三枚の金貨 1
「それでは、エリカお嬢様。私の役目はここまでです。長い間お付き合いいただきありがとうございました。どうか、よい人生を」
「あなたもね」
夕日に照らされた二人の少女を、一人の使用人が見送る。
冷たい川のすぐそばにある駅で別れ、それぞれの人生を歩むのである。
黒髪を短く切りそろえ、お嬢様然とした服装の少女、エリカが車窓越しに手を振った。
それを大荷物を抱えながら、向かい合う席で見守るもう一人の少女はルゥ。銀色の髪を無造作に伸ばし、エリカよりもいくらか質素な格好をしている。
「心配しないで、ルゥ。使用人がいなくても、もう自分のことは自分でできるでしょ? お父様もきっとそれをわかっててこうしたんだわ。それに、聖都には大きな王宮があって、女王様が住んでるのよ。もしかしたら会えるかもしれないわ」
「……そうだな」
エリカがルゥの手を両手で包むように握りしめる。その手は震えていた。
列車は川沿いを上流へと進んでいく。
エリカが幼少期を過ごした街があっという間に遠ざかっていく。ほんの少し芸術が盛んというだけの平凡な街だったが、それでも、父ルークが死ぬまでは、彼女の家だった。
ルークの死は、突然のものではなかった。
エリカが物心ついたときにはルークはすでに原因不明の病に蝕まれており、容態が好転する日はないほど酷い状態だった。それでも彼の魔法の技術は素晴らしいもので、体が動かなくなるまでの間に数々の功績を立て、貴族姓を手に入れるに至ったのだ。並の魔法使いとは思えないほどの功績と、彼の病状を見た周囲の人間は、彼は悪魔に魂を売ったなどと噂した。それは根拠のないでたらめなのだが、当たっている部分もあった。彼は秘密裏に、禁忌の魔法である「人を作る魔法」を完成させていたのだ。その魔法で作られたのが、ルゥである。
ルゥが生み出されてから、ルーク、エリカ、ルゥの三人は秘密を守りながら生活してきた。ルークの死期が近づくのを感じると、使用人の数も徐々に減らし、彼の死ぬ間際には一人しか残っていなかった。屋敷も売り払うことを決め、エリカとルゥを信頼できる友人のもとへ送り出すことにしたのだ。
「エリカ、もうすぐポートライン駅だ」
「ん……もう?」
エリカが眠たそうな目をこする。暗い車内を照らすのは、窓の外から入る街明かりだった。大きな建物が川沿いに所狭しと並び、全ての窓からぎらぎらと明かりが漏れてくる。
エリカは細目のままあくびをした。ガス灯に代わって街を照らすようになった魔法灯は、寝起きの目には眩しかったようだ。
列車は静かに停車した。
「ルゥ、見なさいよあれ! 人があんなに沢山! それにあの屋台……きっと美味しいものを売ってるわ!」
「ああ、そうだね。降りて買いに行ってみよう……って、ちょっと!」
すぐに車両を出ていってしまったエリカを追いかけて、ルゥが荷物を抱えたまま降りる。ホームに降りた途端、冷たい風に吹かれ、雨が顔を濡らした。
「ちょっと寒いな……」
鞄を背負い直すと、人の波に流されるように屋根のある軒下まで歩いた。
「ルゥ、あなたの分も買ってきたわ」
ルゥのもとへ戻ったエリカが手渡したのは、湯気の立つほど熱いじゃがいもだった。
「はむっ……はふ、はふ……おいひいわね……はふ」
「火傷しないように気をつけるんだ」
「わかってるわよ。でも早く食べないと冷めちゃうわよ」
「確かに、温かいうちのほうが美味しそうだ。ありがとう」
ルゥはそれを頬に当て、薄い紙袋越しに伝わってくる熱で暖をとりながら、父から聞いた住所へと歩き出した。
繁華街は川沿いに広がっているため、川を離れていくと住宅街になる。街灯も少なくなり、暗く、治安も悪くなる。月明かりもない夜に少女二人で歩いているとなれば、襲いたくなるのも無理からぬこと。
暗い路地、二人の後をつける集団が居たのは、不幸なことだった。正確には、後ろに二人、屋上に一人、前方の家の中に一人である。屋上の一人は見張り役、前方の家の前で後方の二人組がそれぞれルゥとエリカを叫ばないよう拘束し、そのまま引きずり込んで誘拐する算段だ。
彼らの思惑通りに二人の少女は家の前まで歩いた。世間知らずの下級貴族の子供を攫うだけの簡単な仕事である。二人は予定通りに後ろの男に拘束され……はしなかった。男が腕を伸ばした瞬間、ルゥの手がそれを弾いてみぞおちへ一発。返す刀でもう一人の男に蹴りを入れる。
「なっ、どうしてこんなガキがっ……」
「……余裕そうだな」
驚いた様子の男にもう一発蹴りをいれる。動かなくなったのを確認すると、うっすら開いたドアから覗く顔に会釈をする。引きずり込むはずだった部屋の仲間が様子を見に来ていたのだ。
ルゥと目が合うと、太った男が中から出てきて、恭しくお辞儀を返した。
「まだやるつもりか?」
「滅相もございません、ははは。ちょいと仕事を間違えてたみたいで。貴女にお怪我がないようで何よりですとも。こいつらにはキツく叱っておきますんで、殺すのだけはなんとか。ここは一つ、お目溢しを頂けませんかね」
太った男はルゥの手を取ると、マルト金貨を一枚握らせてそう言った。
「はした金じゃない」
エリカが呟くと、男は更に二枚、金貨を握らせる。
「おやおや、額を間違えてたみたいだ。これは申し訳ございません。何分学校なんぞ行ったことがないもんでしてね、算数なんてのは……」
「わかった、わかった。充分だ。ありがとう。旦那もいい夜を」
「お嬢様方の心遣いに感謝いたします」
太った男は、ダウンした二人を中に引きずっていった。ルゥは若干の違和感を覚えながらも、もらった金貨をエリカに手渡した。
「ふふ、お手柄ね、ルゥ」
「あぁ」
ルゥは、凡そ最強と呼ばれる部類であった。
エリカをボディガードするために父ルークが作り出したのがルゥである。ルークの才能と人生の殆どを注ぎ込んだ最高傑作なのだ。一般人との格闘ではまず負けない身体能力を持つ上に、ルゥ自身の流血に反応して制限されていた力が解放されていく。能力の解除は力を前借りする形で行われるため、大量の出血を伴う戦闘をすれば長くは持たず意識は混濁し、昏倒してしまう可能性もある。その後は自動的に傷が癒えるまで目覚めないという代償はあるものの、ボディガードとしては充分な性能だ。
そんな人の形をした化け物を相手にしてしまったのは、彼らにとっては不幸なことだった。
不幸な集団からの臨時収入を手に、二人は目的地に到着した。
「やあ、キミたちがルークの子だね。全部聞いているよ、さあ入って」
出迎えたのは長身の女性、ペトラ。彼女はコーヒーハウスのオーナーであり、ルークの友人。二人は今日からそのコーヒーハウスに住むことになるのである。
「長旅ご苦労さま。疲れただろう? 二人だけで来るなんて偉いね」
「……これからお世話になります」
くしゃくしゃになるまで頭を撫でられて不服そうなエリカの代わりに、ルゥが挨拶をする。
「ルゥもお疲れ様。荷物も重いだろう? 二階に部屋を用意してあるから、ひとまず置いてきてくれ。あぁ、部屋の模様替えも勝手にしてもらったらいいよ。気にせず使ってくれたまえ」
「ありがとうございます」
「敬語なんていいから。私はそういうの慣れないんだ。そうだね……こんなことを言うのは厚かましいかもしれないけど、家族だと思って接してほしい。ルークとはね、古くからの友人で……私と彼もまた、家族のようなものだったんだ」
「それじゃあ、ありがとう」
「あはは、切り替えが早いね。無理に仲良くしろとは言わないよ。ただ、気を使わなくていいと言いたかったんだ」
ペトラがエリカの方をちらりと見て、部屋に案内する。
「ベッドは二つあるから好きな方を。書き物机は一つしかないから……必要になったら言ってくれ。他にも必要なものがあれば買っておくよ」
「私は窓側のベッドにするわ!」
エリカがベッドに飛び乗ると、ポケットから金貨が落ちる。
「そうだ、金庫を忘れていた。キミたちは教会に所属していないようだから、お金を自分たちで管理しなくちゃならない。とはいえ、普通の金庫では足りないだろうね……。どうしたものか」
貴族はどこかの教会に所属して財産を預けるのが普通だが、ルークはなぜかそうしていなかった。住んでいた南方の町の教会が信用ならなかったのかもしれない。
「もし足りなかったら隣の倉庫部屋も使ってくれ。何か考えておく。……どこかの教会に所属してしまうのも手だからね」
「わかったわ」
エリカが転がった金貨を拾い集めた。
「さて、キミたち夕食は……うん、食べてきたみたいだね。旅の疲れもあるだろうし、今日はゆっくり休むといい」
ペトラが戸を閉めると部屋が静かになった。ルゥがベッドに腰掛けると、木の軋む音が響く。
眠いのは山々だが、今晩中に持ってきた大量の荷物を鞄から取り出す必要があった。いくらでも収納できる魔法の鞄も、朝にはただの鞄になってしまうからだ。鞄の側面に取り付けられ今も淡く発光する結晶には、魔法の効果だけが込められていて、それを燃料としてこの鞄が魔法の鞄になっているのである。燃料が尽きれば魔法は解けるというわけだ。
すでに寝息を立てているエリカの隣で、荷解きを始めた。ペトラの危惧していたとおり、最も価値の高いセイレン金貨に替えて持ってきたにもかかわらず、倉庫を埋め尽くすほどの量の金貨が鞄から出てきた。鞄を使う方法もあったが、空間拡大の魔法結晶は一つでセイレン金貨一枚、これも無駄遣いするわけにはいかない。
結局、荷物を取り出して配置するだけで三時間以上もかかった。
翌朝、ルゥが目を覚ました頃には日は昇っており、エリカは部屋に居なかった。
ルゥが階下に降りるとコーヒーハウスは既に開店しており、エリカと、それに知らない店員、一人の客。ペトラの姿はなかった。大きな窓から日の光が入ってくるぶん、夜に見たときよりも店内は広く見える。
「あら、おはよう、ルゥ。今タイラーさんにお仕事を教わってたところなの。コーヒーを淹れるのって結構簡単なのね。もっと早く教わっておけばよかったわ。そうしたら私も淹れられたのに」
「ふあぁ。……淹れてもエリカは飲めないじゃないか」
「でもあなたは飲むでしょ? ほら、そこに座って。私が淹れたのよ」
促されるまま、ルゥはカウンター脇にある二人用のテーブル席に座る。ぬるいコーヒーを啜ると、カウンター席の男と目があった。男はかなりの年齢に見えるが身なりは綺麗で、体格もよく、騎士か警察でもしていたのだろうと想像できるような出で立ちだった。
ルゥが会釈をすると、老人は手元の本に視線を戻した。
「えっと、こっちが店主のタイラーさん。ペトラはお店のことは何もやってないから、タイラーさんのお店みたいなものなんですって。それでこっちは常連のハルスさん。今二人にお話を聞いてもらってたんだけど……何処まで話したか忘れちゃったわ」
「ルゥさんが悪者の大群をやっつけたところです」
「そう! それでね……」
大群ではなく二人だ、と野暮なツッコミを入れて雑談の邪魔をする気にはなれず、コーヒーが完全に冷めてしまう前に飲み干すことにした。実際、大群であっても同じようにやっつけていただろうし。
ルゥは、エリカが饒舌に昨日のことを語るのを聞いていた。
「本当にそう思うなら、その金貨は貰わないほうがよかったな」
ずっと黙って本を読んでいたハルスが声を出すと、一気に店内が静かになったような気がした。
「なんでよ。悪人を懲らしめたんだから、良いことじゃない」
「懲らしめることのできる悪ってのはごく僅かだ」
「ハルスさん――」
間に割って入ろうとするタイラーを無視して、ハルスは話し続ける。
「そいつらにも養ってやらなきゃいけない兄弟や家族がいたとしたらどうだ」
「あなた、家族がいれば誘拐してもいいっていうの?」
「違う。そいつらは家族を養うために、お前らを誘拐できなかった分の埋め合わせの他に、金貨三枚分になる仕事をしなくちゃならないんだ。それで犠牲になるのは貧民街の子供かもしれないし、下級貴族かもしれない。ああいう奴らには他に金を得る手段がないんだ」
「……警察はいないの?」
「警察が動くのは上級貴族に被害が出るときか、王宮関係の仕事のときだけだ。この街に期待するんじゃない」
「ハルスさん、もう良いじゃないですか。……はは、ルゥさん、そこの新聞を取ってもらえますか?」
「了解した」
タイラーは頭を掻きながら新聞紙を受け取った。
「ふむふむ、昨日は川の方のレストランで、女王様のお姿が目撃されたそうですよ。写真だとよくわかりませんけど……あ、これが女王様でしょうか」
「新聞なんか読んでも何の役にも立たんさ」
「手厳しいですね。でも女王様ですよ、ひと目見てみたくはないですか?」
「いいや」
「捻くれ者ね! そういうあなたは何を読んでるのよ!」
エリカがハルスの隣の椅子に登ると、ハルスは鬱陶しそうに本を閉じる。膨れ面をするエリカを宥めるように、タイラーがトーストを差し出した。
「ハルスさんが読まれているのは、聖典ですよね。私は信心深くはないので、ちゃんと読んだことはありませんが……。ハルスさんもトーストはいかがですか? ブランチには質素ですけど、サービスしますよ」
「結構だ。予定があるから、失礼する」
代金を置いていそいそと立ち去るハルスを見ながら、エリカはトーストを頬張った。
「聖典ってアレでしょ? 大昔に勇者がどうとかってやつ」
「そうですね。大雑把には、人類が魔族との戦いで負けそうになったところに人類で唯一魔法を使える勇者様が現れて、一気に形勢逆転。そのまま魔族を滅ぼして、平和が訪れた、という内容が書かれているはずです」
「それくらいなら私も知ってるわ」
「昔は流行ってたようですけどね。魔法を使えるのは魔法使いの家系の貴族だけでしたから、勇者様直系の子孫だというのにも説得力があったみたいで。でも技術の進んだ今となっては魔法を込められた結晶を使えば誰でも魔法は使えてしまいますし、なんていうか……今の魔法は神秘的な感じがないですから」
「神秘じゃ列車は動かないってお父様が言ってたわ」
「仰るとおりですね」
トーストを食べ終え、エリカが立ち上がった。
「私も少し出かけてきていいかしら。夕方までには戻るわ」
「ええ、いってらっしゃいませ。お気をつけて」
聖都ポートラインには、この国の背骨となるエイド川が流れている。王宮のさらに北の山から南の村々まで、荷物も人も運んでいた。川の上や川沿いに、港町まで列車が引かれた今でも、水運は文明の重要な役割を担っている。
昼のエイド川を構成するのが、水、ゴミ、船、そして人々の喧騒。南方から来た商人や、ポートラインに住む上級貴族、出稼ぎの労働者、誰もが夢を見ることのできる都の、最も栄えた通りなのである。
そんなエイド川の賑やかな街中で、川へと降りる石階段にエリカの姿があった。
エリカは階段に腰掛けると、ポケットから三枚の金貨を取り出した。
「なんなのよ、あいつ」
朝、コーヒーハウスでハルスに言われたことを思い出していた。
自分がもらったこの金貨のせいで、誰かが不幸になっているのだろうか。
何人が不幸になるのだろうか。
金貨一枚で、一体、何人分の命なのだろうか……。
昨日も聞いた喧騒なのに、今のエリカには違って聞こえていた。やけに口喧嘩の声ばかりが気になって、人を咎める声が全て自分を責めているように聞こえるのだ。
エリカは立ち上がると、手に持った金貨をエイド川に思い切り放り投げた。
その金貨は眩しい太陽の光を反射しながら吸い込まれるように水面に向かって落ちてゆき――水面に当たって跳ねたかのように、今度は浮かび上がった。浮遊する金貨はエリカの方へと戻り、そして頭の上を通過する。目で追うと、その先には階段の上に立つハルスが居た。彼が浮遊魔法を使ったのだ。
通行人がハルスをじろじろと見た。
「勿体ない。要らないなら俺がもらっていくぞ」
唖然とするエリカを置いて、ハルスは立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
「何だ?」
「何だじゃないわよ、この泥棒!」
エリカは縄張りを侵された猫のような形相でハルスを睨みつける。
「お前が捨てたものを回収しただけだ。泥棒ではない」
「なっ……」
「朝言ったことを気にしているんだろう?」
ハルスが拳を突き出した。言葉を継げず固まるエリカの手を取って、金貨を握らせる。
「昨日お前を襲った連中も、今日は誰かに襲われるかもしれない。それは自分じゃなくて、自分の子供かもしれない。今日幸せに生き延びた人も、明日は攫われて売られるかもしれない。悪だとか、そうじゃないとか、ここでは気にするだけ無駄なことだ」
反論したい気持ちだけはあっても、どう言えばいいのかエリカにはわからなかった。
「わかったら店に戻ってやれ。夕方からは忙しくなるかもしれない」
エリカはうつむいて、帰ってきた金貨を見つめた。視線を前に戻すと、ハルスの姿はなかった。日が傾き始めていた。