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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第5章/この目を見つめて(Kakeru Chiaki)
95/122

80.待っていたんだよ


 それは去年の年末のこと。時間帯は深夜だった。


 僕は寝室で一人、ベッドに腰かけたまま、スマホを見つめて呆然としていた。

 あの頃大好きだった懐かしのダンスミュージックなのに心踊る感覚はなく、もはや“音”としか認識できない。ただそこに映っているものに意識を奪われるばかり。


 そしてパフォーマンスが終わり、マイクを向けられたところで実感がぶり返す。



『1年E組、千秋カケルです。僕はフィンランドから……』



「ああっ、やめて!!」



 まだ全部聞き終えてないのに僕は頭を抱えて叫んだ。思わず身体を激しく捩る。


 この後、どんな言葉が続くかもうはっきりわかっている。さっきから五回も再生しているからもう覚えてしまったよ。


 そんなに悶絶するなら見なきゃいいのに。わかってはいるんだけど、なんかの間違いであってほしい、そんな往生際の悪さが僕に何度も再生をタップさせた。



 この文化祭のダンス動画は、同日の二十時に投稿されたらしい。

 僕は仕事の帰りが遅くなったから、その時間には間に合わず後で見る形となった。せっかく岡部くんをはじめとした後輩たちが投稿してくれたんだ。ちゃんと確認しておかなきゃと思ってさ。


 そしたらこれだ。思ってもみなかった事態だ。


 僕はてっきり、二年生の頃の文化祭動画を投稿するんだと思ってた。だけど実際に投稿されたのは一年生の頃の動画。


 岡部くんはメッセージアプリにはっきり西暦を書いていてくれたんだけど、もう昔のことだからそれだけじゃピンとこなかったんだ。


 相原さんにも許可をもらったという。それが誤解の原因だった。

 同級生である彼女がダンス部に入部してきたのは、確かこの文化祭から数ヶ月後。つまり文化祭で舞台に立つことになったのは二年生の頃なんだ。三年生になるとみんな受験や就職活動に備えて部活は引退していたし。


 でも今回投稿された動画を見たとき意味に気付いた。

 相原さんはこのときにも映っていたんだ。文化祭実行委員として。僕たちダンス部員がステージから降りた後に司会進行役を引き継いでいた。


 どうしても正面から見たいと他の委員たちに頼み込んでいたらしく、パフォーマンス中は一時的に客席にいたらしい。だから僕に質問を投げかけることができた。

 ……という詳細をさっき電話で相原さんから聞いたところ。


 思えば彼女とはクラスも別だった。だから僕は全然気付かなかったという訳だ。



 はぁ〜〜……と、長い長いため息が漏れる。

 全国規模で放たれた伝説。もはや恥ずかしさを通り越して脱力状態だ。


 かといって岡部くんたちを責める訳にはいかない。削除してもらうとか……いくらなんでも申し訳なさすぎてできないよ。勘違いしていたのは僕の方なんだから。


「これ、トマリも見ちゃうよね、きっと」


 知り合いに見られることは割と早く諦めがついた。結局、一番気がかりなのはそれだ。


 トマリが幼い頃の出来事を覚えてなかったらなんとかなったかもしれない。

 でも彼女はあの花火の夜に、間違いなく「ダニエル、ごめんなさい」と言ったんだ。


 これを見ることで、ダニエルと僕が結びつく……なんてこと、あるんだろうか。気にしすぎだろうか。


 こうしている間にもどんどん再生数が伸びていくし、なのにどうすることもできないし、こんなにも無力を感じたのは旅館の彼女と離れ離れになったとき以来かも知れない。


 とりあえず寝よう。これ以上考えても無駄。岡部くんたちには明日お礼を言うとして。

 そう自分の中で区切りをつけて、僕は動画アプリを閉じた。


 電気を消して寝転がる。冬なのに布団もかけないまま、仄暗い天井をぼんやりと見つめる。


「トマリ……」


 その名を呼ぶと胸の奥が軋むのがわかった。


 一度は距離を置いた。でも思いがけず再会した。

 体調悪そうだった。怪我もしてた。あの後のことが気になる。ちゃんと回復できたんだろうか。


 僕はこれからどうしたらいいんだろう。もう中途半端なことをして彼女に迷惑かけたくないよ。


 例え僕の正体がわかったって、今の君には一番に大切な人がいるんでしょう。

 そうなんでしょう? トマリ。


 唇が震える。熱いものが込み上げてくる気配がして、僕はやっと布団にくるまった。



 次の日の朝は本社に出勤した。靴を履いているのに、まるで氷の上を歩いているような冷たい感触。

 すれ違う人々が皆、僕の方を振り返っているような気がした。


 エレベーターで六階に上がってすぐのことだった。


「ね、私もびっくりしちゃった! あれやっぱり千秋さんだよね」


「間違いないでしょ。名前同じな上に面影もあったし」


「昔は純粋だったんだね〜。人って変わっちゃうんだなぁ。今は女性関係で問題になってるし。下手したら飛ばされますよ、あれ」


 廊下の曲がり角で話していた女性社員たちが僕の姿を捉えるなり、口元を手で押さえたり気まずそうに目を逸らしたりなんかした。


 僕が会釈すると、彼女たちも遅れて同じように返してくれた。


「千秋さん、おはようございます」


「久しぶりですね、本社にいらっしゃるの」


「おはようございます。今日は会議があるので。またすぐ店舗を回る日々に戻ると思いますよ」


「そうですか〜、あはは。お体に気をつけてくださいね〜」


「ありがとうございます。それじゃ」


 僕は彼女たちとは別方向に歩いていく。

 しばらくするとさっきより潜めたような声が後ろから聞こえた。


「ずるいよね、あの笑顔」


「本当。今までどれだけの女の子が泣かされてきたんだろうね」


 僕、意外と聴力あるんだよね。こうして噂が再燃していることもわかってしまう。片桐さんに誤解されたあたりからたまに耳にするようになった。


 でも大丈夫。こんなのは大したことない。命に関わる訳でもないし。

 あのときのトマリの衰弱した様子を思い返す度にそう思った。


 僕はどれだけ誤解されてもいい。ただ君を守りたい。

 その役目は自分じゃないとわかっているのに、願望は強くなる。


 喉から溢れそうなざわつきをごくりと一度飲み下した後、僕はオフィスのドアを開けていつも通りの笑顔をつくった。



 僕に対する処分は、実際ところまだ何も下されていない。でも時間の問題かも知れないと覚悟はしてる。


 公私混同した。自分勝手な振る舞いをした。それも善意みたいな顔をして。僕にはそんな最低な一面がある。それは事実だから。

 片桐さんもトマリの彼氏さんも、ある意味的確に見抜いているよ。


 だからこそ思うんだ。そもそも僕なんかが彼女に手を差し伸べるなんておこがましいんじゃないかって。


 でも泣いている彼女を見ると、胸の奥を締め付けられてるみたいに苦しくて苦しくてたまらない。本能に突き動かされそうになってしまう。


 物理的に距離を置こう。そんな試みだって何度もした。なのに彼女と僕は何度でも再会してしまう。


 お手上げだ。

 もうどうしていいのかわからない。



 会議なんて今まで何度もしてて慣れてるはずなのに、この日はなかなか重い疲労感がのしかかった。昼までみっちりかかったのもあるだろうけど。


 午後はバイヤーとの打ち合わせ。近々リニューアルする店舗の工事中のスケジュールや開店に向けたレイアウトを一緒に考えた。


 先週の商品動向の分析もした。上司に報告した後、各店舗の店長たちにメールで一括送信。質問などの返信には一つ一つ答えていった。


 慌ただしくはあったけど、なんとか十八時までには終わった。これもある程度、マネージャーの仕事に慣れてきたからこそだ。



「千秋、今日は疲れたろ。気をつけて帰れよ」


「ありがとうございます。菊川さんもお気をつけて」


「はは、俺は大丈夫だよ。じゃあな」


 会社最寄り駅の前で別々の方向へ分かれた。


 動画のことについては何も触れなかった菊川さん。単に気付いてないだけかもしれないけど、いま言うべきかそうでないかを常に考えているような人だから実際のところはわからない。



 電車の座席に座ってすぐのときだった。スマホの振動に気付いた。


 ちらっと見えた通知に出ていたのは『ダニエル』という名前。

 ダニーから連絡が来るのは結構久しぶりだ。内容は見えなかった。何かあったのかな。僕はすぐにトーク画面を開く。



『カケル、今夜時間ある?』



 僕はしばらく固まっていた。

 凄く簡潔な文なのに、なんか普段のダニーのテンションではない気がした。それはある種の予感だったと言えるかも知れない。


 スマホを弄れるまで少し時間がかかったと思う。


「十九時にはマンションに着くと思うよ。どうしたの? 電話?」


 そう送った。既読はすぐについたんだけど、返事がなかなか届かない。


 でもそう感じただけかも知れない。不安なときって、待ってる時間がとても長く感じるから。


 しばらくして返事が届いた。そこに記されている時間を見て、やはりそんなに経っていなかったんだと知った。


 先にそんなところに着目したのは、きっと見るのが怖かったから。


 内容が目に入ったとき、周囲の音が消えた気がした。



『お前に会いたい。やっと自分の気持ちに整理がついたから』



「ダニー……?」



 隣の人がこちらを向いた気配がして我に返った。それでも胸は落ち着きなく騒いでる。痛みまで伴って。



――お前、本当に綺麗になったな――



――もっと早くお前の理解者になりたかった。でももう遅いよな――



 あのときの感情が鮮明に蘇る。僕たちの間の大切な何かが壊れてしまった音、それがたまらなく切なくて。

 僕は泣いたんだ。辿り着いた公園で、人気ひとけが少ないのをいいことに。



 電車を降りて駅を出て、僕はすぐに電話をかけた。でもどれだけ呼び出しても繋がらなかった。


 どうして。焦燥がつのっていく。

 マンションの前に着いたとき、やっとダニーから電話がかかってきた。

 僕はエレベーターに乗り込みながらそれに出る。


「もしもし! ダニー、今何処にいるの!?」


『どうしたカケル、そんなに慌てなくてもいいんだぞ。ゆっくり帰って来い』


「だって会うんならダニーと待ち合わせしなくちゃ。僕なら大丈夫だよ。時間あるから」


『だから焦らなくていいって。すぐに会える』


 すぐにってどういうこと?

 疑問に思ってる間にエレベーターのドアが開いた。


「とにかく時間と場所を決めようよ。何処だったら……」


 そして僕の声は途切れる。


 肩まで髪がサラサラと夜風に靡いていた。マフラーくらい巻いてくればいいのに、そんなに胸元の開いたコートを着て。


 透き通るような白い肌、僕とおそろいのグレーの瞳。


 既に僕の部屋の前に立っていた、懐かしい姿。思えば春からずっと顔を合わせていなかったんだ。



「ダニー、おかえり」


「ああ、ただいま。カケル」



 普通は逆だ。だけど僕たちはそんな奇妙な言葉を交わし合った。

 まるで昔からそれが自然であったかのように。


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