たおやかなる淑女の名は――
――暖かい。
薪の爆ぜる音がリズムを刻み、仄かな明かりが周囲を照らす。
まるで田舎の実家に戻ったような感覚。
久しく遠ざかっていた安心感に包まれ、再び目を閉じようとしたところで声をかけられた。
「そろそろ起きなさい、天涯。せっかく温めたスープが冷めてしまうわ」
「あ……はい。あー、その……貴女は?」
あれ、いつの間に名乗ったっけ?
霧に覆われた山肌のように、思考がうまく機能しない。
見れば一人の老婆が木皿を手に、優しく微笑んでいた。
あれから気を失った俺を担ぎ、自宅まで運んでくれたらしい。
「私のことなど気にしないで。今は体を休めなさい」
「ありがとうございます。それと、三毛猫を見かけませんでしたか?」
老婆は口元に人差し指を当て、恭しい手つきでベッドの端を指差す。
猫は質素な布団にくるまれ、静かな寝息を立てていた。
「お前も無事だったか……良かった」
唯一の気がかりが解消されると、自分が驚くほど空腹なことに気づく。
こうなると手渡されたスープを遠慮する理由などなく、一息に飲み干してしまった。
「ふふっ、お代わりを持ってくるから待ってなさい」
「え、あ……」
空腹を察した老婆は木皿を受け取り、そのまま台所へ戻っていく。
「随分と親切なお年寄りだな。こんな森の奥で独り暮らしか?」
小さな窓の外は黒い森が広がっている。
改めて室内を見渡すと、歪ながらも手製の日用品や食器が並ぶ。
ベッドも一組しかなく、老婆がたった一人で住んでいるのは明白だった。
「ふふっ、当たり。さあ、お食べなさい」
どこまでも心中を察した老婆は笑顔で応え、並々と注がれたスープを差し出す。
素朴なスープは野菜の香りを漂わせ、疲れた体を心底から癒した。
正直な話、他人にここまで親切にされたことは一度もなく、油断すると涙が出そうだ。
俺は形ばかりの礼を口にすると、疲れたので寝るとだけ告げて――静かに泣いた。
◇◇◇
翌朝、すっかり体調が戻った俺は老婆の遠慮を余所に、庭の草むしりを行った。
せめて少しでも恩を返しておかないと、後々で必ず後悔すると考えたのだ。
「最近、急に忙しくなってしまってねぇ。手入れが追いつかなくて困っていたのよ」
「これくらい、お安い御用っすよ!」
嘘である。
実際には奇声をあげる蔓植物に阻まれ、一進一退の攻防を繰り広げていた。
絡みつく怪奇植物を文字通り、千切っては投げつける。
終わる頃には疲労困憊となり、肩で息をつく始末。
ただの草むしりとはいえ、とてもではないが老婆の手に負えるとは思えない。
「あの……マジに御一人で暮らしてるんですか?」
「ええ、でも――」
「こんにゃろー!」
声の主は老婆の言葉を遮り、俺の脇腹めがけて凄まじい蹴りを放つ。
山積みの蔓植物に頭から突っ込み、なおも追撃の飛び膝蹴りが顎を捉える。
「ぶげぇ! こ、このガキャアアアア! いきなり何しやがんだコラア!」
「昨日はよくもやってくれたなー!」
「やったなー」
「なー」
いきなりブチかましてくれたのは、メイド服を着込んだ三人の少女だった。
断っておくが、いくら俺でも小学生相手に恨みを買った覚えはない。
にもかかわらず、殺意マシマシの三人娘は一糸乱れぬ連携で殴る、蹴るの暴行を繰り返す。
金属バットのフルスイングに匹敵する攻撃を受け、とうとう堪忍袋の緒がブチ切れた。
「ぶっっっっ殺ぉおお――!」
「お辞めなさい」
凛とした声が響くと同時に、絡み付いた草ですら動きを止めた。
誰もが息を潜め、老婆の言葉を待つ。
なぜかは分からないが、俺の直感が確信をもって告げる。
“ 決して彼女を怒らせてはならない "
「も、申し訳ありません……」
「いいのよ、もっと楽になさい。改めて紹介するわ。私の身の回りの世話をしてくれる、ける・べろ・すー姉妹よ」
さっきまで大暴れしていた三姉妹は嘘のように大人しくなり、今にも平伏しかねない様子。
これほど凶悪な姉妹を手懐ける彼女は何者なんだ?
見知らぬ世界。
滅んだ文明。
火を吹く化物。
謎の老婆。
混乱を深める胸中を察したのか、老婆は優美な仕草で微笑む。
「私の自己紹介もしておこうかしら。私の名はアニム。忘れられた庭の管理者よ」
一陣の風が若草色のフードを払い、たおやかな表情と流れるような純白の髪が露となる。
しかし、俺の視線は彼女の額から伸びる一本の角に釘付けだった。




