研究所で・おぼろ月夜に・招待状を・見ていて隠された意味に気が付きました。
私は確信し、吐き気を催した。
届いた手紙はこう末尾で記されていた。
「それではごきげんよう。
貴方はいつも我々に見られているという覚悟をお持ちな勇敢な方でいらっしゃる。ならば我々もその勇敢さに応えなければならないと考える。これからの生活を努々疑う事なかれ。我々は感心しているのです。貴方並びに他のご友人達の果敢さに。忘れもしないおぼろ月夜の晩に貴方方は我々の住まいに忍び込んできた。立ち入り禁止の文字が読めないのかと爺は
怒りましてね、宥めるのにいささか時間が掛かったのでおもてなしをする時間が遅れたことをここにお詫びいたします」
拍子抜けした。開く前は私の浅はかな行動を非難する文章が並んでいるかと思った。研究所と呼ばれた建物は古びていたが鉄筋コンクリートで作られていて表面は剥げかけていたが、朽ちてはいないようだと青年は思った。若かったある青年と友人達は、立ち入り禁止の看板を飛び越えて懐中電灯片手に、伸び放題の雑草をかき分けかき分けて建物に辿り着いた。理由は肝試しか度胸試しかは忘れたが、とにかく刺激を求めて忍び込んでやろうという若さ故の好奇心と溢れんばかりの欲望がかっかと体を焼くのを収めたかったのかもしれない。廃墟と化している研究所は、施設らしい器具すら残っていないこざっぱりとした物だったが、剥がれた壁や懐中電灯に照らされた柱の影などは若者の恐怖心を満足させた。若者はわいわいと騒いでいた。だが今の時代のようにスマートフォンもビデオカメラすらも無い30年近く前の話だ。懐中電灯と記憶だけが若者の冒険の証明になる。媒体として有効なのは日記ぐらいなものだ。だから見知らぬ他人に共有出来ない環境の体験は、集団の一つを纏めるのに有効な心理的親密さを産んだ。運命共同体である盟友たちは皆、若気の至りを思い出しては集まってその話をする。その会が終わってほろ酔いで家に帰ってきたところで、薄暗い街の電灯の中で持ち家のポストに封筒が突っ込まれているのに私は気付いた。暗い色のポストなので目立つのだが、郵便物なら専業主婦の妻が気付かないはずはない。それに郵便なら遅い時間帯に配達などしない。誰かがわざわざ突っ込んだのか、と思いかけてまさかと私は笑った。人生に恥は多けれど、恨みを買う覚えは無い。人間関係でもめたと思いつくのは、大学時代と社会人に渡って付き合っていた彼女の心変わり、出世レースで競った同期。だが人を恨む程の事をしていないと、酒が回った頭でそんなことで恨まれるなんてとんでもないと、私は鼻息を荒くして主張出来る。まあいい変なDMなら破り捨てようと、封筒を引っ張り出そうとしたら予想以上にその封筒は長くてポストの端まで突っ込まれてなお、封筒の頭が飛び出ている。市販の封筒に規格はあるだろうから、そんな事あり得ないだろうと思ったが、とにかく妙に長い白封筒をジャケットのポケットに突っ込んで家へと入った。
お風呂に入ってくれと出迎えてくれた寝間着の妻が言うので、先に風呂を済ますと妻も怪訝そうな顔で封筒を眺めていた。やっぱり夫婦なんだなと長年連れ添った彼女が同じ観点を持っていることに安堵した。
変な封筒ですね。こんな長いの、売ってないわ。捨てましょうか。いやいい。どうせ嫌がらせかもしれないが、どうせだから付き合ってやろうじゃないか。一度見ておかしかったら捨てる。そうですか・・・・・・。
妻はそれ以上何も言わず、封筒を天井の電灯に透かしてみようとしたが、中はぎっしり詰まっているようだった。そして変な物なら捨ててくださいねと言い、彼女は二階の寝室にあくび一つして戻っていく。俺はと言うと、まだ酒が抜けていないので上機嫌で封筒をぶんぶん振りながら寝室の横にある書斎に向かった。乱雑に封筒の端を千切って、逆さにして振ると手紙らしき便せんの束が思った以上に勢いよく出てきた。机の上でそうしたのだが、何枚かは飛び散って床から拾い上げる羽目になる。やれやれと思ってなんとなく取り上げた便せんはこう書いてあった。
「あなたのおそばで見ていました。
あなたの肌が少しにきびが出来て汚い感じでした。大蒜のような強い香りが唇の端からしていましたね。大口で笑うものだから、ニラのような緑色が歯に貼り付いて
どうにも滑稽でございました。我らはそれを見て笑っていたのです」
なんだこりゃ、と思わず口に出した。人生は長く過ごしているが、こんなに詳細に覚えられるまで他人に顔をまじまじと見られた経験は無い。昔の彼女だろうかと思ったが、こんな文体で手紙を書く女性に心当たりが無かった。ご丁寧に便せんの左端にはページ数が振られていた。少し青みがかったインクは万年筆だろう。数字通りに読み進めていく。
そこに書かれている内容に心当たりが無かったが、読み進めていくうちに思い出した。大学が終わり就職祝いだと地元に帰っていつもの仲間とわいわいやっていた。隣の県だから気兼ねは無いが、それでもなかなか帰らなかったのを非難されつつ、度胸試しだと研究所に今から行こうと誰ともなく言い出して、そのまま向かった。おぼろ月夜だった。だから暗くて雰囲気はばっちりだった。怖がりながら面白がりながらも進んでいた俺たちの足取りが、鮮明に書かれていた。誰々が嫌だと言い、からかいながら進んだこと。わざとほこりの分厚い層に足跡を残し、壁を蹴った者。唾を吐いた者。タバコをふかして吸い殻を捨てていった者。仲間しか分からないはずなのに、それらを全て「見ていた」「見て笑った」「見て怒った」と書かれながらも肌にニキビがある事や誰々が浅黒いこと、全ての身体的特徴が細かく、細かく便せんにそれこそびっしりと文字で羅列されていて、当時の記憶と遜色ない事にだんだんと恐怖心が湧いてきた。どうして知っているんだ、誰も知らないはずなのにと俺が呟くが読み進める手が止まらない。次の便せんをめくったとき、そこに答えが書いてあった。
「貴方方は誰も気付かなかったようですが、あの場所は我々の家なのです。我々は訳あって透明な姿へと変わりました。食物も要らず、高度な生命体であると自負しております。だから我々は貴方方をじっと見つめていたのです。それこそ肌と肌が触れ合う距離で、丁寧に観察していたのです。興味を持ったのです」
「貴方方を今も見ています」
情けない声が漏れ、歯が震えた。透明な人間が、手紙の中で語られている人物名から察するに、少なくとも20人以上はあの研究所にいてそこに暮らしている。その透明人間達は忍び込んできた自分達をなめ回すように観察していた。その事実だけが淡々と書かれている。そして末尾には。
「それではごきげんよう」
待ってくれ、と泣き出しそうな声が漏れた。そして視線を感じ、全てを理解した私は吐き気を催した。
原典:一行作家