表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

評価            :約2500文字 :悪魔

作者: 雉白書屋

「ふーっ……」


 夜。とあるアパートの一室に、コトッと筆を置く音が小さく響いた。しかし、その乾いた音は直後に漏れた深いため息に呑み込まれ、部屋には重苦しい沈黙だけが残った。

 天井からぶら下がった裸電球が、頼りない光を放ち室内を照らしている。畳には無数の絵の具の染みが広がり、壁際には空きペットボトルや丸めたティッシュ、使い切った絵の具のチューブが無造作に転がっている。生活感というより、疲労の蓄積のように見えた。


 男は画家だった。

 今描いている絵は完成間近。しかし、その胸には興奮も喜びもなかった。納得のいくところまで来ているはずなのに、心は冷え切っている。あるのはただ、絶望じみた諦念と自分自身に向けた苛立ちだけだった。

 どうせ、この絵も誰からも評価されないだろう。そう考えただけで喉の奥が詰まり、自然とまた深いため息が漏れた。


「はあ……」 


 だが、男が肩を落とし、視線をキャンバスから逸らした、そのときだった。

 イーゼルがカタカタと小刻みに震え始めた。


「……っ!」


 男は反射的に身を縮めた。地震かと思い、そのまま身構える。が、どういうわけか揺れを感じない。電球の光もまったく揺れていないではないか。

 違和感に眉をひそめ、男はおそるおそる顔を上げた。そしてその瞬間、目を見開いた。

 たった今まで筆を走らせていたキャンバスの中が、渦を巻くようにぐるぐると回転していたのだ。

 絵の具の色が境目を失って絡み合い、火花のような光が弾ける。見つめていると、足元がふわっと軽くなった気がした。吸い込まれる――そう思った男は、思わず後ずさりした。

 その瞬間、追いかけるように鋭い爪がキャンバスの内側から突き破って飛び出した。続いて腕、肩、角――裂けるような笑い声とともに、それは這い出してきた。


「……私は悪魔だ」


「あ、悪魔……?」


 男は腰を抜かし、その場に尻もちをついたまま、口をあんぐりと開けてそれを見上げた。

 赤黒くひび割れた皮膚に、頭にはねじれた二本の角。呼吸のたび、焦げた硫黄の匂いが部屋に広がった。確かに、他に言いようがない。まごうことなき、悪魔そのものであった。 


「だ、だが……なんで……? 確かに、おれが描いていた絵には悪魔がいたが……」


 目の前の悪魔は、男が描いたものとは似ても似つかなかった。仮に似ていたとしても、絵から飛び出してくる理由がわからない。男は何度も目を擦り、腕をつねった。しかし、痛み、温度、匂い、汗に濡れた服の気持ち悪い質感――自分の体だけが確かな現実味を帯びていた。


「君はこの絵を描くにあたり、ずいぶんと調べただろう? 悪魔を呼び出す方法を……」


 悪魔は低く湿った声で言った。


「あ、ああ……。魔法陣を下絵に描いたり、カエルの目玉を潰して絵の具に混ぜたりはしたが……」


「その執念が私を呼び寄せたのだ。……まあ、この絵は感心しないがね。悪魔が天使に退治される構図とは」


 悪魔が顔を歪め、爪先でキャンバスを軽く弾いた。

 男はかすれた笑いをこぼした。確かに、いい絵を描きたい一心で資料を漁り、細部にこだわり、他の人間がやらないことまで試してきた。だが、それは正直なところ、ほとんど自己満足の行為だった。一枚も売れず、評価もされず、そうやって職人ぶらないとやっていけなかったのだ。だがまさか、それが本当に呼び水となるとは……。

 男はそう思い、ごくりと唾を飲んだ。


「君の絵を、世界で高く評価されるものにしてやろう」


 悪魔はにやりと笑った。まるで男の内心を見透かすかのように目を細めて。


「お、おお……で、でも、タダじゃないんだろう? 代償は……?」


 震える声で問いかけると、悪魔は一拍置いて答えた。


「魂だ」


 その声は、地の底から響く鐘のように重く、室内の空気を震わせた。

 男は喉の奥で息を詰まらせ、言葉を失った。

 ……魂、か。おそらく、このまま描き続けても絵が世に出ることはないだろう。評価されず、売れず、死ねば作品も自分もまとめて消え去ってしまう。これまでの努力はすべて無駄。ゴミ処理場の燃料になるだけ。そんな結末は耐え難い。死ぬことよりもはるかに恐ろしい。ならば、魂など安いものじゃないか。


 男は本当はそろそろ絵をあきらめ、就職活動をしようとも考えていたのだが、いつの間にか筆を折ることは死ぬことと同義になり、そしてそんな自分に酔いしれていた。

 もっとも、今の男にはその歪みを自覚する余裕など一片もなかった。


「……いいだろう。契約しよう」


 男が不敵な笑みを作り、そう言った。悪魔は満足げに目を細め、指を動かした。その直後、心臓が何かに絡め取られるような感覚が走り、契約が結ばれた。


 後日。男は借金をして大きな会場を借り切り、意気揚々と個展を開いた。これまで描いた作品をすべて壁に掛け、胸を張って来場者を迎えた。

 しかし――。


「ふうん……」

「まあ……」

「なんか、足りないよね」


 来場者たちは皆、微妙な反応。首を傾げ、曖昧な笑みを浮かべるばかり。売約済みを示す赤いシールが貼られることもなく、展示会は静かに幕を閉じた。

 その夜。自宅に戻った男は、例の絵の前に立って声を荒らげた。


「おい、出てこい! これはどういうことだ! おれの絵がまったく評価されないじゃないか! それに、それに……!」


 するとキャンバスが震え、再び悪魔が姿を現した。


「ふふふ、君の絵を見た人々は、なんと言っていたかな?」


「だから、それは魂が――」


「“魂がこもっていない”だろう? 君が魂を売ったんだ。当然じゃないか!」


 口角を大きく吊り上げ、悪魔は高らかに哄笑した。アパート全体が震え、窓ガラスがびりびりと鳴った。男は思わずたじろいだが、それでも歯を食いしばって睨み返した。


「だが! お前は言っただろう! おれの絵を世界で高く評価されるものにすると! 契約は嘘だったのか!?」


 悪魔は次第に笑いを収め、低く静かに答えた。


「嘘ではないとも。君の絵は確かに評価される」


「お、おお。い、いつだ? 一週間後か? そういえば、金を持ってそうな男も来ていたな……」


 男は顎に手を当てて記憶をたぐり寄せると、頬を緩めた。


「死後に、だ」


「し、死後……!? そんなの……いや、だとしても、本当なのか? 魂がこもってないんだろう?」


「ああ。そもそも絵の価値に魂なんて不要だからね」


 悪魔は再び高らかに笑った。

 それは、ぽろりぽろりと体が崩れ落ちていくような、どうしようもない虚しさだけを残す音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ