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第七試合 フロイトvsエピクロス

闘技場に満ちた沈黙が、夕暮れの木漏れ日によって破られる。


選手入場


実況:「ご来場の皆様、お待たせいたしました!」「人間の欲望の真実を巡る、運命の対決の幕開けです!」


場内が暗転する。


実況:「青コーナー!」暗闇の中、不気味な影絵のように無意識の映像が壁に映し出される。


「人間の心の深層を暴く、精神分析の創始者!」「欲望を解き明かす探究者!」「ジークムント・フロイトゥゥゥ!」


煙草をくわえた男が、重厚な革の長椅子を伴って入場してくる。その周りには、夢の断片のような映像が揺らめいている。


実況:「赤コーナー!」静かに木漏れ日が差し込み、花びらが舞う。


「快楽の真髄を説く、アテネの賢者!」「静寂の庭園に憩う哲人!」「エピクロス!」


シンプルな白衣の男が、果物を手に、ゆっくりと歩いてくる。その足取りには不思議な軽やかさがある。


対峙


革の長椅子に座ったフロイトと、リンゴを手にしたエピクロスが向かい合う。


「興味深い...」フロイトが煙草の煙を吐きながら観察する。「なぜそんなに平静としていられる?」


エピクロスはリンゴを一口かじり、穏やかな笑みを浮かべる。「シンプルな話さ。必要のない欲望に振り回されないだけ」


「甘い!」フロイトの眼鏡が光る。「人間の欲望はそう単純じゃない。その平静な表面の下に、渦巻く情念が...」


「難しく考えすぎだよ」エピクロスが肩をすくめる。「喉が渇けば水を飲む。お腹が空けば食べる。それ以上でも以下でもない」


「フッ...本当にそれだけか?」フロイトが立ち上がる。「ならば、君の心の深層を覗いてみようじゃないか!」


試合開始


ゴングが鳴る。


「無意識解放・リビドー!」フロイトの放つ技が、影のような波動となってエピクロスに襲いかかる。


だが、エピクロスはただリンゴを食べ続けている。波動が彼の周りを通り過ぎていく。


「何?」フロイトの表情が曇る。「どうして効かない?」


「君の言う欲望...」エピクロスが静かに語り始める。「確かにそれは存在する。でも、気にしなければいいだけさ」


「気にしない?そんな...」フロイトの声が強まる。「人間は欲望の奴隷だ!幼少期のトラウマ、性的欲求、死への恐怖...!」


「エディプス・コンプレックス!」渦巻く影が、今度は人間関係の複雑な網目となって襲いかかる。


エピクロスは相変わらず果物を口にしながら、ゆっくりと歩く。網目が彼の周りで溶けていく。


「どうして...」フロイトが困惑する。「私の精神分析が...」


「ねぇ」エピクロスが優しく問いかける。「そんなに人間を解釈しないと気が済まないの?」


「人間の心を理解するには...」


「本当に必要な欲望を満たせば、心は自然と落ち着くものさ」エピクロスが微笑む。「君は余計な心配をしすぎている」




激突


「く...」フロイトの周りで、暗い影が渦巻き始める。


「まだだ...こんなところで...」フロイトが拳を握りしめる。「人間の欲望は、もっと複雑で、もっと深いはずだ!」


「エス解放・本能暴走!」渦巻く影からイドの化身が現れ、エピクロスに襲いかかる。


しかしエピクロスは相変わらず、ただ果物を口にしている。イドの化身は彼の前で霧のように消えていく。


「超自我・罪悪封印!」今度は強烈な禁止と抑圧の力がエピクロスを包み込む。


それでも、エピクロスの穏やかな表情は変わらない。


「なぜだ...」フロイトの声が震える。「なぜ私の技が効かない!?」


エピクロスはゆっくりとフロイトを見つめる。「君の技は、欲望に苦しむ人を理解し、癒すためのもの」彼は優しく微笑む。「でも私には、癒すべき苦しみがないんだ」


「まさか...」フロイトの目が見開かれる。「そんなバカな...!」


【魂の深層より湧き上がる衝動よ抑圧された本能の闇を解き放ち今こそ示せ、欲望の究極を!】「奥義!死の欲動・タナトス!」


轟音と共に、闇の奔流が解き放たれる。それは人間の最も根源的な自己破壊衝動、死への願望を具現化した技。闘技場全体が闇に包まれ、観客たちの悲鳴が響く。


エピクロスは静かに目を閉じ、最後の一片のリンゴを口に運ぶ。


「死への恐れ?」彼の声が優しく響く。「それも余計な心配だよ」


「何?」


「死んでいる時、私たちはもう存在していない」エピクロスが目を開ける。「だから、死を恐れる必要もない」


彼の周りで、光が静かに広がっていく。


「そんな...」フロイトの影が、光の前で薄れていく。「シンプルすぎる...」


決着


「ここまでか」エピクロスが静かに呟く。そして、意外な行動に出る。


彼はゆっくりとリングの外に歩き出した。


「ちょ、ちょっと待て!」フロイトが叫ぶ。「どこへ行く!?」


「勝負は君の勝ちだよ」エピクロスが振り返る。「私には勝とうという欲望がないからね」


「なっ...」フロイトが絶句する。


実況も困惑気味に報告する。「エ、エピクロス選手、リングアウト!勝者、ジークムント・フロイト!」


場内がどよめく中、フロイトは呆然と立ち尽くしていた。


「待ってくれ」彼は駆け寄り、エピクロスの肩を掴む。「これは...私の負けだ」


「勝ち負けに固執するのも」エピクロスが微笑む。「必要のない欲望さ」


その時、フロイトの中で何かが揺らめいた。長年の探究で築き上げた精神分析の体系が、目の前のシンプルな真実の前で、新たな輝きを放ち始める。


「私は...間違っていた」フロイトが煙草を取り出す。「いや、間違っていたわけではない。だが、不完全だった」


「人間の欲望を理解し、解放することは大切だ」エピクロスが頷く。「でも、その先にあるものにも目を向けないと」


フロイトの周りで、これまでとは違う光が揺らめき始める。それは暗く重たい影ではなく、透明で清らかな輝き。


「私の精神分析に、君の教えを組み込もう」フロイトの目が決意に満ちる。「欲望を理解し、そして...それを超越する方法を」


エピクロスは満足げに頷き、最後の言葉を残して去っていった。


「じゃあ、たまには庭で一緒に果物でも食べようか」


フロイトは静かに煙草の煙を吐き出す。彼の精神分析は、この敗北から新たな次元へと進化を遂げようとしていた。

闘技場のモニターには、次なる戦いの予告が映し出される───


薄明かりの大学研究室にて。黄金の数式が舞う中、一人の男が方程式を書き連ねる。「この世界には、必ず理由がある」


窓の外を見やる。「全ては完璧な調和の内にあり」「神の創りし最善の世界なのだ」


寂寥たる山小屋の一室。机に向かい、一文を書き記す男。「語りうることと、語りえぬことの境界へ」


ペンを置き、窓の外の闇を見つめる。「論理は、世界の限界を示す」「そして、その先には沈黙がある」


二つのインタビューが交差する。「完全なる体系の真実」「言葉の限界の彼方へ」

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