第三話 五感の記憶
夜。
深い深い海の底のような、真っ暗な世界。
黒色が支配し、ひたすらに広がる世界。
自分だけがそこに取り残されてしまったような気がして、チャスは身震いをした。
何度か瞬きをして、目を凝らしてみる。
しかし、何も見えない。
静寂の中で、ずっと一人。
自分までもが、闇に溶け込んでしまうような錯覚に襲われた。
「……」
――これが、セリーナの見ていた景色か。
そう思うと、悪くないような気もしてきた。
そんなことを熱っぽい頭でぼんやりと考え、うとうとと眠りについた。
「ねえ、ねえ、あなた、見て頂戴!」
声がした。
鈴を転がすような、柔らかい声。
そこには、一人の女がいた。
亜麻色の艶やかな髪を一つにまとめ、赤茶色の瞳を輝かせた、愛嬌のある女。
彼女は、小さくて古びた家の中を、楽しげに歩き回っていた。
「セリーナ、剣に興味があるみたいよ。
さっきからずっと、あなたの剣ばかり見つめているんだもの。
きっと将来は英雄様ね」
女は目を細めて笑った。
そして、床にどっしりと座っていた幼子を、ひょいと抱き上げる。
「やぁー」
「あらら、怒った?怒っちゃいましたかー」
幼子は、丸く太った手足をじたばたと揺らして暴れた。
その様子に、なにがおかしいのか女は高い声で笑う。
「でも、自分の子どもには英雄になってほしくないわ。
だって、いつ死んでしまうかわからなくて、ハラハラしてしまうじゃない。
――どっかの誰かさんみたいにね」
そう言って、女はじっとこちらを見つめる。
薄紅色の唇を固く結び、赤茶色の瞳を揺らした彼女は、真剣な表情をしていた。
「愛しているわ。
――生きて帰ってきてね」
次の瞬間、彼女の姿は闇に溶けた。
彼女だけでない。
娘も、家も、全部。――
「あぁーッ」
どこか遠くで、子供の泣き声がした。
気がした。
「……」
目を覚ますと、チャスは硬いベッドの上に横たわっていた。
アルコールの匂いが鼻を刺激する。
医務室だ。
チャスは、ゆっくりと上体を起こした。
荒い呼吸をなんとかしようと、深呼吸を繰り返す。
やがて、喉が渇き、手探りでベッドの周辺をまさぐった。
かつん、と硬い何かが指に当たる。
よく触って、それが水瓶であると確かめる。
水瓶の形を確認し、口元に運んで傾ける。
しかし、うまく水を飲むことができず、大半の水がチャスの口の両脇に流れた。
そして、激しくむせた。
「……」
溺れたような呼吸をするチャスの背を、誰かが強く叩いた。
恐らく看護師だろう。慣れた手つきで、濡れた箇所を拭く。
呼吸が落ち着くと、チャスの口に何かが押し込まれた。
細く長い、中央がくり抜かれたもの。その空洞から、水が口内へと入っていく。
吸飲みだ。
チャスは、ゆっくりと喉の渇きを癒した。
「……」
夢の中の女の笑顔を、脳内で何度も思い浮かべる。
結局、生きて帰ってきたのは、チャスの方だけだった。
――二年ぶりの帰還。
そんな彼を出迎えたのは、積み上がった死体の山。
鼻が焼けるような異臭。
朽ち果てて瓦礫とかした家屋の残骸。
安らぎを得るはずの我が家は、慣れ親しんだ戦場と化していた。
そして、妻と娘は。――
『あの』
不意に、誰かがチャスの手に文字を綴った。
チャスが顔をしかめると、慌てて指が動く。
『アレン』
「この前の軍医か。何の用だ?」
『一週間後 魔王討伐』
チャスは、ぴくりと眉を動かした。
自分が不甲斐ないせいで、延びに延びた魔王討伐。
それが、やっと始まるというのだ。
「やはり俺もいくのだな?」
『はい』
「そうか」
チャスは、何度か自分の拳を握った。
正直、もう少し療養していたいところだ。
しかし、魔王はこちらの都合に合わせて動いてはくれない。
一週間で、戦える身体にしなければ。
――――――――
『やっぱり戦いに出るの?
無理は禁物よ。身体に障るわ』
悪魔の声が、チャスの耳を不快に撫でる。
チャスは、失望と諦めの混じったため息をつく。
『確かにあなたは強いわ。最強よ。
でも、病身のあなたが勝てるほど、魔王は弱くないわ。
だって私、そんな教育してないもの』
――どの口が。
悪態を吐きそうになるのを、チャスは堪える。
声を荒らげれば、それこそ身体に障ってしまう。
『私、あなたのことは気に入っているのよ。
だから、そんなくだらない死に方しちゃ嫌よ。
死ぬまで私を楽しませて、ね?』
「――魔王を倒せば、娘の脚は治るんだな?」
チャスはすがるようにゆっくりと言った。
それだけだ。
悪魔を信じることができるのは、それだけだから。
すると、耳の奥で、悪魔が低く笑った。
『勿論。私が嘘をついたことなんてないでしょう?
聴力と視力も取り戻せるのよ?脚の怪我なんてお手のものよ。
――それよりも、本当に大丈夫なの?
私、あなたが魔王に負けてしまったら、つまらなすぎてあなたを殺してしまうわ』
ざらざらと耳の奥に引っ掛かるような、乾いた声。
安い挑発だ。
彼女の言葉は、いつも意味のない戯言ばかり。
だから、耳を貸す必要はない。
受け答えをする必要など、ないのに。
彼女の声――この世界で唯一、チャスが聞き取ることのできる音――をもっと聞きたい、そう考える自分がいた。
――――――――――
暗い夜が終わり、太陽が目を覚ます。
斜めに差し込む明るい光が、世界を薄橙に染めていく。
鳥がソプラノで何かを歌っている。
賑やかな朝だ。
「……こほ」
朝食の最中、セリーナは咳をした。
しまった、と慌てて口元を抑える。
しかし、ラーラはそんな彼女を見逃さなかった。
「あら、お風邪ですか?」
ぱたぱたとセリーナに近づき、額と額をつける。
そして、はたと首を傾げた。
「こんな時期に風邪なんてねえ……急に外に出たのが良くなかったのかしら。
熱もあるようだし、今日はお勉強はお休みにしましょう」
それは、セリーナが最も恐れていた言葉だった。
休む――それは悪いことなのだと、お友達は言っていた。
昨日学校を休んだマー坊は悪い子だ、と。
悪い子は、だめだ。
だから、勉強を休んではいけない。
それに、セリーナはみんなと同じくらいに文字が読めないといけないのだから。
勉強を休んではだめだ。
――いい子にならないと。みんなが認めるようないい子に。
「ラーラ、私は大したことないわ。
だから、お勉強お休みにしないで。
ねえ、お願い。元気だから。私元気だから」
セリーナはすがるように言った。
ラーラはぱちくりと目を丸くした。
「ええ、まあ……勉強熱心なのは良いことですしね」
セリーナはほっと息を吐いて、ラーラの顔を見た。
ラーラは困ったように眉を下げて笑っている。
想定外のことが起こった時に、彼女がよくする顔だ。
セリーナは俯き、ベッドシーツを握りしめた。
ラーラは、この家の使用人だ。
もう何年も、彼女の世話になっている。
しかし、彼女とは報酬を伴う関係でしかない。
よく家に来る家庭教師だって、医者だってそうだ。
皆、打算的な立場で、セリーナと付き合っているのだ。
――見限られたら、お終いだ。
視力が戻ってから、セリーナは人の顔色を窺うことが得意になった。
大人を困らせるのは、悪い子だから。
だから、みんな、嫌いにならないで




