第五話 妻の願い、母の望み
サラサラサラサラ……
綺麗な小川の流れる、美しい庭園。
草花が風に乗って踊り、鳥が唄う。
そんな場所に、チャスは一人立っていた。
「ここは……」
自分の声が、頭の中で反響する。
耳も目も、健在だ。
ひょっとするとここは夢の中かもしれない、とぼんやりと考える。
「よくぞお越しくださいました、英雄様」
背後から声が聞こえた。
驚いて振り向くと、そこには女が立っていた。
白いドレスを身にまとい、白い帽子を被り、白い日傘を差した女。
亜麻色の髪をまとめ、赤茶色の瞳を持った、綺麗な女。
「お前は――」
それは、紛れもなく、チャスの妻であった女だ。
チャスが瞬きを繰り返していると、女はふふっと笑った。
日傘を閉じ、一歩チャスに近づく。
「会わないうちに、随分と老けましたのね。
ほら、白髪がたくさん、それに小皺も」
赤茶色の瞳を輝かせ、ぐいぐいとチャスの顔を覗き込む。
女に髪の毛を弄ばれながら、チャスは首を捻った。
夢――にしては明確すぎる。
ひょっとしたら、ここは死後の世界かもしれない。
「ということは、俺は死んだのか?」
チャスが問いかけると、女は髪の毛をいじるのをやめた。
どうやら、図星らしい。
「相変わらず、分かりやすいな」
そう言って、チャスは少し笑う。
その顔を、女はぽかんとした目で見つめていた。
チャスは、不思議そうにそれを見つめ返す。
「よかった、あなたの表情筋、まだ生きていたのね……」
そんな、意味の分からないことを呟く。
慌てて咳払いを一つして、女は口を開いた。
「でもね、少し外れているわ。
確かにここは死後の世界だけど、あなたはまだ死んでいないわ。
今頃軍部の医務室で、生死の間を彷徨っているのよ」
くるくると上品に傘を回しながら、女は言った。
その姿も、声も、仕草も、かつての妻そのもので、チャスは泣きたくなった。
彼女を最後に見たのは、潰れて肉片と化した、変わり果てた姿だったから。
住んでいた家も、私物も、彼女との思い出も何もかも、そして彼女自身も、瓦礫と化すほどに惨めに破壊されて。
墓に入れてやる事すら、出来なかったから。
「じゃあ、俺はもうすぐ死ぬのか?」
そう問うと、女はゆるゆると首を振った。
「生きるか死ぬかは、あなたの気持ち次第よ」
それならば、すぐにでも死んでしまいたい。
チャスは心の中で即答した。
目を、耳を、足を――娘の不調は全て治した。
もう、現世でやり残した事はない。
この身体では、彼女の生活の邪魔になってしまう。
それに、どうせ娘の笑った顔も、楽しそうな声も、二度と知る事は出来ないのだ。
生きていてもいい事など、何もない。
それならば、彼女の幸せを願って死んでいく方が、いくらか楽だ。
そんなことを考えていると、不意に背中が重くなった。
驚いて背後を見ると、女がチャスの背に抱きついていた。
「死ぬのは、駄目よ」
そう言って、女はチャスの背に頬擦りをする。
「死んでも、私には会えないわよ」
「それは、知っている」
数多くの人を殺してきた自分と、娘を庇って死んだ立派母親が、死後同じ場所に行けるわけがない。
そう思って言ったのだが、女は何故か顔を暗くした。
「私は、セリーナに幸せになってほしい。辛い事も悲しい事もあったけど、楽しい人生だったと、笑って死ねるような一生を送って欲しいの。
でも、それと同じくらい、あなたにも幸せになって欲しいの」
振り向いたチャスの顔を正面から見据え、その手を優しく握りしめる。
血の気のない、ぞっとするほど冷たい手。
赤茶色の瞳が、涙を帯びてきらきらと光っていた。
「お願い、死なないで。セリーナと会って」
女は必死に訴えた。
そんな彼女を、チャスは呆然と見つめた。
生前の彼女はいつもおっとりとしていて、激情することなどほとんどなかったのだ。
そんな彼女が、自分のために涙を流している。
不甲斐ない夫を、天国の妻は見限っているとばかり思っていたが。
どうやら自分の想像以上に、彼女は愛情深い人だったようだ。
「セリーナと会って、どうするんだ?
俺と一緒にいるとあの子の幸せは遠ざかってしまう」
「そんな事ないわ。
だって、あの子はお父様が大好きだもの。
側に居てくれるだけで、嬉しいものよ」
その言葉に、チャスは思わず口を開いた。
「そんな訳ないだろ。
俺はずっとあの子を放ったらかしにしてきた。
恨まれこそすれ、好かれる訳がない」
「……」
女は、黙って俯いた。
ぴちょんぴちょん……
女の瞳から落ちた涙が、頰を伝って草木を濡らす。
「馬鹿、あなたは、馬鹿よ。
あの子のお父様は、過労で倒れるほど疲れている時でも、休みの日には時間を縫って娘に会いに来てくれたの。
遠征の際には、いつもその土地独自の人形をあの子に買い与えてくれたの。
あの子が何かすれば、いつもその頭を撫でて、優しく抱きしめて、目一杯褒め称えてくれたの。
――そんな父親を、嫌いになれる訳ないじゃない!」
チャスの両腕を強く掴み、女は叫んだ。
その力はか細く、チャスには痛くもなんともなかった。
しかし、心が抉られるように痛かった。
「あなたは、今まで頑張ってきていたじゃない。
私は、それを知っているわ。だから、あなたにも幸せになって欲しいの」
――頑張ってきた。
言われてみれば、そんな気もする。
死に物狂いで戦って、年の殆どを遠征に費やして。
それでも年に一度は必ず家に帰れるように、休暇の日には帰省した。
しかし、それは父親として当然のことではないだろうか。
「セリーナも、笑ってあなたを迎え入れてくれるわ。
だって、たった一人の家族なんですもの」
そう言って、女は泣き笑い顔を浮かべる。
その言葉に、チャスは目を見開いた。
――家族。
それは、チャスにとっては漠然とした響きを持っていた。
寂しさと空腹を埋めてくれる、魔法のようなもの。
親を知らず、一人で生きてきた彼にとって、雲の上の存在であった。
――家族が欲しい。皆で笑って過ごせるような、そんな家族。
そんなことを夢見ているうちに、妻と出会い、結婚し、子供にも恵まれた。
「そうか、あの子にとって家族は、俺だけなんだよな」
そう、呟く。
「そうよ。だから、あなたがあの子を幸せにしないと、駄目なのよ。
あなたが、皆で笑って過ごせるような家族を作らなきゃ、駄目なのよ」
女は力強く言った。
――自分が得られなかったものを、この子には与えてやりたい。
妻から妊娠を知らされた時、そう決心したことを唐突に思い出した。
親の愛情をたっぷり受けて、育って欲しい。
そう思って、あの子の生を、目一杯祝福した。
結局、自分はそれを、与えてやれたのだろうか。
「今からでも、遅くはないだろうか。
今更、あの子を幸せにするなどと言っても……」
「後悔しても、過去は変えられないわ。
でも、未来なら変えられるわ」
女は涙を拭い、にっこりと微笑んだ。
「ねえ、だから、もう少しだけでも生きてみない?」
「ああ……」
チャスが頷くと、女はその胸に抱きついた。
チャスは一瞬驚くが、その華奢な腰に腕を回す。
「ありがとう」
女は肩を振るわせた。
このまま、時間が止まってしまえばいいのに――
そんなことを考え、彼女は再び泣く。
そして、顔を上げると。
チャスの姿が、跡形もなく消え去っていた。
――現世へ、帰るのだ。
「ぁあ……」
女は、一人になった。
かたん
日傘が倒れる音。
女はしゃがみ込み、泣いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
掠れた声で、謝り始める。
――これから先、チャスの身に起きることが、嫌でもわかってしまうから。
きっと、彼は死を選んでいた方が、幸せだった。
何も知らずに、静かに死ぬことができた。
それでも自分は、夫に生き続けることを選ばせた。
きっとこれからの人生は、真面目で自責の強い彼にとっては生き地獄のようなもので。
それでも、それでも――
「だって、私は、セリーナに、幸せに……」
先の言葉も言えぬほどに、女は泣きじゃくった。
草木が、静かに揺れていた。――




