プロローグ 然る老婆の昔話
暖かな日差しと部屋に流れ込むそよ風を感じて、ベッドに横たわっていた老婆がゆっくりと瞼を開いた。
見慣れた天井、風に揺れるレースのカーテン、質実剛健といえば聞こえはいいが貴人が使用するには殺風景な部屋……目覚めた場所が見慣れた光景であった事に安堵を感じつつ、ゆっくりと横たえていた身体を起こそうとした。
「ルーナ様、お目覚めですか?」
傍に控えていた中年の侍女が素早く近寄り、ルーナと呼ばれた老婆を手助けしてその身を起させ、その背中にクッションを差し入れた。
「ありがとうエリーズ。 はぁ、歳は取りたくないものですね……」
このやり取りに慣れているのか、溜息を吐く老婆に侍女は苦笑いを浮かべた。
コンコン
二人が何気ない談笑をしている時、不意に扉がノックされる音が響き渡った。
「失礼いたします、ルーナ様。 “国王陛下”が御目見えになられました」
「まあ、陛下が?」
「いかがいたしますか?」
「少々、お待ちいただいてくださいな。 すぐに身支度を整えますので」
「かしこまりました」
老婆は侍女の手を借りて、最低限の身支度を済ますと、部屋に“国王陛下”を通すように命じた。
部屋には、髪に白いものが混じった初老の紳士が入室してきた。
「ようこそお越しくださいました、陛下」
「お、おやめください、“母上”!」
老婆がベッドで身を起こした状態から頭を垂れると、“国王陛下”と呼ばれた初老の紳士は、慌てた様子で老婆を制止した。
「あら、公的な場では何時もそうお呼びしていると思いますけど?」
「私的な場にまで、持ち込まんでください……」
「ふふ、ごめんなさい。 あなたがいつも慌てて止めてくるので、つい悪戯心が芽生えてしまって」
「は、母上ぇ……」
老婆のちょっとした悪戯に“国王陛下”は溜息を吐きながらベッドの横にある椅子へと、崩れ落ちるように座った。
「あなたが訪ねて来てくれて、私とても嬉しいですよ“ヴィクトール”」
そう言って母は息子の手に自らの手を重ねた。
「はい、母上。 ……寂しい思いをさせてしまいまして、息子としては情けない限りではありますが」
「今まで激務続きで大変だったでしょう? その辺は私も心得ていますよ、良く頑張りましたね」
「この歳で、母上にその様に褒められるのは中々に気恥ずかしくはありますが……そう、言っていただける事はうれしく思います」
息子は母の手を取ると、母の手の甲に額をそっと押し付けた。
母はその姿を愛しそうに見つめながら、息子の頭を撫でた。
久方ぶりの母子の触れ合いを楽しんだ後、母子はお互いの手を放した。
「それで、貴方は何をしに私に会いに来たのですか?」
「ああ、そうでしたね。 本題がまだでした」
「では、お茶でもいただきながら伺いましょうか? エリーズ、お願いできますか?」
「畏まりました。 少々、お待ちください」
暫くすると、お茶の準備が整えられてベッド横のサイドテーブルに二人分のティーカップが置かれた。
「本日は、母上に報告に参りました」
「報告……ですか」
息子は手に持っていたティーカップを置くと、姿勢を正した。
「このヴィクトールは、本日を持ちまして“テラエ王国国王”を退位し、我が子ジルベールへと王位を譲位致しました」
「まあ、王位を“ジル”に? あんなにおっとりした子で大丈夫でしょうか?」
「母上、何時の話をしているのですか? ジルベールはすでに成人していますよ」
成人していると聞いて母は、驚いた顔をした。
「ああ、そういえばそうでしたね……はぁ、やっぱり歳は取りたくないものですね」
母のちょっと拗ねた様な仕草に、息子や侍女が苦笑いを浮かべる。
「……まあ、良いです。 可愛い孫が立派に成長した事を知れた事は良い事ですから」
「母上にそう言っていただけたなら、ジルベールもきっと喜びましょう」
「そうですか……では、“私の役目”は終わったの……ですね」
「……母上?」
息子が母の態度が変わった事に戸惑う中、母はその身を正して息子を見据えた。
「ヴィクトール」
「はい、母上」
「昔話を……しましょう」
母はそう言って、懐かしそうに、どこか物悲しそうに言った。
「む、昔話とは……?」
「……私の歩んできた道程、歴史には残せない者たちの軌跡、国を残し繋ごうとした者たちの足掻き、そして……その翼で私達を、影となって護ってくれた“鴉”たちの戦いの記録……」
これは四百年の歴史を持つ、十星の神の加護を与えられた“テラエ王国”の玉座を揺るがす物語。
“百年戦争”と呼ばれた凄惨な戦争の後に起こった、王位争奪の内乱の物語。
“月の女神の名”を冠する姫の王道を進む物語。
“月の姫”と“名も無き鴉の騎士”の物語。