第九話 それでも花は咲く
それから何年の時が流れただろう。
自分の目と耳、足を犠牲にして、魔王を全て討ち取った英雄、チャス・ビューバック。
彼の伝記「南方英雄伝記」は、発売から十年経った今も本屋の入り口に山積みとなる人気小説だ。
広場では毎日のように彼が主役の舞台が開かれ、客席は常に埋まっている。
誰もが羨み、憧れ、恋をする、生きる伝説なのである。
日が沈み、橙の光が世界を包む頃。
賑わう夜の街に、一人の男がいた。
髪と髭を伸ばし、蝿が寄りつきそうなほどの汚い身なりの、赤ら顔の酔っ払いだ。
男は千鳥足で、人がごった返す酒場の扉を開けた。
「おっ、来た来た、ボカ爺のお出ましだ」
若い男がその男に気がつき、威勢よく指笛を吹いた。
ざわざわと、人混みができる。
「今日も来たぜ!」
「懲りない人ね。毎日あんなに負けているのに」
「もうやめられないんだろうよ」
「いい鴨だぜ!ハハっ」
野次が飛び交う中、男はずんずんと奥のテーブルに進んだ。
そして、賽子を囲んで騒ぎ回る男衆の間に、割って入る。
「おおっ、ボカ爺!お金は?」
「これだ」
男__ボカ爺は、懐から皮の包みを出し、中に入っていたものを全て出した。
それは、大量の金貨であった。
周囲から、どよめきが走る。
「なにあれ、金貨?初めて見た」
「さっすがボカ爺!」
「あいついつもどこで金を手に入れてんだ?」
周囲の声など意に介せず、男は賽子を掴んだ。
ぎらぎらと落ち窪んだ瞳が、どこか遠くを見据えている。
「出目は?」
「十だ」
そう言って、男は力強く腕を振る。
カラカラカラ……
賽子が音を立てて転がり、やがて止まる。
二と一。外れだ。
周囲からどっと笑いが巻き起こる。
「外したぞ、外したぞー!」
「どうした?またやるか?」
「勿論」
男は懐の中から新たな皮袋を取り出す。
そこには、またも大量の金貨。
再び周囲からどよめきが走った。
「三だ」
六と五。
「七だ」
三と一。
「二だ!」
五と__
男が負けるたびに、周囲は腹を抱えて笑った。
毎日毎日賭博をしに来ては、ドカッと大量の金額をかけ、ボカッと負けてしまう。
そんな間抜けな酒浸りを、人々はボカ爺と呼んでいた。
ボカ爺は手持ちの金を使い果たし、路地裏で力無くしゃがみ込んだ。
手に持った酒瓶をぐびぐびと煽る。
「あぁ__」
大きな声でため息をつき、がりがりと頭をかいた。
そして、再び酒を煽る。
地面が揺れるような頭の痛みに襲われ、その場で吐く。
口元を拭い、懲りずに酒を飲む。
酒を飲んだ日の夜、死んだ娘の夢を見た。
その日から、夢に溺れるように、酒を飲んだ。
しかし、娘の夢を見ることはなかった。
代わりに、酒と賭博に溺れるようになった。
頭の痛みで目が覚め、吐き、酒を飲み、吐き、賭博をし、酒を飲み、吐き、路地裏で気を失ったように眠る。
その繰り返し。
そんな日々を何年送っているか、もう数えてもいない。
酒と賭博で、金を湯水のごとく使った。
娘が死んだ後、金の使い道が分からなくなったから。
そして、賭けにはいつも負ける。
__はは、俺はいつも運がないからな。ははは。
そう言って、ボカ爺は心の中で笑っていた。
自分は一体なにがしたいのか、分からなくなって。
それでも、酒屋には足繁く通い続けた。
『あーあ、がっかり。
あなたがこんなにつまらない人間だとは思わなかった』
頭の中の悪魔が言った。
心底軽蔑した目で言った。
次の瞬間。
ボカ爺は、胸を押さえて倒れ込んだ。
激しい痛みが身体中を襲う。
ああ、死ぬのだな、と薄れゆく意識の中察した。
「ぅ、ぁあ……」
苦しみに悶えながら、娘のことを考えた。
何よりも大切だった、娘。
ついぞ幸せになれなかった、親不孝な娘。
自分はどう生きれば良かったのだろう。
どうすれば、あの子は真っ当な人生を送れたのだろう。
自分は、なにを間違えたのだろう。
そこまで考えて、一つの疑問が生じた。
__娘の名前、何だっけ?
そこで、男の意識は途絶えた。
_____
市街地の奥の方に、庭の広い大きな一軒家がある。
太陽の差し込む、明るく朗らかな家だ。
そんな家の前に、一台の馬車が止まっていた。
「うわー、立派な家ね!」
「掘り出し物だろ?
でも、前はなかなかの廃墟でな。掃除やら何やら大変だったよ」
若い夫婦と男児が、馬車から降り立った。
男児は、庭に出た瞬間に元気よく走り回りだす。
「あ、こら、危ないわよ!」
「まあいいじゃないか。こんなに庭も広いんだし」
「もう」
能天気な夫に呆れたように、女はため息をつく。
そして、若い夫婦は家に入り、中をあちこち見て回った。
「本当に広いお家!使用人を何人だって呼べちゃいそうね!」
「おいおい、そんな金はないぞ」
はしゃぐ妻に夫は苦笑する。
「かーたま、とーたま、見て見て!」
すると、どこからか泥まみれとなった男児が現れた。
そして、懸命に庭の方を指差す。
「まあ、こんなに汚れて!一体どうしたというの?」
女は思わず呆れた。
そして布切れを引っ張り出し、息子の手と足を拭ってやる。
「おかーたま、来て、来て!」
「もう、なんですかさっきから」
懸命に母の袖を引っ張る男児。
そんな息子を、母は怪訝そうな目で見た。
そして、奥の部屋に行った夫に一言告げ、息子について行くことにした。
「見て見て、お花!」
連れられたのは、庭の隅。
そこには、色鮮やかな花が、それぞれ美しさを競うように咲いていた。
「まあ、綺麗ね」
その華やかさに、女は思わず見惚れた。
しばらくして、花の咲いている場所がわずかに盛り上がっていることに気がついた。
「あら、誰かのお墓だったかしら」
そう言い、女はそっと祈りを捧げた。
男児は不思議そうな顔で母を見上げる。
「きっと、お花が好きだった方なのね」
女はそう言って、微笑んだ。
男児は、嬉しそうにはしゃいでいた。
さわさわと、草木が新しい住民を祝福していた。




