第一話 模範的な少女
――ねえ、ラーラ、私っていい子よね?
いい子にしていたら身体が治るって、お医者様は言っていたわ。
いい子にしていたら帰ってくるって、お父様は言っていたわ。
でも、身体はちっとも良くならないし、お父様は私に会いにきてくれない。
いい子って、何?もっといい子にならないと、お父様に嫌われてしまうわ。
昔、セリーナがそう言って泣きついてきたことがある。
健気で、可哀想な子だった。
彼女の世界には、自分と、父と、お付きの医者と、召使いのラーラしかいなかった。
狭い世界の中で、懸命に生きる、哀れな子だった。
「もう、お外には行きたくないわ」
ある日、布団を頭からかぶって、セリーナは言った。
ラーラが布団を取ると、セリーナの涙ぐんだ顔が現れた。
「私、ずっとベッドの中がいい」
セリーナは、ちらと窓の外を見た。
窓の外では太陽が輝き、どこまでも広がる青空と豊かに揺れる緑草が手を取り合っていた。
ピーチチチ……どこからか聞こえる美しい鳥の声。
「私、知らなかったわ。
太陽があんなに眩しいことも、虫があんなに気味が悪い事も、鳥があんなにうるさいことも、草があんなに痛いことも、雨があんなにぬるいことも、お友達があんなに怖いことも――
私、知らなかった、知らなかったの」
セリーナは両手で顔を覆い、震える声で嗚咽を漏らす。
ラーラはなんと声をかけていいか分からず、その場に立ちすくんだ。
「知りたくなかった……」
――――――
「なあ、英雄ごっこしようぜ!
俺は南の英雄で、お前は東の英雄、お前は女だから北の英雄な」
「えー、東の英雄は弱くてやだよ。
俺も南の英雄がいいー!」
「あんたは不細工だから西の英雄がお似合いよ」
街に出て買い物をしていると、子供たちの無邪気な声が聞こえてきた。
南の英雄――チャス・ビューバック。
彼は、魔王を三体倒したまごうことなき英雄だ。
ラーラは枯れ専だったので西の英雄派だったが、南の英雄はいつも一番人気だった。
そんな彼は、自分の耳と目を犠牲にして、娘の聴力と視力を治した。
これは、英雄の美談になるのだろうか。
これは、ただの英雄の自己満足ではないか。
娘の体を治す前に、もっとやることがあるだろうと。
父親として、娘に寄り添ってやる。――
それが、彼が真っ先にやらねばならぬことなのではないか。
あの父親は、果たして知っているのだろうか。
娘が、父に嫌われているのではないかと気にしていることを。
娘が、もう人形遊びをしなくなったことを。
娘が、いい子であろうと父の前では仮面を被っていることを。
あの父親は、おそらく知らないであろう。――
――――――
「セリーナ、どこにいるんだ?」
休日。
チャスは、家に帰っていた。
残る魔王は、あと一体。軍にも余裕ができ、チャスの休みも多くなった。
しかし、北は依然と緊張状態にある。
相変わらず、チャスが家に帰れる日は多くはなかった。
「……」
チャスの手を、なにかが触れた。
それは、暖かく、柔らかかった。
張りのある平たいもので、その表面には凹凸がある。
その先に、細い棒のようなものが三、四……いや、五本。
棒の先端には、硬いものが付いていて。
それは、セリーナの左手であった。
チャスの顔が自然とほころんだ。
『もじ ならった』
セリーナはチャスの手の平に文字を書いた。
一文字ずつ、何度も。
「勉強は、楽しいか?」
『うん』
チャスの手の中に、ゆっくりと文字が綴られていく。
チャスは、そんな娘の頭を撫でた。
細く滑らかな髪が、手に絡みつく。
ふわりと甘い香りが、チャスの鼻をかすめた。
チャスは、娘の背中に手を回す。
そのまま優しく抱きしめた。
娘の感触が、あたたかい温もりが、全身に通っていく。
ああ――これが、これこそが、自分の守りたかったものなのだ。
自分の目を耳を、その全てを犠牲にしてでも、守りたかったものだ。
彼女が普通の女の子と変わらぬ日々を送れて。
彼女が屈託なく笑い、幸せな日々を過ごせるような。
そんな日々が、ここにはあるのだ。
『――でも、あの子は本当に幸せなのかしら?』
脳内に直接響き渡る、声。
それは場所を選ばず降って湧き、チャスの頭痛の種になっていた。
ある日の夜。軍部の空き部屋で横になっていたチャスは、耳障りな音を振り払うように寝返りを打った。
『あの子が笑えていると、幸せであると、あなたに知る術があるの?
あの子の顔も見れないのに?声も聞こえないのに?』
瞼の奥で、卑しい悪魔がケタケタと笑っている。
『そもそも、あの子は本当に視力と聴力が戻ることを、望んでいたの?
ただの、あなたのエゴなんじゃなくって?
父親として接してやれなかったからって、その代わりに自己犠牲で彼女を救う――ただの、あなたの自己満足なんじゃない?』
「黙れ」
チャスはぎしぎしと歯軋りをした。
悪魔の言葉の一つ一つが、錨のように身体に沈み込んでいく。
「セリーナは、元に戻りたがっていた。
しきりに外へ出たがっていたし、花をあげると喜んだ。
だから、俺はあいつの望みを叶えたんだ」
チャスは、悪魔を否定するように声を張り上げた。
あの、寂しそうにぼんやりと窓の外を見ている姿を、もう見たくはない。
『ふうん……でも、私は前の方が幸せだったと思うわよ。
なにも知らないって、最も幸せなことだと思わない?』
耳元が、くすぐったい。
チャスは、もう無い二つの耳を強く塞いだ。
戯言だ。こんなもの、全部――
『あの子、急に色々なことが分かるようになって、戸惑っているわよ。
可哀想に、ベッドでぬくぬくと過ごせる時間は、もう終わったのよ』
「でも、セリーナは外の世界を知りたがっていた。
――それに、俺が死んだらあいつはどうなるんだ?
嫁に貰うことも、一人で生きていくことも出来ないあいつに、どうやって生きろというんだ?
誰にも面倒を見てもらえずに、一人寂しく餓死してしまうかもしれない。
誰にも気が付かれずに死に、墓も建てられず、ただただ朽ちていくばかりになるかもしれない。
――それだけは、嫌だ。
俺は、あいつには平凡で真っ当な人生を送ってほしい」
チャスは、声高にそう訴えた。
そう思うことは親として当然のことではないだろうか。
親が子の健常を願うことは、おかしなことなのだろうか。
人並みの暮らしをして、人並みの幸せを得る。
なにも多くは望まない。それだけでいいのだ。
――それすらも、願ってはならぬというのか?
『平凡で真っ当な人生を送って欲しい、ですって?
それがどれほど困難なことか、身にしみてわかっているでしょうに。簡単に言ったものね。
平凡って何?真っ当って何?
あなたそんな人生送れたことないじゃない。
自分が叶わなかった夢を、娘に押し付けているだけじゃない?』
悪魔は続ける。
べちゃくちゃと、いらぬおしゃべりを。
――どうして。
どうしてこの女の声は聞こえるのだろう。
どうしてこの女の姿は見えるのだろう。
セリーナの声も、顔も、笑った姿も、その眼差しも、――
自分が最も知りたいことは、一生知り得ぬというのに。
聞きたくない声が、見たくもない姿が、頭にこびりついて離れない。
代わりに、脳内に浮かぶ娘の面影が、どんどん遠くにいってしまう。
――やめろ。やめてくれ。
これ以上、俺から家族を奪わないでくれ。
「……」
さらさらと、揺れるカーテンがチャスの頬を撫でる。
気がつけば、悪魔の姿は消えていた。
全身が汗でぐっしょりと濡れている。
心臓が激しく脈打つ。
頭が割れるように痛い。
深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる。
すると、吐き気が込み上げてきた。
壁に手をやり、ゆっくりと立ち上がる。
ふらつく体で、手探りで洗面台に向かう。
そこで、吐いた。
嫌な刺激臭が、ツンと鼻の奥を貫く。
酸味を帯びた不味い味が、口の中を支配する。
初めはどろりとした流動性のあるものだったそれは、徐々に液体へと変わっていく。
「……ッ」
一通り吐き切り、チャスは荒い息をした。
まだ、頭痛がおさまらぬ。
しばらく耐え忍んでいるうちに、立っているのが辛くなった。
その場にしゃがみ込み、そのまま意識を手放した。
――――――
「……」
チャスが目を覚ますと、硬い布団の上に横たわったいた。
アルコールの強い匂いが、鼻につく。
慌てて起きあがろうとするも、眩暈がして上体がふらつく。
すると、誰かの手が彼の肩を掴み、ゆっくりと寝かせた。
そして、上から麻の布団がかけられる。
「誰だ?」
チャスは怪訝そうに顔をしかめた。
すると、何かがチャスの指に触れた。
ざらざらとした質感で、薄く、端が毛羽立っている。
紙だ。
そして、何かがチャスの手を捕える。
ゴツゴツとしたそれは、男の手だ。
その手はゆっくりと動き、その動きに従ってチャスの指は紙の上で線を描いた。
それは、文字だった。
『アレン・バルヤード』
チャスの指は、そう書いた。
アレン・バルヤード。
軍部に駐在する軍医だ。
「――となると、ここは医務室か」
そう呟き、チャスはため息をついた。
まだ頭痛は止まず、身体は重い。
おまけに熱があるのか、全身が火照っていた。
――体調管理を怠るなど、軍人としては失笑ものだ。
チャスは脳内で自分を嘲笑った。
『おそらく 戦続きだった日頃の疲れが一気に出た』
他動的に動くチャスの指が、続けて書く。
『一週間ばかりこちらで療養を 国王の許可は取得済』
その文字に、チャスの目は見開かれた。
「一週間?魔王討伐はどうなるんだ」
『あなたの体調を見て再会 あなた無しでは行えない』
文字は、冷酷に綴った。
耳が聞こえなくとも、目が見えなくとも、彼は英雄なのだ。
なにが起ころうとも、彼は死ぬまで英雄でなくてはならない。
聴力を失い、視力を奪われ、それでも魔王を三体も討ち取った、英雄。
人々の期待が、羨望が、チャスの身体に重くのしかかる。
「療養するなら家に帰りたいのだが」
『馬車の揺れは身体に悪い ここで安静に』
「……」
チャスは、再びため息をついた。
――家に、帰りたい。
セリーナの柔らかな手の温もりが、花のように優しい香りが、懐かしい。
彼女は今頃、先生と筆記の練習に明け暮れているのだろうか。
血生臭く、むさ苦しい戦場とは無縁の、緑豊かなあの家で。
そこまで考え、頭痛が悪化し、チャスは吐いた。
気持ち悪い感覚だけが、身体中を循環していた。




