第四話 幸福の定義
魔王討伐前夜。
チャスは、総司令室にいた。
「体調は回復致しまいた。
兵士達の準備が整い次第、ここを経とうと思います」
総司令官のいる方向に向かって、チャスは声を上げる。
返事は聞こえない。
しかし、相手側に何のアクションもないので、そのことに問題はないと見た。
そのまま、チャスは深く息を吸った。
今だ――今、言うしかない。
「総司令官、話があるのですが」
やはり、返事はない。
チャスは、続けた。
「この国の脅威であった魔王は、残り一体となりました。
ですので、魔王を討ち取った後には、軍を抜けても宜しいでしょうか」
言った。言ってしまった。
心臓の鼓動が早くなる。
延々と続く静寂に、身がもたなくなりそうだった。
しばらくして、誰かがチャスの手を握った。
そして、その手に文字が書かれた。
『かまわない』
五文字。
チャスの望みは、たった五文字によって叶えられた。
チャスはしばらく呆然とその場に佇んでいた。
――――――――――
『軍を抜けて、どうするつもりなの?』
悪魔の、声がする。
チャスは軽く首を振った。
「あの家で、セリーナとのんびりと暮らしたい」
『ふうん』
悪魔はそう言って、にたにたと笑った。
その態度に、チャスは思わず眉を顰めた。
「なにが可笑しい」
『それがあなたに取っての幸せって訳ね?』
「そうだ」
『でも、あの子にとっての幸せは、どうなの?
聴覚も視力も失った寝たきりの父親の介護に追われる日々が、あの子の幸せだって言うつもり?』
「……」
チャスは、ため息をついた。
頭の中で、我が子の姿を思い描く。
母親譲りの亜麻色の髪を伸ばした、可愛らしい声の少女。
寂しげに笑って、父の帰りを待っていた少女。
人形を渡すと、笑顔でそれをぎゅっと抱きしめた少女。
耳が聞こえないのに、父とお喋りがしたいからと言って、懸命に発音を練習していた少女。
「お父様、次はいつこっちに来てくれるのですか?」
そう言って、少女は父の手を握る。
父がまたどこかへ行ってしまわぬように、思い切り力を込めて。
その手は、小さくて、小刻みに震えていた。
「……」
チャスはいつもその問いに返答できなかった。
滅多に帰って来れぬ事が、申し訳なくて。
いつかその埋め合わせをしようと、そう考えているうちに時ばかりが過ぎていった。
だから、魔王討伐後は軍を抜けて、セリーナの側に居ようと誓った。
誓っていた。
――しかし、彼女は自分と共にいて幸せになれるのだろうか?
一人で何かをすることが難しく、常に誰かに世話をされねば生きていけぬこの男と。
迷惑なだけではないか。彼女の幸せを遮ることになってはしまわないか。
そもそも、意思疎通も困難な人間と一緒に暮らして、彼女は楽しいのだろうか。
――彼女の幸せに、自分は不要なのではないか。
ぐるぐると、世界が廻るように頭痛がする。
セリーナが、セリーナさえ幸せなら、自分はどうなってもいい。
彼女を大切にしてくれる男と結婚して、子宝にも恵まれて、家族に囲まれて穏やかに一生を終える。
そんな普通の暮らしをして、普通の幸せを得てほしい。
しかし、その生活に、健常者でない自分は邪魔ではないか。
「……」
「かーたま、おかーたまああああッ!!」
ベッドの上で泣き叫ぶ幼子の幻を、見た。
小さな身体を包帯でぐるぐる巻きにされ、舌足らずに母親を呼び続ける子供。
「奇跡的に一命は取り留めましたが、しかし――」
医師の気まずそうな声。
その日から、娘の世界に音と光が失われた。
そうとも知らずに、娘は暗闇に怯えて、延々と泣いていた。
「どこ?どこ……かーたまぁ……」
そう言ってしゃくりを上げる娘の身体を、チャスは抱きしめた。
二年会わないうちに、すっかり大きくなった身体。
しかし、その感情に浸る余裕はなかった。
「やぁーッ!!かーたま、かーたまああぁ」
セリーナは身体を大きくのけ反らせて、泣きじゃくった。
知らない大人に抱かれたと思ったのだろう。
赤子の時に別れた父親は、彼女にとって赤の他人であった。
「ごめんな、ごめんな、セリーナ……」
そんな娘を抱きしめ、背中をさすってやる。
小さな背はぶるぶると震え、恐怖に怯えていた。
この子を安心させる為にどうすればいいのか、チャスには分からなかった。
「ビューバック殿、総司令官がお呼びです」
そんなチャスを呼ぶ声がした。
娘を抱きながら、チャスは声の方に振り返る。
伝令係の男が、直立の姿勢を取っていた。
「何用だ」
「今すぐに式典の準備をお願いします。
国王陛下も出席なさる式典です、必ずご参加なさるように」
「そうか」
チャスは静かに頷く。
そして、顔を真っ赤にして泣く娘を見た。
暗くて、静かで、なにも無い世界に取り残された、哀れな娘。
「娘を、頼みます」
チャスは横にいた看護婦にそう告げ、娘から離れようとした。
しかし、出来なかった。
セリーナが、ぎゅっと父の裾を握っていたからだ。
「いや……いっちゃ、やぁ……」
顔をくしゃくしゃにして、泣く。
丸く小さな指が、チャスを掴んで離さない。
――嫌がったままでいてくれていれば、楽だったのに。
そうぼんやりと思って、チャスは裾から娘の手を引き剥がす。
幼子は、ぴいぴいと金切り声を上げて暴れた。
そんな娘の頭を、チャスは優しく撫でる。
「大丈夫だ、すぐ帰ってくるから」
そう言って、後ろ髪を引かれる思いで、医務室を去る。
口先だけの、出まかせ。
娘の耳には届かぬと知りながら、自分自身に言い聞かせるように、言った。
――ああ、結局三日に渡って行われた式典の間、娘の元に行くことはできなくて。
その後も、軍の後処理で忙しく、娘の顔を見に行くことすらできなかった。
娘の退院に伴い、多忙に鞭打って新居を買い、使用人を雇ったものの。
娘と言葉を交わす暇もなく、軍部の召集を受け、引っ越しの準備は使用人に丸投げしてしまった。
――あの時から、ずっと。
チャスは父親ではなく英雄としての自分を優先した。
一体何人の人々の命を救い、何人の心を輝かせ、何人に勇気を与えただろう。
セリーナと同じ歳の頃の子供だって、数え切れぬほど救ってきた。
娘の心は、何一つ救ってやれないのに。
健気に笑う彼女を犠牲にして、チャスは英雄であり続けた。
こんな自分が今更父親になろうだなど、なんと都合の良いことだろう。
今の自分では、セリーナに介護されるばかりで、父親になんてなれやしない。
軍を抜けるだなんて、馬鹿な真似をしたものだ。
何をやっても不器用な自分は、戦うことしかできないのだ。
「ごめんな、セリーナ……」
あの子が可哀想で仕方がない。
こんな愚かな男が、父親で。
娘を庇って瓦礫に押し潰されて死んだ妻とは、偉い違いだ。
――ああ、もし自分ではなく妻が生きていたのなら。
二人は自分の遺産で何不自由のない生活を送れて、セリーナは優しく愛情深い母と一緒で、幸せだっただろうに。
あんな寂しそうな顔など、しなくて済んだだろうに。
なぜ、自分はここまで生き延びてしまったのだろうか。
なぜ、なぜ、なぜ――
「――ッ、ゴホッ……」
息が苦しくなって、チャスは咳き込んだ。
喉の奥が、熱い。
どろりとした液体が、咳と共に体外へ放出された。
口の中を、鉄の味が支配する。
「……これは――ぅッ」
呆然としていると、焼けるような痛みが腹を襲った。
慌てて手を抑えると、生温かい液体が、ねちょりと手にまとわりつく。
――血だ。
『凄いじゃない。私、あなたの強さを見誤っていたわ。
まさか、満身創痍で魔王を倒してしまうだなんて!』
「ま、おう……?」
痛みで立つことも困難となり、膝をついてしゃがみ込む。
荒い息の中に血が混じって、気持ちが悪い。
「倒し、たのか……?魔王を……?」
『ええ、そうよ』
悪魔の囁きに、チャスは信じられないと首を振る。
無我夢中でセリーナのことを考えていて、戦っていた時の記憶がすっぽりと抜けている。
『凄かったわよ、あなたの戦いっぷりわ。あれはまさしく鬼神ね。
あなたに比べたら、他の英雄なんて道端の蟻みたいなものよ』
亡き戦友を馬鹿にするなと言いたいところだが、チャスにとってはそれどころではなかった。
ごくりと、生唾と血を飲み込む。
「じゃあ、約束、通り……治してくれるんだな?セリーナの、足を……」
重く閉じていく瞼と戦いながら、チャスは問いた。
血を流しすぎて、しゃがむことさえ辛くなる。
『もちろん。治してあげるわよ。
あなたの足を引き換えにしてね』
そう言って、悪魔はくすくすと笑う。
次の瞬間。
両足の感覚が、なくなった。
股の下に、木の棒が付いているような、違和感。
チャスは、その場に倒れ込んだ。
硬い岩に傷を負った腹を打ちつけ、激しく咳き込む。
血を吐き、徐々に意識が遠のいていく。
痛みは、なかった。
身を包むのは、高揚感。
――ああ、やっと、セリーナの足が治った。
これで、あの子は自由に外を走り回れる。
庭に咲く花を自分で手に取ることができる。
同じ歳の子達と、思い切り遊べる。
普通の子供と変わらない生活ができる。
そう思って、満足感を抱いて瞼を閉じた。
――今ここで死んでもいいかもしれない。




