絡まる理をほどいて 【前編】
活字嫌いの中学一年生の娘に読んでもらいたいと、一念発起して構想から考え書いてみました。
分かりやすい内容、読みやすい文字数を意識、多少の雑な部分はご容赦を。。。
■第1章 扉の向こうに
──叩いても、返事はなかった。
重厚な木の扉の前に立ち尽くし、僕は耳を澄ませる。
返ってくるのは、静けさと、鼓動の音だけだった。
まるで、誰かが僕の訪れを避けるように、内側から鍵をかけているようで。
けれど、それはありえないはずだった。
“最後にここを使ったのは自分だった”──そのはずなのに。
あの日と同じように、今日もまた、扉は僕を拒んでいた。
*
事件が起きたのは、秋の深まりかけた頃だった。
大学のキャンパスの端、長い間ほとんど使われていなかった旧図書館棟が、突如として注目を浴びることになった。
取り壊しを前に、最後の一般公開。
古いレンガと石造りの建物、中央ホールの螺旋階段、重厚な扉と高い天井。
どこか“館ミステリ”を思わせるその佇まいに、ミステリー好きの僕は抗えなかった。
特別公開最終日の前夜、僕は一人で図書室に入り、棚を見て回っていた。
何かに導かれるように。あるいは、探していたのかもしれない。
……何かを。
翌朝。事件は、報道よりも先に、大学内の噂として広まった。
旧図書館の図書室で死体が発見された、と。
外部からの侵入者なし。施錠された密室。死因不明。
状況は、あまりにも整いすぎていた。
やがて警察の調査が入り、建物の利用者記録が洗い出された。
その中に、僕の名前があった。
──事件のあった夜、最後に図書室を使った人物として。
*
「それで、あなたの名前がリストに挙がったってわけね」
夕食の席で、母が言った。
落ち着いた声だったけれど、ほんのわずかに緊張が滲んでいた気がした。
「事情聴取みたいなもんだよ。目撃者って扱い」
「それ、ミステリーじゃ“よくあるやつ”じゃない」
「いやいや、小説みたいに都合よくはいかないって」
軽口を叩きながらも、母の返しが妙に“正確”な気がして、言葉が詰まる。
「それより……覚えてる? 13年前にも行ったことあるのよ、あの図書館」
「え?」
「小学校の高学年だった頃。あなた、ひとりの女の子とよく会ってたじゃない」
記憶の底が、ひそやかに揺れた。
そうだ。13年前──僕はその図書館で、誰かと出会っていた。
*
彼女は、静かな子だった。
本を読むときだけ、すこし饒舌になった。
『犬神家の一族』『殺戮にいたる病』『人形はなぜ殺される』──
僕らは、文庫の背表紙を並べるようにして会話した。
その中で、彼女が一冊だけ読まなかった本があった。
「これはまだ早いの」
そう言って、彼女は分厚い文庫──京極夏彦の作品を手に取り、そっと戻した。
当時の僕には、意味がよく分からなかった。
けれど、なぜかその姿だけが妙に印象に残っていた。
秋だった。
落ち葉が積もった中庭のベンチに、ふたりで並んで座ったこともある。
「この図書館、何かありそうな気がするよね」
彼女は、そう笑っていた。
彼女の名前は──思い出せない。
顔も、輪郭も、曖昧なのに、会話の内容や声の響きだけが鮮やかに残っている。
記憶とはそういうものかもしれない。
でも、どこかで“違う”とも思っていた。
あまりにも、細部まで鮮明すぎる。
それが、なんだか気味悪く思えたのは、この夜が初めてだった。
■第2章 図書館の亡霊
旧図書館の入口には、黄色いバリケードテープが張られていた。
それをくぐる僕の足音が、秋の静けさに吸い込まれていく。
警備員に学生証を見せて中に入ると、懐かしい空気が肌にまとわりついた。
高い天井、埃を含んだ光、わずかにしなる床板の音。
ただ、以前感じた“懐かしさ”は、もうそこにはなかった。
違う。
今ここには、“何か取り返しのつかないこと”が起きた場所特有の、重たさがある。
僕は、階段を上って図書室の前に立った。
あの重厚な扉が、今日は開け放たれていた。
「中へどうぞ」
刑事の声にうなずいて足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
本棚は整然としていて、騒動の痕跡は少ない。
だが、空間全体が妙に“音を吸っている”ような感覚があった。
中央の閲覧テーブルの端に、一冊だけ本が開かれたまま置かれていた。
それは──あの、彼女がかつて「まだ読まない」と言った作家の文庫本だった。
「ここで、倒れていました」
刑事が静かに指し示した。
中年の職員。性別は不明。外傷はなく、毒物も検出されず。
“事件性はあるが、死因は特定できない”──それが警察の見解だった。
「ご自身がここで何をしていたか、改めて教えてください」
「……本を見ていただけです。展示用に再構成された棚の並びが懐かしくて、何冊か手に取って……」
「被害者とは、面識は?」
「ありません。顔も、名前も、記憶にないです」
刑事はうなずきながら、僕の表情をじっと観察する。
それが“確認”ではなく、“観察”だと感じられたのは、なぜだったのだろう。
*
聴取が終わった帰り道、僕は坂道を下りながら、背中に何かが貼りついているような感覚を覚えていた。
事件現場に残されていた本──あれは、13年前の彼女が「まだ早い」と言った作品だった。
なぜ今、あの本なのか。なぜ、僕はそのことを、こんなに鮮明に思い出しているのか。
彼女の顔は思い出せないのに、声や仕草や、好きだったタイトルだけがはっきりと残っている。
まるで、“その記憶だけ”が保存されていたように。
夜、自宅のダイニング。
母と向かい合って夕飯を囲む。ニュースでは事件の続報が流れていた。
「ほんとに、13年前に行ったことあったんだね」
「あなた、彼女とずっと同じ席に座ってたじゃない。ミステリーの話ばかりして」
「……覚えてる。でも、変だな。顔は全然思い出せないんだよ」
母は少し考えて、柔らかく笑った。
けれどその笑みに、わずかに“段取りを感じる違和感”があった。言葉より先に、笑顔が用意されていたような。
「それはね、たぶん──“そういう記憶”だから」
「“そういう”?」
「あなたに必要なものだけが、残ってるの。記憶って、案外そういうものよ」
僕は曖昧にうなずきながら、その言葉を胸のどこかにしまった。
必要な記憶だけが残る──それは優しさか、それとも操作か。まだ判断がつかない。
その夜、眠る前にスマホのメモを開き、13年前のことを箇条書きにしようとした。
でも、書けば書くほど、記憶はぼやけ、何かがこぼれ落ちていくようだった。
──彼女は、本当に“いた”のだろうか?
──僕は、本当に、彼女と会っていたのだろうか?
そんな問いが、夜の静けさの中でふと、浮かんでは消えていった。
■第3章 密室の理
翌日、僕は大学の片隅にあるミステリー研究会の部室にこもっていた。
入学と同時に名前だけ登録していた幽霊会員だが、誰も使わないその静けさが、今の僕にはちょうどよかった。
本棚に詰まった乱歩や綾辻の文庫が、僕を咎めもせず、黙って見下ろしている。
机の上に広げたのは、警察から提供された事件資料のコピー。
図書室の見取り図。死体の位置。出入り記録。目撃情報。開かれた文庫本。
全てが、異常なくらい整っていた。
僕は紙とペンを取り、中央に大きく書いた。
──誰が殺した?
そう書いた瞬間、違和感があった。
問いが、妙に“古典的”に感じられたのだ。
まるで僕が、ひとつの「物語」に引き込まれているかのように。
密室殺人。
最も愛されたミステリの舞台装置であり、最も作為的な空間。
鍵は閉じられ、窓も塞がれ、出入りの痕跡はない。
つまり、ありえないはずの死が、ありえない場所で起きた。
さあ、探偵役の出番だ。
僕は、まず犯行の成立条件を分解していった。
何度も読んだ本格ミステリの定石を思い出しながら、可能性をつぶしていく。
■ 仮説1:内側から鍵をかけたように見せかける偽装トリック
→ 図書館は電子ロック式。ログはすべて保存されている。偽装は困難。
■ 仮説2:自殺に見せかけた他殺(逆も)
→ 外傷なし、毒物反応なし。死因は「急性の心停止」。ただし原因不明。
■ 仮説3:時限装置による遠隔殺害
→ 現場にそれらしき機器はなし。電源も落ちていた。消去。
■ 仮説4:そもそも“密室ではなかった”という叙述トリック
→ 出入りログも監視カメラも異常なし。侵入不可能。
どれも定石だが、定石だからこそ、トリックは成立しない。
そして、見逃せない点が一つあった。
──テーブルの椅子。
閲覧テーブルの端に、椅子がひとつだけ、倒れていたという目撃証言。
ところが、発見時にはそれが「きちんと戻っていた」と記録されていた。
つまり、誰かが“あとで椅子を立て直した”ということになる。
が、それは記録上「存在しない誰か」だった。
(椅子を倒した人物は誰か? 立て直したのは? そもそも本当に倒れていたのか?)
迷路に入ったような感覚のなか、僕はふと思った。
──この事件で一番おかしいのは、もしかして“自分”ではないか?
僕は、資料の一枚に目を留めた。
監視映像の静止画。図書室から出ていく僕の姿。
その背後に、倒れた椅子が映っている。
でも、僕の記憶には──椅子が倒れていた覚えはない。
手のひらに、じわりと汗が滲む。
なぜ、僕の記憶と記録がズレている?
なぜ、被害者の顔を“どこかで見た気がする”のに、思い出せない?
混乱する思考を落ち着かせるため、僕は紙に時系列を整理した。
▼事件当日の自分の行動メモ(記憶+記録ベース)
14:05 入館(記録あり)
14:10〜15:20 閲覧席で調査。被害者の姿は見ていない
途中、“誰か”と短く会話した記憶あり(曖昧)
15:30 退出(映像あり)。背後に椅子が倒れている
翌朝8:00 死体発見。椅子は“立っていた”
──どこかに矛盾がある。
退出時に椅子が倒れていた=死亡時刻はその前?
でも、僕は“何も異常に気づかなかった”。
それは──本当に、ありえるのか?
僕は目を閉じ、強制的に記憶をたぐった。
光。誰かの声。ページをめくる音。そして──誰かが言った。
「それでも、見なかったのは……あなただよ」
はっとして目を開けた。
指が勝手にノートに書きつけていた言葉が目に飛び込む。
──犯人は、君かもしれない。
ぞっとした。
そうか──そういうことか。これはただの事件じゃない。
自分自身が、“この物語の一部”なのだ。
あるいは、“物語そのもの”なのかもしれない。
記憶が、現実と噛み合わない。
資料が整いすぎている。
誰かが“用意した”かのような、舞台のような空間。
僕は、事件の“外”からではなく、“内”から真実に迫ろうとしていた。
でもそれは、本当に「探偵」の立場なのか?
それとも──
扉の向こうにあるものを、僕はまだ、知らない。
──後編へ続く──