三枚の金貨 2
夕方のコーヒーハウスはそれなりに客も入っていて、川から少々離れた立地のわりに、身なりの良い客の姿も見える。
しかし、ルゥは客の置いていった夕刊を眺めていて、エリカに至ってはどこか上の空だったのに、それほど忙しくはならなかった。もともとタイラーひとりで回せるくらいの繁盛度だったのだから当然だ。
そこへ、ペトラが画材を背負って帰ってきた。
「ただいま、諸君」
「ああ、おかえりなさい。ペトラさん」
ペトラがカウンター席に座り、コーヒーを一杯注文した。それを見たエリカは隣に座る。
「絵を描きに行ってたのね。……って何よこれ、何が描いてあるかわからないじゃない」
「エイド川を描いたんだ」
「これのどこが川なのよ」
エリカが絵を傾けながらそうつぶやいた。
「見えるままを描いてもつまらないだろう? 私は今日見た川から受けたイメージをそのまま写したんだ」
「物は言いようね。……あ、そういえばお父様の研究室にもこんな絵が飾ってあったわね」
「へえ、ルークがちゃんと飾ってくれていたのか。ずいぶん前に一枚あげたことがあったんだ。一番よく見えるところに飾ると言ってくれてね」
「ぷぷっ、研究室はお客さんも使用人も入らないところよ。人に見せるのは恥ずかしかったんだって。残念だったわね」
「……彼は評判を気にする人だったからね」
声を落としてそう言うと、ペトラは席を立った。
「そうだ、ルゥ。店を閉めるときに、この場所に行ってきてくれ。夕食用の七面鳥を準備してもらっているんだ。代金は払ってある。私は少し休んでいるから、頼んだよ」
「了解した」
二階に上がるペトラの後ろ姿を見て、エリカがぽつりとつぶやく。
「私があんなこと言ったから拗ねたのかしら。そういうの、気にしない人だと思ってたのに」
「どうでしょう。芸術家の感性というのは独特ですからね」
エリカは怪訝そうに「芸術家?」と聞いたが、タイラーは困り顔だけを返し、余ったコーヒーを啜った。
夜になり、暗くなり、客もいないので少し早いが店を閉めることになった。
「ルゥ、もう行くの?」
「ああ、迷って遅れたらいけないからな」
「そう……。あ、そうだわ。これ、ルゥが持ってて。ハルスにあんな事言われたから、嫌になっちゃった。適当に使ってきてちょうだい」
「了解した」
エリカから渡されたのは、例の三枚の金貨だった。ルゥはそれをポケットに入れ、ペトラから頼まれたおつかいをこなすために、地図を見ながら店を出た。
裏の人間が仕事を始めるにはまだ早い時間だが、それでも街頭のない場所では怪しい動きをする人間が出てくる頃だ。
(右の路地に二人、奥の家の二階の窓に一人……)
危険そうな箇所は予め避けるに越したことはない。ルゥは怪しい人の動きや視線を察知するなり、地図に場所を記録していった。
そうこうするうちに、目的地までたどり着いた。あまりにいい匂いがするものだから、最後は地図も必要なかった。
「すみません、七面鳥を予約していた……ペトラだ」
「ペトラ様ですね。少々お待ち下さい!」
応対に出てくれたのはルゥと同じくらいの背丈の女の子だった。年齢で言えばその子のほうが何倍も上だろうが。
少女が奥に引っ込むと、代わりに大人の女性が出てきた。
「ごめんなさいね、あともう少しで焼き上がるんだけど……できるまで待っててもらってもいいかしら」
「わかった」
「ベティ、ペトラさんにお茶を淹れてあげて頂戴」
「ああ、いや、お構いなく……」
ルゥが断る前に、奥からさっきの少女が出てきてルゥの手を引いて、あっという間に椅子に座らされた。
簡素だがしっかりとしたダイニングテーブルと、それを囲む四つの椅子。毎日拭いているのだろう、年季は入っていても汚れ一つない。夕食を囲む温かい家庭の様子が目に浮かぶ。
ベティと呼ばれた少女がティーポットを運んできて、眼の前のカップにお茶を注いだ。ベティも椅子に座り、カップから登る湯気が二筋、伸びていく。
「遠慮しないでください、ペトラ様!」
「それじゃあ、有り難く。ん、美味しい。あと、私はペトラじゃなくて……ペトラの、養子? みたいなもので」
「養子!? ペトラ様って貴族様だったのですか!?」
「いや、そういうわけじゃなくて……知り合いに引き取られただけっていうか。だから様は要らないよ。私の名前はルゥだ」
「ルゥさん! 私のことはベティって呼んでください。いやー、ちょっとびっくりしちゃいました。養子を取るような上級貴族の方がこんな店に来るわけないですもんね、えへへ」
「素敵な店だと思うが」
「まさか! でも嬉しいです。私たち家族にとっては大切なお店ですから。祖父の残してくれたこのお店があるおかげで、貴族でもない私たちが教会に行かなくて済んでるんです」
「教会?」
「知らないのですか? 今のポートラインで一般的な魔法使いの家系の人は、教会で働くことが多いんです。教会は常に人手不足で、お給料も他の雇われ仕事よりも高いですから」
「そうなのか……。知らなかった。私は魔法も使えないからな」
ルゥの魔法が使えないという言葉を聞いて、ベティが一瞬顔を曇らせた。
「あ、ごめんなさい……。でも、魔法を使えるかどうかなんて関係ないと思います。教会の仕事って、表向きは崇高なお仕事だけど本当はとっても大変で、ひたすら空っぽの結晶に魔法を込めていくだけだって。お兄ちゃんが言ってました。だから、魔法使いじゃない下民の人たちが工場でやってるのとそんなに変わらないですよ」
「……お兄さんは教会に?」
「はい、学費を免除してもらえるってことなので、去年から王宮のすぐ近くのところに。でもあと三年で帰ってこれるから、大丈夫です。そうしたらまた、いっぱい遊んでもらいます」
「そうか……」
その時、入口の方から男の大声が聞こえてきた。
「だから今出せっつってんだろ!」
急いで受付に出ると、警察服の男がベティの両親に詰め寄っているところだった。
「で、でも確かについ先日主人が納めに行ったはずで……」
「それが納められてないからこうやって俺が来てるんだろうが! 旦那がちょろまかして賭け事でもやったんじゃないのか?」
「いや、俺は断じてそんなことは……」
「うるせぇぞ! 三ヶ月も滞納してるんだ。警察署から届いた手紙は読んでねぇのか?」
「私が毎日確認していますが、そのようなものは一度も……」
「ははぁ、嘘をついてるのは奥さんのほうだったか。マルト金貨一枚、きっちり払ってもらうまで今日は帰らねぇからな」
どうやら商売の税金の取り立てに来ているようだった。未納だと主張する警察と、払ったと言い張る家族。
「そんな法外な!」
「法外って、法を破ったのはあんたらだろ? それなりの利子は覚悟してもらわないと」
「そんなの無理だ……」
「このッ……! 毎日毎日街の安全を守ってるのが誰だと!」
受付の中まで入り込み、彼らを追い詰めた警察服の男が拳を振りかざしたところを止めたのは、ルゥだった。
「警察ってのは暴力も許されてるのか」
彼女はいつの間にか受付台に登っており、男が後ろに引いた拳を後ろから片手で止めている。
「何だ? お前……俺の仕事を邪魔するのが犯罪だってことくらいはパパに教わらなかったのか」
「君の仕事っていうのは、詐欺で金をだまし取ることか?」
男が苛立ちを見せ拳を振りほどこうとするが、離れない。
「詐欺だと? お前誰に向かって……」
「君が警察じゃないことくらいは簡単にわかる」
「はぁ?」
「制服が綺麗すぎるからな」
唖然とする家族を前に、ルゥは話し続けた。
「昨日は王宮の人間がそこの川のレストランまで食事に来たそうでな、ここらの警察隊はみんな警備に招集されてたんだ。雨の中、外でだ。当然、服は濡れるし裾には泥がつく」
「ははん、その程度で疑ってたのか。クリーニングに出したんだよ。警察隊が綺麗な制服で仕事をしないとみっともないからな」
「なるほど、一晩で仕上げてくれるなんて警察様はずいぶんと良いクリーニング屋をお使いのようだ」
ルゥが男の手を離すと、男は手をぷらぷらと振ってから制服を整えた。
「庶民とは違うからな。新品同然にしてくれるんだよ。わかったなら早く……」
「じゃあ何で上着の背中が裂けてるんだ? まさかクリーニング屋だから縫合はしてくれないなんて言うんじゃないだろうな」
「んなっ……!? これは! そ、そうだ、今日椅子に引っ掛けてしまって……!」
「裂けてるってのは嘘だ」
「くっ……てめぇ!」
男がルゥを殴ろうとして一歩踏み出した瞬間、男の視界からルゥが消える。彼女はまず身を屈めて姿を消し、それから男の股の間をすり抜けて後ろに回った。
見ていた家族も、何が起きたかすぐには理解できなかった。
男が踏み込んだ勢いのまま、ルゥは男の背中を蹴り飛ばす。体勢を崩し、宙を舞い、ドアを破壊しながら退店した。
「しまった、力の加減が」
意外にも、男はまだ動けるようだった。すぐに手を出す人間は、手を出された経験も多いのだ。
ルゥがなくなったドアを通って男の方へ向かうと、男は怯えた様子で壁伝いに立ち上がり、腰をかばいながら後ずさりした。
「頼む、悪かった! 罰は受けるがこの制服は汚さないでくれ……! 仕事ができなくなっちまう」
「少しくらい汚れてたほうがそれっぽいと思うが」
「……お願いだ」
変わり身の早い男に同情しつつ、少し考えてから、ルゥは男を見逃して店内に戻ることにした。
「ルゥさん、かっこよかったです!」
「ええ、そうねぇ……」
ベティが駆け寄ってきて、ドアの破片の上でルゥに抱きついた。ベティが跳ねるたびに、ドアだったものが音を立ててドアではなくなっていく。
「でも、大切なお店なのに……入口が」
「これくらい、すぐに直せますから!」
ベティに引かれて店の中へ戻される。彼女の両親はというと、心配そうな表情でルゥを見つめていた。
「あら、もう焼き上がるころじゃないかしら」
「ああ! 忘れるところだった。すぐに用意するから待っててください、ルゥさん」
父親が奥から七面鳥を持ってくると、丁寧に包装されているにもかかわらず、一気に部屋にいい匂いが広がっていく。
「心ばかりのお礼ですが、これも持っていってください」
彼が差し出したのは、ワインだった。
「少し前に貰ったものなのですが、上等なもので私には勿体ないですから、どうぞ」
「ありがとう」
「……お時間を取らせてしまいましたね。早く帰らないと心配されるでしょう。どうかお気をつけて」
恭しくルゥを外まで送り出すベティの両親に、ルゥは深々とお辞儀をして店を出ようとしたが、思い出したように振り返った。
「そうだ、これを」
渡したのは、金貨だった。
「これは、ドアの修理費にあててくれ」
そして、もう一枚。
「こっちは、お兄さんの学費の足しに」
「そ、そんな、いただくわけには……」
「お金には困ってないんだ」
「でも……!」
ベティに金貨を握らせて微笑むと、ルゥは店を後にした。
往路よりも暗く、不気味な雰囲気の漂う通りを歩いて帰る。美味しそうな匂いを連れて。
「一枚、余ったな」
ルゥが立ち止まったのは、ある扉の前。ノックすると、中から警察服の男が出てきた。
「お前ッ……!」
男が反射的に扉を閉める前に、ルゥが隙間に指を入れてこじ開ける。
「これを渡しておこうと思って」
ルゥは一枚の金貨を差し出した。
「どういうつもりだ」
「仲間が大勢いるんだろう」
「……」
「古くて小さいがそれなりの家だ。住んでるのが普通の家族ならあそこまで危険な仕事をする必要があるとは思えない」
「どうして……」
「警察服だって簡単に手に入る代物じゃない。協力者が沢山いて、ここは拠点か何かに使っているんだろう」
「どうしてここがわかった……。後をつけてたのか」
「いや、店に向かう途中で、君がそこの窓から路地裏にサインを送ってるのが見えたからな」
きょとん、とした顔で男はルゥを見下ろす。
「だから店で君を見た瞬間に警察じゃないって知ってたんだ。あの家族に安心させるには君自身に認めてもらうのが良いから、適当に推理芝居をさせてもらった」
「お前、何者なんだ」
「……ほら、君の仕事は金貨一枚だろ。痛い目に遭いたくなかったら、次はもっとマシな仕事を見つけるんだな。ちょろまかして賭け事に使うんじゃないぞ」
バタンと扉が閉められる。残ったのは一枚の金貨と香草の香りだけだった。
こうして一つの厄介事を乗り越えて、七面鳥とワインは、少々遅れてコーヒーハウスへとたどり着いたのだった。
「ただいま、遅くなった」
「もう、心配したのよ! ほらこっちに来て! ……手も冷たくなってるじゃない」
「ごめん」
客席のテーブルを使い、買ってきた七面鳥とスープを並べる。持ってくるときには感じなかったが、食卓に置かれるとその大きさが目立つ。
「ルゥ、そのワインは?」
「金貨三枚と交換してきた」
「えぇ!? そんなに高価なの? あなた騙されてないわよね……?」
「飲んでみればわかる」
ルゥはワイングラスを三つ運んできて注ぎ入れる。
「さて、エリカもルゥも、あらためてコーヒーハウス・ペトラへようこそ。今日はキミたちの歓迎会だ」
乾杯の音が静かな店内に反響する。金貨三枚分のワインに一同が緊張する間、魔法ストーブの低温だけが重たく響いている。
「ふふっ、ルゥ、キミやっぱり騙されたんじゃないか?」
「そうか? 私は美味しいと思うが」
「……ねぇ、ルゥ、残りあげる。そういえば私、ワインは得意じゃなかったわ」
「あはははっ、エリカらしいじゃないか」
店内はすぐに話し声や笑い声で満ちた。話が弾み、無限にあるかと思われた料理も食べ始めてみれば案外平らげてしまえる。
「そういえば、ペトラとお父様ってどういう関係なの?」
「……学生時代の友人だよ」
ペトラが椅子にかけてあった外套のポケットから一枚の写真を取り出した。
「わぁ! お父様もペトラも若い……っていうか、幼いわね! あれ、この左の女の人は?」
「あぁ、それは……」
「……もしかして、お母様?」
一瞬、時間が止まったようだった。
「知ってたのか」
「いいえ、お父様から聞いたのは、私を産んだときに亡くなったってことだけ」
「そうだ。彼女は気立ての良い人だったよ。よく三人で出かけたのが懐かしいね」
ペトラが写真を下げ、外套にまた戻す。
「気になるなら、今後少しずつ話してあげよう」
「うん……」
「すまないね、暗い気持ちにさせてしまったかな。話題を変えよう。二人は今日タイラーの手伝いをしてたみたいだけど、お客さんとはうまくやれてるかい?」
「もちろんよ! 接客なんて簡単だわ」
「それは頼もしい」
「……あ、でも一人だけ苦手だわ。ハルスってお客さんなんだけど」
「くふふっ。ハルスティモアのことか。あいつは変わってるからね」
「変わってるなんてもんじゃないわよ! 口を開けば意地悪なことばっかり。それに聖典なんか読んでるの。きっと勇者が本当に居たと思ってるのよ」
「彼も少し頑固なところがあるから、許してやってくれ。ああ見えて根はいい奴なんだ。……あと、それに、勇者は本当に居たんだよ」
「えっ?」
ペトラが声を低くして脅すように言う。
「暗い夜は、いい子にしてないと勇者が来て襲われちゃうのさ……」
「馬鹿にしないでちょうだい!」
「ふふ、ごめんごめん。だけどもう良い時間だ。いい子にして寝なさい」
エリカは頬を膨らませながら部屋へと戻った。
後片付けをするルゥを、カウンター席からペトラが眺める。
「色々あったみたいだね、ルゥ」
「ああ」
「食事のときに話してくれても良かったんじゃない?」
「そうだな」
「……キミはあまり話すのが好きじゃないみたいだね」
「ペトラも私の正体はルークから聞いているんだろう? 私はエリカを護衛するために作られたんだ。おしゃべりになる必要はない」
「本当に?」
「……どういう意味だ」
「護衛するだけがキミの役割じゃない。キミだって生きた一人の人間であることに変わりはないからね。迷ったり、悩んだりすることもあるだろう」
「ない」
「つれないね」
時計が鳴った。日が変わったのである。
「さ、残りは私がやっておくから。ルゥも寝なさい」
寝床に入ったルゥは、すぐに眠りについた。自分でも気が付かないうちに、疲れていたのだ。
それから、一週間、二週間と過ぎ、新しい生活が定着してきたある朝のことである。
「ペトラさん、今日は画材は持たないんですね」
荷物を持たずに店を出ようとするペトラに、タイラーが声をかけた。隣で食器を磨くエリカがペトラをじっと睨んでいる。
「あぁ、たまにはね」
「もう、ペトラったら毎日遊んでばっかり! この店もコーヒーハウス・タイラーに改名したら?」
「ふふ、こういう店はエキゾチックな名前のほうが流行るんだよ」
「流行っているようには見えないけど」
そんな中、店の扉が開き、外から少女の声が聞こえてくる。
「えっと、こちらがペトラさんのお店ですか?」
得意げな顔で「ほらね」と言って店を出ていくペトラとすれ違い、中に入ってきたその子は、ベティだった。