒る? いや、もっと実務的だ。彼らは『エラー』を排除したいだけだ。君たちは、彼らの精密なアルゴリズムの中に紛れ込んだ、想定外の『バグ』なんだよ。バグを修正する最も簡単な方法は、デリート(消去)することだ。……あのSUVに乗っていた連中は、エンジニアではなく『掃除屋』だよ」


 3. 一条の「取引」


 一条はテーブルの上に、最新型のタブレットを放り出した。

 そこには、アルカディア・グループが次に仕掛けようとしている「巨大プロジェクト」の極秘資料が映し出されていた。

「彼らは来月、政府公認の『デジタル都市計画』のメインビジュアルと広報を独占する。これが成功すれば、彼らの支配力は盤石になる。……どうだ、翔太君、美緒君。この巨大なパレードを、中からめちゃくちゃにしてみないか?」

「……僕たちに、何しろと?」

「私は電報社の人間として、彼らの独走を止めたい。

 だが、表立って動けば角が立つ。……君たちのような『存在しないバグ』が必要なんだ。美緒君には、アルカディアのクリエイティブ・チームに『天才デザイナー』として潜入してもらう。翔太君、君は彼女のバックアップをしつつ、彼らの中枢システムに致命的なウイルスを流し込め」

 一条の提案は、毒を持って毒を制する、極めて危険な賭けだった。


 4. 毒を喰らわば


 美緒は、自分の震える手を見つめた。

 以前、九条のロゴに仕込んだ「隠しサイン」 。

 あの時はただの意返しだった。

 しかし今度は、国家規模のプロジェクトを相手に、文字通り「偽装」を演じなければならない。

「……一条さん。もし失敗したら?」

「君たちの『日常』は、二度と戻らない。……だが、成功すれば、アルカディアという巨像は足元から崩れ去る。君たちが望んでいた『デザインの正義』とやらを、世界に見せつけるチャンスだ」

 翔太は美緒の目を見た。

 彼女の瞳には、恐怖と、それ以上に強い「創り手としての意地」が宿っていた。

「……いいでしょう。その『パレード』、僕たちが史上最悪の放送事故に変えてみせます」


 一条響は満足げに目を細め、グラスを高く掲げた。

「交渉成立だ。……ようこそ、本物の戦場へ」

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