第二章 1
様々な国や地域における主要な都市から外れた場所でも、河川のそばや経済的立地などの何かしらの要因で商業や工業などを生業とする人々が寄り集まって集落となり、やがて小さな町となる様な場所というのはそこかしこに在るものである。
ストーンリバー王国にもその様にして出来た町がいくつも在り、その一つにドンラーガ服飾工房は建っていた。仕立て屋にして服飾職人のドンラーガ・ノーワンの自宅を兼ねた小さな工房では、親方であるノーワンと、ヒヨシマルを含めた三人の弟子達が日々研鑽を積みながら新しい服を製作しているのであった。
俺の名はドンラーガ・ノーワン。男性。今年で48歳。
猿の獣人だ。と言ってもヒヨシマルとは違うもっと大型の猿だけどな(地球におけるマウンテンゴリラに相当)
15歳で成人するとすぐに先祖代々の家業でもあった服飾製作の道に入り、長い下積みを経て先代の親父から跡を継いだ。今ではここは俺の工房だ。
世間の一部じゃ俺の事を“伝説の仕立て屋”って呼んでるよ。
あれは34歳の時だった。俺は“ある方法”を使ってそれまでの衣服には無い、新しい分野の開拓を試みた。
そうして出来上がったのが、“イカ用ウェットスーツ”だ。耐水性と伸縮性に優れ、サメの歯からの防御力まで兼ね備えたそれは、イカの養殖に一役買うはずだったんだが……結局売れなかった。
それでもそんな俺の発明を評価してくれる人達もいてな。一応、世間に俺の名が少し知られるようになったんだ。
そして43歳の時、3年にわたる試行錯誤の末生み出されたのが、“ミミズ用靴下”だ。
無いはずの部位に対応する衣服という、それまでの常識を覆す俺の発明は、ソルオリジン諸国のみならず、海外の諸外国でも注目を浴びた。
そうして俺はいつしか“伝説の仕立て屋”と呼ばれるようになったというわけだ。
工房の奥には小さな炊事場と居間が設けられている。主に従業員の休憩や昼食に利用される場所だ。
ここで俺は毎朝黒い豆粒を挽いて粉状にしたあと、それ専用の器具に載せてから沸騰させた湯をゆっくりと垂らす作業をしている。
何のために? そりゃもちろん、“コーヒー”を楽しむためさ。
仕事が始まる前の短い時間、静寂に満たされた俺の工房内。俺専用の背もたれの大きな一人掛けの椅子に、先代譲りの年季の入った大きな木の机。
ここで俺は湯気が立ち上るコーヒーカップを手に、深く椅子に腰掛けて寛ぐんだ。仕事前の大切なひと時ってやつだな。
始業時間まではまだ余裕がある。俺はコーヒーの香りで安らぎ、苦味とほのかな酸味を楽しみ、そして熱で体を温めつつ物思いにふける。
それは昨日の夜の事ーー
その日の仕事を終えた俺は、工房の隣に立つ我が家に帰って夕食をとった。その後風呂に入り、パジャマ姿で家族と共にリビングでテレビ(*)を見て過ごしていた。
(* この世界にもテレビがあります。電波ではなく魔力を使用しますが概ね地球のテレビと変わりありません。ちなみにヒヨシマルは所得の都合上、テレビを所有していません)
俺たちが見ていた番組は「特選!世界の怪奇ミステリー!」
これ以上無い程に分かり易いベタなタイトルの通り、オカルトネタに焦点を当ててそれを紹介する番組だ。
出演しているタレントや一般人のゲストなどが様々に面白おかしく反応するのを見て楽しむという、毎週夕方に放映されている1時間枠のバラエティ番組だ。
今回のネタは、世界中で稀に目撃れているという、空から突然あり得ないものが降って来る怪奇現象(*)についてだった。
(* 地球でもファフロツキーズ現象という名で実在しています)
動物の毛の様な物や異様な色のついた雨、さらには魚やカエルなどの動物や誰かのノートなど、通常では考えられない落下物が次々と紹介さていた。
そして司会者による進行の元、出演者達が口々に意見を述べたりボケたりして観客たちが笑い声やどよめきをあげたりする様子が画面から流れていたーー
ーー徐々に夜も更けてきて気温も下がり、外からは涼やかな音色を立てる虫の鳴き声が聞こえていた。
リビングでは相変わらず俺の妻と娘が、あのテレビ番組を見て楽しんでいた。
だが、俺の意識はすでにテレビに向いておらず、流れ出るタレント達の掛け合いによる音声は、俺にとっては気に留める事もないBGMと化していた。
(……くだらねぇ……)
俺は番組で落下物の内容について語られた時点で番組への興味を失っていた。
ビール缶を片手にだらりと伸ばし、パジャマ姿でソファへ体を預けながら、俺はぼんやりと天井を見上げつつ大きくため息をついた。
(空から降って来るっつったら、“美・少・女”……だろ? わかってねぇなぁ……)
この時、俺はまだいたいけな少年だった頃の記憶を思い出していた。
それはとあるテレビアニメの記憶。
俺の人格形成に多大な影響を与えてくれたそれは、今でもこうして脳内で鮮明に再生できる。
そのアニメのタイトルの名は『健全魔女っ子・さじぇすてぃゔはにぃちゃん』
子供向けアニメと銘打っておきながら“扇情的なチラリズム”という全く子供向けでは無い要素がアニメシーンの各所に取り入れられており、特に各話のクライマックスで主人公の女の子が変身しながら空から降りてくる場面があまりにきわどく、当時の俺はそれまで感じたことのない衝撃を受けた。
いや少し違うな。
俺は心を、そして魂を揺さぶるような精神への衝撃というものをまさにその時、生まれて初めて受けたんだ。
だが、そのアニメは当時のお堅い層の人々はもちろん一般の保護者達からも猛烈なバッシングを受けた。教育上良くないって理由でな。
その為最初の数話だけでしかその変身シーンは放映されず、以降は差し替えられたおとなしめの映像になってしまった。
大人になってから小耳に挟んだ話だと、制作スタッフも全員差し替えられたらしいけどな。詳しいことはしらねぇ。
だが、第一話から放映時間を1秒も欠かすことなくバッチリ見ていた俺は、差し替えられて以降も脳内で変身シーンを補完して作品を堪能したものさ。
こうしてまだ年端もいかない身でありながら、俺は「空とは美少女が降ってくるべき所」という強固な信念を手に入れた。
そして「服は無いより有った方が良い」という一聞して当たり前の様でいてその真髄は全く別の所に在るという、俺が過去に出会った誰もが必ず、言いたいことは分かるが決して同意はしたく無いと答える境地に達したのさ。
だからこそ、今日のこのテレビ番組の内容には心底ガッカリした。
美少女そのものじゃないにせよ、ちょっとでもその痕跡を示すモノが降ってきてても良いじゃねぇかよ。
毛だのカエルだの、ちょっと変わったもんが降ってきたぐらいでいちいち騒ぐんじゃねーよ。と悪態が心の中を駆け巡った。
「あれー? お父さん、もう寝るの?」
テレビ番組もまだ佳境に差し掛かった所であるにも関わらず、立ち上がって寝室へ行こうとする俺に、娘(21歳・オコジョの獣人類・OL)が聞いてきた。
「ああ、明日も早いからな。おやすみ」
俺は、声のトーンが低めなのを自覚していた。側から見れば疲れている様に見えるだろう。実際には単に機嫌が悪いだけなんだが。
「「おやすみなさーい」」
娘と妻(47歳・ラッコの獣人類・主婦)から就寝の挨拶を受け取りながら、俺はビール缶を片づけて寝室へ向かうのであった。
「なんーもわかっとらん! 全くけしからん……空を何だと思っとるんだ。美少女が降ってこない空などに何の価値もないわ! 全くどいつもこいつもーー」
そして寝室へ入って一人になった俺は、思わず感情が吹き出しちまった。自然と独り言が出てくる出てくる。
そのままベッドに転がり込んで布団をかぶる。
だが、興奮した状態では当然すぐに眠れるはずもーー
……気がついたら朝だった。体調も良い。寝つきはいいんだよな、俺。
そして、今日になってもまだ昨日の事を引き摺っていた。いや、もう番組の方はどうでもいいんだが。
(やっぱそうだな……美少女が空から降ってくる時は、こう……普段は露出が殆ど無い真面目そうな服なのに、裾とかが風に煽られて……でも見えない……見えそうで、見えない……ここが一番重要なんだよ)
俺は早朝の静かな作業場内で椅子に深く座し、天井を見上げる格好で目を閉じていた。
今、俺の脳裏には、幼少期のものでありながらいつまでも色褪せることのない“美しい思い出”が再生されていた。
鼻の穴が膨らんでいたのは、きっとコーヒーカップから立ち上る香りのせいだろう……おそらく……多分……。
さて、ここからは俺のこだわり抜いたコーヒー……もとい、カッフィーを味わい尽くす時間だ。
俺のカッフィー(コーヒー)歴は長い。
最初の頃は基本中の基本、ペーパードリップだった。
それがカッフィー(コーヒー)の全てだと思っていた。
だがある時ーー
《あまりにも長いので省略》
ーーつまり俺は、コーヒーの味の違いって奴を本当に分かっている漢なのさ。
ただ静かに、俺は右手に持ったカップを口につけ、カッフィー(コーヒー)を流し込む。
カッフィー(コーヒー)が持つ芳醇な香りと苦味、それを引き立てるほのかな酸味だけが俺の心を満たしていく。
こうしてカッフィー(コーヒー)を口に含ませ、自身の味覚をそれに浸す時。人は孤高の存在であるべきだ。俺はそう思っている。
なぜならカッフィー(コーヒー)を最も美味く味わうコツは“勝ち誇る”ことだからだ。
理由? そんなものはいらない。実際に何かに勝利している必要もない。
必要なのは“表情”と“気持ち”だけでいい。
今ならそうだな……今俺が居るこの“小さな工房”。ここは俺にとって“世界”そのものと言っていい。
何を言ってるんだって? 考えてもみろよ、確かに実際の世界というものはとてつもなく広いのだろう。
それは俺も認めるところだが、人一人が一生のうちに知ることのできる”世界”というものは本当に同じぐらい広いのか?
例えば読者様方がこれまで実際に見て、聞いて、嗅いで、味わって、そして触れてきたもの。
なにより人生の記憶の全ては世界全体と同じぐらい広いと言えるのか?
違うよな、一部、それも本当に小さな小さな一部でしかないはずだ。
俺だってそうだ。俺にとっての“世界”とは、服飾職人として歩んできた人生とその記憶だけだ。
だから俺は今まさに工房の主、つまり王様なんだよ。
馬鹿な事を言うなって? 思うだけなら誰にだって出来るさ。そうだろう?
さあ、味わい尽くしたこのカッフィー(コーヒー)を堂々と飲み込むとしよう。
胸を張って左腕は肘掛けに、両足を大きく開いた尊大な姿勢で自信を全身に漲らせた俺。
流れ込むカッフィー(コーヒー)が喉へとさしかかる。
俺はまさにこの瞬間、世界を手にいれーー
「親方ァ!! 空から全裸の大男がぁ!!!」
ーーそれはあまりにも唐突で、突然で、いきなりだった。
俺のアホ弟子こと、ヒヨシマルがけたたましい大きな音を立てて扉を開け、勢いよく叫びながら工房に飛び込んできやがったのだ。